第三十三章 長髄彦
邇芸速日が従うと言った。
長髄彦は——従わなかった。
報せが来た。邇芸速日の使いから。
「主が長髄彦に伝えた。『私は新たな天の子に従う。お前も従え』と。——長髄彦は断った」
「断った」
「『天の子が従おうが——俺の土地は俺のものだ。天の子の都合で俺の畑は動かない』と」
正しい。——正しかった。やはり正しかった。
天の論理は天の者にしか通じない。邇芸速日は天の者だから「根がある方が正しい」と分かった。長髄彦は地の者だ。天の論理は関係ない。あの男にとっての論理は——汗だ。自分が耕した土だ。天の子が何人降りようが、何人従おうが、畑は動かない。
長髄彦の陣は——盆地の西にあった。
畝傍山の北の裾。山と田のあいだ。砦ではなかった。——土塁があるだけだ。低い。跨げるくらい低い。しかし土塁の内側に——田があった。畑があった。水路があった。
砦ではなく——畑を守っている。長髄彦の陣は、畑の周りに壁を作っただけのものだった。
対話を試みた。——最後に。
使いを送った。「会いたい。話がしたい」と。
返事。「来い。——ただし畑は踏むな」
畑は踏むな。——砦に入るなではない。畑を踏むな。あの男にとって、守るべきものは壁ではなく畑だ。
会った。長髄彦の陣の前で。土塁の外で。
長髄彦は——変わっていなかった。浪速で見たのと同じ男。日に焼けた顔。鍬を振る腕。——しかし今日は弓を持っていた。腰に剣もある。
「また来たか」
「また来た。——南から回り込んだ」
「聞いている。宇陀を落とし、忍坂で八十梟帥を殺し、磯城を開けた。——随分やったな」
「やった。——汚いこともした」
「忍坂のことか。聞いている。——宴で殺したそうだな」
「ああ」
「汚い男だ」
「ああ」
「汚い男と話すことがあるのか」
「ある。——一つだけ」
「この土地を——奪いに来たのではない」
「…………」
「俺もここを耕す。お前の畝の続きから」
「続きから。——俺の畝の続き、だと」
「お前が耕した場所は踏まない。——その隣を耕す。お前の水路は使わない。別の水路を掘る。お前の田は奪わない。隣に田を作る」
「…………」
「一緒に耕せないか。——同じ盆地で。隣同士で」
長髄彦が俺を見た。——長く。
浪速のときと同じ目だった。測る目ではない。値踏みの目でもない。——見定める目。この男が本気かどうか。嘘をついていないかどうか。
俺の声を——聞いているのだと思った。俺が耳で聞くように、この男は目で聞いている。
「……信じられるか」
言った。——低い声で。
「信じられるかと聞いている。——お前の言葉を」
「…………」
「忍坂で四十七人殺した男が——隣で耕すと言っている。宴で人を殺した男が——信じてくれと言っている。信じられるか」
——信じられない。俺が長髄彦なら、信じない。
「……信じてほしい」
「信じられない」
「…………」
「お前は——汚い手を使った。使った男の言葉は信じられない。一度でも嘘をついた者の声は——二度目から全部嘘に聞こえる」
「…………」
「帰れ。——来た道を帰れ。お前の畑は西にあるだろう。日向とかいう場所に。そこに帰って耕せ」
「帰れない。——十七年かけて来た。帰る場所はもうない」
「帰る場所がないのは——俺の知ったことではない」
対話は——失敗した。
通じなかった。花びらが通じた邇芸速日とは違う。長髄彦には——花も矢も関係ない。あの男にとっての証は、汗だけだ。汗で作ったものだけが本物だ。——言葉は本物ではない。ましてや宴で人を殺した男の言葉は。
忍坂の汚れが——ここで最も痛い形で返ってきた。
翌日。邇芸速日から報せが来た。
「長髄彦を——私が討つ」
「……何だと」
「あの男は従わない。私が従うと言っても従わない。——主に従わない家来は、主が処分するのが道理だ」
「待ってくれ。——対話をもう一度——」
「もう一度やっても同じだ。あの男は変わらない。変わらない男を変えることはできない。——変えられないなら、除くしかない」
「…………」
「お前に出来ないなら——私がやる。あの男を連れてきたのは私だ。この土地を任せたのも私だ。——終わらせるのも私の仕事だ」
止められなかった。
止めたかった。——止められなかった。邇芸速日の論理は正しかった。主が家来を処分するのは——天の道理だ。地の道理ではない。地の道理では、耕した者がその土地の主だ。しかし天の道理では——天の子の命令が全てだ。
長髄彦は地の者だが、天の子に仕えた。仕えた以上——天の道理に縛られる。主が従えと言い、従わなければ——討たれる。
俺がやりたかったのは——天の道理でも地の道理でもなかった。対話だった。耕す者と耕す者が、隣で暮らすことだった。——通じなかった。
邇芸速日が長髄彦を討った。
どう討ったか。——詳しくは聞かなかった。聞きたくなかった。
報せだけが来た。「終わった」と。
長髄彦の陣に行った。
土塁の中に入った。——畑があった。水路があった。畝がまっすぐ並んでいた。手入れが行き届いていた。草一本生えていなかった。
足の裏が——温かかった。ここも大国主命の道が通っている。下に。——その上に、長髄彦の足跡がある。何千回も歩いた足跡。耕した跡。水路を掘った跡。全部——冷たくなっていた。
さっきまで温かかった足跡が——冷たくなっている。主を失った土地の冷たさ。
畑の端に——長髄彦が横たわっていた。
目を閉じている。——穏やかな顔だった。怒りの顔ではなかった。戦いの顔でもなかった。——畑で昼寝をしている男の顔だった。
鍬がそばにあった。——剣ではなく。弓でもなく。最後に握っていたのは鍬だったのか。
邇芸速日が後ろに立っていた。白い顔。——血は見えなかった。しかし手が震えていた。
「……終わった」
「…………」
「この男は——最後まで畑にいた。私が来たとき、畝を直していた。——鍬を持って」
「…………」
「『土地を離れろ』と言った。『離れれば殺さない』と。——離れなかった」
「離れないだろう。——あの男は」
「離れなかった。『俺の土地だ』と言った。最後まで。——同じことを」
記す。——記したくないが記す。
長髄彦。死。邇芸速日の手で。
原因。主に従わなかった。——いや、違う。主ではなく土地に従った。天の子に仕えた男が、最後に天の道理を拒み、地の道理を選んだ。自分の土地を選んだ。——だから討たれた。
正しかった。最初から最後まで。「俺の土地だ。俺が耕した」。——正しかった。正しい者が死んだ。
俺の対話は通じなかった。「隣で耕す」は——嘘ではなかった。本気だった。しかし忍坂の汚れが、本気を嘘に変えた。汚い手を使った者の声は——どれだけ本気でも、嘘に聞こえる。
祖父が力で兄を従えて悔いたように。——俺は、正しい敵と対話できなかったことを悔いる。通じなかったことを。
——最後まで、あの男の足音は、この土地の音だった。
〈第三十三章・了〉




