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第三十七章 戦のない朝


「橿原——狭井河のほとり」

第三十七章 戦のない朝

 波の音が——聞こえない。

 当たり前だ。ここは盆地だ。海がない。波がない。——四十五年間、毎朝波の音で目が覚めていた。十八年間、船の上で波を聞いていた。六十三年間ずっと波がそばにあった。

 ない。

 代わりに——鳥が鳴いている。虫が鳴いている。風が木の葉を鳴らしている。水路の水が流れている。——静かな音ばかりだ。海の音は大きい。山の音は小さい。

 小さい音の朝に——目が覚めた。

 宮の中。布の上。一人。

 隣に誰もいない。——吾平津媛あひらつひめが死んでから、ずっとそうだ。隣に息の音がない。波より近い音が。波より温かい音が。

 戦の間は気にならなかった。軍の中では一人でいることが当たり前だった。将は一人で寝る。一人で起きる。一人で判断する。——一人でいることが仕事だった。

 戦が終わった。

 一人でいることが——仕事ではなくなった。仕事ではなくなったのに一人でいる。——急に、寒い。

 宮の外に出た。朝。

 畑が広がっている。——兵だった男たちが畑にいた。くわを持っている。弓ではなく。剣ではなく。

 見分けがつかない。日向ひむかの男も安芸あきの男も吉備きびの男も——くわを持てば同じ姿になる。弓を持てば出身が分かった。弓の引き方が土地ごとに違ったから。くわの振り方は——同じだ。土を掘る動作に土地の差はない。

 兵が農夫に戻っていく。——いや、元に戻ったのだ。もともと農夫だった。兵は仮の姿で。農夫が本当の姿で。

 道臣命みちのおみのみことが畑の端で指示を出していた。先鋒の長が——うねの配置を指示している。

「そっちの列をもう少し北に寄せろ。水路に近い方がいい」

 戦場で先頭に立っていた男が、畑で先頭に立っている。——人の前に立つ性分は変わらない。立つ場所が変わっただけだ。

 大久米命おおくめのみことが歌を歌っていた。——久米歌ではない。別の歌。畑の歌。種をくときの歌。拍子に合わせてくわを振る歌。

 忍坂おしさかで汚した歌を——新しい歌で上書きしているのかもしれない。あるいは、最初からこの男にとって歌は歌で、殺しの合図はたまたまだったのかもしれない。——分からない。分からないが、歌が聞こえる朝は悪くない。

 椎根津彦しいねつひこが水路のそばに座っていた。足を水に入れて。

「やることがなくなった」

「…………」

「海がない。潮がない。渦がない。——水先案内の仕事がない」

「水路がある」

「水路は潮が読めなくても流れる。——上から下に流すだけだ。俺がいなくてもいい」

「…………」

「暇だ。——暇は初めてだ。亀の上にいたときは暇だと思わなかった。釣りがあったから。ここには釣る場所がない」

「川がある」

「川の魚は——潮を読まなくても釣れる。つまらない」

「……贅沢な男だな」

「海の男は陸で贅沢になる。——やることがないからだ」

 椎根津彦しいねつひこが水路の水をった。水がねた。——海の水ではない。山の水だ。冷たくて澄んでいる。

 多芸志美美たぎしみみは——忙しかった。

 宮の周りの家を建てている。船を作った腕で。柱を選び、板を割り、屋根をく。——船大工が宮大工になった。

 嫁が隣にいた。安芸あきの船大工の娘。手が大きくて温かい女。二人で並んで板を削っている姿が——似合っていた。

 俺の隣には——誰もいない。

 足の裏が温かい。——毎朝温かい。畝傍山うねびやまの麓は大国主命おおくにぬしのみことの道の十字路だ。どこを歩いても温かい。

 温かい。——しかし、足の裏の温かさは足の裏だけだ。体の残りは——寒い。

 国は取った。宮は建てた。即位した。名を改めた。——全部やった。

 それで——俺は誰と暮らすのだ。

 この宮で。この温かい土地で。この静かな朝に。——誰と飯を食って、誰と波の音を(もうないが)聞いて、誰と眠るのだ。

 六十三歳。花の血を持つ男の六十三歳。——残りが多いとは思えない。残りが少ないなら——一人で過ごすのは惜しい。

 惜しい。——四十五年待った男が「惜しい」と思うのだから、本当に惜しいのだ。

 夕方。宮の前に座っていた。畝傍山うねびやまを見ていた。

 祖父が丘の上で海を見ていたように。——俺は宮の前で山を見ている。海の代わりに山を。見ているが何も見えない。見えないのに見ている。

 ——血だ。これは血だ。

〈第三十七章・了〉

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