第三十八章 七人の乙女
大久米命が言った。
「嫁を探しませんか」
「…………」
「国を治めるなら——隣にいる者が要る。一人で治められる国はない」
「……急だな」
「急ではない。——即位してから半年、毎朝一人で宮の前に座っている総帥を見ていれば、誰でも気づく」
「…………」
「高佐士野に——良い娘がいるそうです」
「良い娘」
「この土地の娘たちが、野で花を摘んでいると。——見に行きませんか」
「見に行く、とは何だ。俺は六十を過ぎた男だ。花を摘む娘を覗きに行く歳ではない」
「覗きではない。——散歩です」
「散歩」
「畝傍山の東の野を散歩する。たまたま娘がいる。たまたま目が合う。——それだけのことです」
大久米命は——こういうことを平然と言う男だ。忍坂で久米歌を合図にした男。歌を武器にした男。——歌を使える男は、言葉を使うのもうまい。
高佐士野に行った。
散歩として。——大久米命が隣にいた。散歩に付き添いがいる時点で散歩ではない。しかし言い張った。散歩だ、と。
野は広かった。草が生えている。花が咲いている。——名前を知らない花が多い。日向の浜の花とは違う。山の花だ。小さくて、色が薄い。
野の真ん中に——人がいた。
七人。
娘が七人。花を摘んでいた。笑いながら。話しながら。——若かった。俺の半分も生きていない。俺の三分の一かもしれない。
遠くから見ていた。——また遠くから見ている。浜で吾平津媛を見ていたときと同じだ。六日間黙って突っ立っていたあのときと。——あれから何十年経って、同じことをしている。
血だ。——どうしようもなく、血だ。
「声をかけないのですか」
「……黙れ」
「黙っていたら始まらない。——前の奥方のときも、六日間黙っていたと聞いています」
「誰から聞いた」
「多芸志美美命から」
「息子が——余計なことを」
「余計ではない。——父上の弱点を教えてくれた」
「弱点」
「女の前で声が出なくなる。——天孫の血だそうで」
「…………」
「私が声をかけましょうか」
「…………」
「黙っているということは——頼む、ということですね」
「……頼むとは言っていない」
「言わなくても分かる。——聞く係は聞こえたことを全部言うんでしょう。今、私には聞こえました。『頼む』と」
「…………聞こえすぎだ」
大久米命が歩いていった。七人の乙女の方に。堂々と。——迷いがない足取り。戦場で先頭に立つのと同じ足取りで、花を摘む娘の方に歩いていく。
娘たちが気づいた。男が来る。——一人が指を差した。大久米命の顔を。
「あの人——目の周りに何かある」
入れ墨だ。大久米命の目の周りには入れ墨がある。久米の者のしるし。目の縁に沿って青い線が入っている。
娘の一人が声を上げた。
「どうしてそんなに目を裂いているの。怖い顔」
大久米命が笑った。
「人に早く会いたくて——目を大きくしたのさ。出会う相手を見逃さないように」
娘たちが笑った。——怖がっていた顔が笑いに変わった。大久米命は歌で空気を変える男だ。言葉で空気を変えることもできる。
「あんたは誰。——どこから来たの」
「橿原の宮の者だ。——あそこの宮を建てた方に仕えている」
「宮の方? ——あの、新しい宮の?」
「そうだ。——あの方が、散歩をしていてな。たまたまここに来た」
大久米命が振り返った。俺を。——指した。
七人の目が——俺を見た。
逃げたかった。——六十三歳の男が、花を摘む娘七人の目から逃げたかった。しかし足が動かなかった。足の裏が温かい。ここは大国主命の道の上だ。足が——地面に張り付いている。
先頭の娘が——歩いてきた。
七人の中で一番前にいた娘。一番多く花を持っていた娘。
背が高かった。——娘にしては。まっすぐ立っている。目が大きい。黒い目。しかし奥に——別の色がある。黒の奥に。見たことのない色。
近づいてきた。——俺の前に立った。
「あなたが——宮の方?」
「…………」
「…………」
「……ああ」
一語しか出なかった。——ニニギの血だ。花の前で四つしか言葉が出なかった曾祖父の血だ。俺は一語だ。四つより少ない。退化している。
「お名前は」
「……神倭伊波礼毘古。——長い。狭野と呼んでくれ」
「狭野」
「……ああ」
「私は伊須気余理比売。——みんなはイスケと呼ぶ」
イスケヨリヒメ。
名前を聞いた瞬間——足の裏が跳ねた。温かさが。一瞬だけ、強く。今まで感じたことがないくらい。
「……あなたの前だと」
「はい?」
「……足の裏が——」
「足の裏?」
「……何でもない」
何でもないわけがない。——しかし「足の裏が温かい」と初対面の娘に言えるか。言えない。六十三歳でも言えない。
大久米命が後ろで笑っていた。声を出さずに。肩を揺らして。——殴りたかった。しかし功のある男を殴るのは不公平だ。功があるからこそここにいるのだから。
「散歩ですか」
「……散歩だ」
「毎日されるのですか」
「……たまに」
「明日もされますか」
「…………」
「明日もここにいます。——花がまだ残っているので」
「……ああ。——明日も散歩する。たまたま」
「たまたま。——はい」
イスケヨリヒメが笑った。
——波が消える笑い方ではなかった。吾平津媛の笑い方とは違う。波が消えるのではなく——音が増える笑い方。笑うと周りの音が全部聞こえるようになる。花の音。草の音。風の音。虫の音。——全部の音が、この娘の笑い声と一緒に鳴り始める。
聞く男は——耳がやられた。一撃で。
帰り道。大久米命が隣を歩いた。
「どうでしたか」
「……黙れ」
「気に入りましたか」
「……黙れと言っている」
「明日も来ますか」
「……来る」
「散歩として?」
「…………」
「もう散歩で通すのは無理でしょう。——七回通えば求婚です。この土地の習いでは。あと六回、散歩の口実が要りますね」
「……お前は仲人の才能がある」
「先鋒の長が仲人を務める。——悪くない転職です」
宮に帰った。
多芸志美美が入口にいた。——毎回いる。
「どうだった」
「……何がだ」
「散歩」
「……散歩だった」
「顔が赤い。——散歩で顔が赤くなるのか」
「日に焼けただけだ」
「夕方なのに」
「…………」
「父上。——良い人がいたなら、行けばいい。母上はもういない。母上が怒ることはない」
「……怒るか」
「怒らない。——母上は、父上が一人でいるのを一番嫌がるだろう」
「…………」
「聞いてたでしょう。——母上の最後の音を。波に混じって消えた音を。あの音は『一人でいるな』と言っていたはずだ」
息子に——見透かされた。聞く男が息子に聞かれた。
「……明日も行く」
「行ってこい。——散歩として」
〈第三十八章・了〉




