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第三十六章 橿原宮——即位


 宮を建てた。

 畝傍山うねびやまの北の麓。足の裏が一番温かかった場所に。

 大きな宮ではない。柱を立て、はりを渡し、屋根をいた。日向ひむかの家より少し大きいくらいの。——父の産屋うぶやは屋根がき終わらなかった。俺の宮は——き終わった。間に合った。

 多芸志美美たぎしみみが柱を選んだ。安芸あき吉備きびで船を作った目で。「船の柱と宮の柱は同じだ。——まっすぐで、太くて、乾いた木がいい」と。船大工の息子は宮大工にもなれた。

 椎根津彦しいねつひこが水路を引いた。「水は上から下に流す。——海も陸も同じだ」と。水先案内は水路案内にもなった。

 弟宇迦斯おとうかし弟磯城おとしきが土地の者を集めた。宮の周りに家が建ち始めた。降った兵の一部が戻ってきた。——武器ではなくくわを持って。

 橿原宮かしはらのみや。——橿かしの木が多い場所だから、そう呼んだ。

 即位の日を——決めた。

 日を選んだのは俺ではない。足の裏で選べるものではない。こよみを知る者がいた。——邇芸速日にぎはやひの屋敷にいた老人で、天のこよみを知っていた。天のこよみで良い日を選んでもらった。

 天のこよみで、地の宮で。——矛盾しているが、矛盾したまま進む。この国は矛盾でできている。天の血と地の血と海の血が混じった男が建てた国だ。矛盾していない方がおかしい。

 即位の朝。

 宮の前に——人が集まった。

 兵。千二百と少し。十八年を共にした者たち。日向ひむかの男。安芸あきの男。吉備きびの男。宇陀うだの者。磯城しきの者。吉野よしのの山の民。——全部混じっている。

 椎根津彦しいねつひこが最前列にいた。道臣命みちのおみのみことがその隣にいた。大久米命おおくめのみことが後ろにいた。弟宇迦斯おとうかし弟磯城おとしきが端にいた。石押分之子いわおしわくのこが——尾を揺らしながら後ろの方にいた。

 多芸志美美たぎしみみが——俺の隣に立っていた。

 名を改める。

 狭野さの。——四十五年と十八年。六十三年使った名前。浜の末子の名前。聞く係の名前。記す係の名前。

 この名を——降ろす。

「今日から——名を改める」

 声を出した。宮の前で。——でかい声ではない。しかし宮の壁が少し響いた。橿かしの木の柱が音を返した。

神倭伊波礼毘古命かむやまといわれびこのみこと

 長い。——この家系は名前が長い。曾祖父そうそふのニニギよりは短いが。父の鵜葺草葺不合命うがやふきあえずのみことよりも少し長い。

 神の。倭の。伊波礼の。毘古。

 神は天。やまとはこの土地。伊波礼いわれはこの場所の古い名。毘古ひこは男。——天の名と地の名を合わせた名前。天だけでも地だけでもない名前。

 即位の言葉を——言った。

 用意していたわけではない。——聞こえたことを言った。足の裏から。この土地から。十八年の道から。

「ここに——宮を建てた」

「…………」

「ここに建てたのは——ここが一番温かかったからだ」

 兵が少しざわめいた。——温かい、が意味するものは、俺にしか分からない。しかし構わない。分からないまま聞いてくれればいい。

「この場所は——誰かが歩いた道の上にある。俺より先に。ずっと先に。国を作って、道を通して、いなくなった者がいる。その者の道が——まだ温かい。温かいから、ここに建てた」

「…………」

「この場所は——誰かに与えられた場所ではない。天から降ろされた場所でもない。俺が選んだ。聞いて。歩いて。足の裏で」

「…………」

日向ひむかの浜で四十五年聞いていた。美々みみつから十八年歩いた。岡田宮おかだのみやで一年。多祁理宮たけりのみやで七年。高島宮たかしまのみやで八年。浪速なにわで負けて。紀伊きいで兄を埋めて。熊野灘くまのなだで兄を二人失って。山を越えて。——ここに着いた」

「…………」

「着いた場所で——言う」

 息を吸った。六十三年分の息を。

「ここに、する」

 「ここにいる」ではない。

 大国主命おおくにぬしのみことは「ここにいる」と言った。——い続ける男の言葉。何度殺されても、何度砕かれても、ここにいると言い続けた男。

 曾祖父そうそふのニニギは——天から降りて「ここにいる」と言った。降りた場所に根を張った男。

 祖父の山幸彦やまさちひこは——海から帰って「ここにいる」と言った。後悔ごと根を張った男。

 俺は——違う。

 ここにいる、ではない。ここに、する。

 与えられた場所ではない。降りた場所でもない。帰ってきた場所でもない。——聞いて、歩いて、選んだ場所。六十三年かけて選んだ場所。

 「いる」は受け身だ。場所が先にあって、そこにいる。——「する」は能動だ。場所を自分で決める。ここを、自分の場所にする。

 ここに、する。

 兵が——声を上げた。

 千二百の声。日向ひむかの声。安芸あきの声。吉備きびの声。宇陀うだの声。磯城しきの声。吉野よしのの声。——全部の声が混じった声。

 でかくはなかった。——しかし揃っていた。

 五瀬命いつせのみことがいたらもっとでかかっただろう。三毛入野命みけいりぬのみことがいたらもっと明るかっただろう。稲飯命いなひのみことがいたらもっとまっすぐだっただろう。

 いない。——しかし声はある。いない者の穴を含んだ声。穴が開いたまま揃っている声。

 それでいい。——それで十分だ。

 記す。

 東征、終わる。

 日向ひむかを出て十八年。四十五歳の末子が、六十三歳の初代になった。

 得たもの。国。

 一文字で書いた。——一文字で足りる。国。この土地。この盆地。この宮。この人たち。全部含めて——国。

 失ったもの。兄三人。船。兵。右手の感覚の一部。旗。笑い声。弓の腕。まっすぐな背中。——数え切れないすべて。

 得たものは一文字。失ったものは数え切れない。——釣り合わない。釣り合わないが、これが十八年の帳簿の結末だ。

 軍記を——閉じる。

 ここから先は——数えない。

 兵の数は数えない。もう兵ではない。この土地で暮らす者だ。船の数は数えない。もう船は要らない。着いたからだ。飯の残りは数えない。この土地で作る。

 数える代わりに——育てる。

 田を作る。水路を引く。道を通す。家を建てる。子を育てる。——大国主命おおくにぬしのみことがやったことと同じことを、もう一度やる。この土地で。

 記す係の仕事は——終わる。ここまでだ。

 ここから先の俺は——記す係ではない。聞く係でもない。

 ここにする、と言った男だ。言った以上——する。

 最後に一つだけ記す。

 軍記の最後に。

 五瀬命いつせのみこと稲飯命いなひのみこと三毛入野命みけいりぬのみこと

 兄たちの名前を——最後の行に記す。帳簿の外に。得たものでも失ったものでもなく。——ただ名前だけを。

 この軍記は——兄たちの遺言で歩いた記録だ。「回り込め」。「矢は置いていく」。「面白い波だ」。——三つの遺言で、ここまで来た。

 ここに、する。——兄たちの声が聞こえる場所に。


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