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第三十二章 二人の天孫


 畝傍山うねびやまの東の野。

 朝。日が昇る前に着いた。——日の位置を確かめてから動く。もう二度と忘れない。

 野は広かった。草が伸びている。露が降りている。山の影が長く西に伸びている。——東に俺がいる。西に、もう一人が来る。日が昇れば——俺の背中に日が当たり、向かい合う者の顔を照らす。

 日を背にしている。

 護衛に多芸志美美たぎしみみを連れた。

「いいのか。——椎根津彦しいねつひこの方が戦えるだろう」

「戦う場ではない。——見る場だ。お前の目が要る」

「…………」

「俺の耳と、お前の目で。——二人分の感覚で聞いて見る」

「分かった」

 二人で野に立った。

 西から——来た。

 二人。一人が前。一人が後ろ。

 前の男が——邇芸速日命にぎはやひのみこと

 初めて見た。——天磐船あまのいわふねで降りた天の子。先に降りた者。

 背が高かった。俺より高い。——細い。細いが、芯がある体。くわの体ではない。剣の体でもない。——立っているだけの体。立つことに慣れた体。動かないことに慣れた体。

 顔は——白かった。日に焼けていない。長髄彦ながすねびこの日焼けした顔とは違う。この男は——外に出ていない。屋敷の中にいる。屋敷の中で、天の者として立っている。

 目が合った。

 ——冷たい目だった。冷たいというより——遠い。遠くを見ている目。地上を見ていない目。空を見ている目で、地上の俺を見ている。

狭野さの。——日向ひむかの者か」

「ああ」

「遠くから来た」

「十七年かけて来た」

「……十七年」

「ああ。——長かった。あんたはいつ降りた」

「……覚えていない。長い前だ」

 覚えていない。——降りてから何年か覚えていない。長すぎて。あるいは——数えていなくて。

「天つあまつしるしを見せ合う。——先にどちらが出す」

「同時に出す。——片方が先に出せば、合わせる時間ができる。同時なら合わせられない」

「……用心深いな」

「十七年歩いてきた男は用心深くなる」

 同時に出した。

 邇芸速日にぎはやひが——天羽々あまのはばや歩靫かちゆきを掲げた。

 矢。長い。羽が——鮮やかだった。俺の矢より羽が豊かだ。穂先が光っている。天の金属。——同じ光だ。俺の矢と同じ光。

 ゆき。革が——新しかった。俺のゆきは古びている。あちらのゆきは古びていない。天の道具は長持ちする。しかし——使わなければ、もっと長持ちする。使っていないゆきだ。

 俺も掲げた。天羽々あまのはばや歩靫かちゆきを。羽が痩せた矢。古びたゆき

 邇芸速日にぎはやひが——俺の矢を見た。長く。

「同じだ」

「同じだ」

「同じ矢。同じ穂先。同じ光。——同じ天の血」

「ああ」

「確認できた。——お前は天の者だ」

「あんたもだ」

 同じ。——同じだと確認された。しかしその先に何がある。浪速なにわ長髄彦ながすねびこの言葉が戻ってくる。「二人目は要らん」。

 同じなら——先にいた方が残る。後から来た方が帰る。道理だ。

「確認できた。——では帰ってくれ」

「帰らない」

「……同じ天の血だと分かった。争う理由はない。しかし——この土地は私が先に降りた。先にいる者の土地だ。後から来た者が去るのが——天の道理だろう」

「天の道理は知らない。——俺は地を歩いてきた」

「…………」

「もう一つ——見せたいものがある」

 ふところから——花びらを出した。

 薄桃色。一枚。小さい。——天羽々あまのはばやの横に。矢の隣に花びら。

 邇芸速日にぎはやひが——目を止めた。

「何だ。——花か」

「花だ」

「花が天の証だと?」

「天の証ではない」

「ではなぜ出す」

「天が地に根を張った証だ」

「…………」

「この花びらは——曾祖父そうそふのニニギが、天から降りた地上で出会った女のものだ。地上の女だ。木花之佐久夜毘売命このはなのさくやびめのみこと。花の名前を持つ女。——天から降りた者が、地上の女を愛した。その花が、まだ乾いていない」

「…………」

「天の矢は——天にいた証だ。矢だけを持っている者は、まだ天にいる。降りても天のままだ。——花を持っている者は、降りて、根を張った。根を張ったから花が咲いた。花びらが残った」

 邇芸速日にぎはやひが——花びらを見ていた。遠い目が。冷たい目が。——初めて、近くを見ていた。目の前の花びらを。手を伸ばせば届く距離のものを。

「……私にはない」

「何が」

「花がない。——私は降りた。天磐船あまのいわふねで。しかし——花がない。地上の女をめとらなかった。地上に根を張らなかった」

「…………」

「降りて——降りたまま、ここにいた。長髄彦ながすねびこが土地を作った。私は——見ていただけだ。立っていただけだ」

「……見ていただけ」

「見ていただけの者に——根はない。降りた者が降りた場所のものにならなかった。天のまま地上に立っていた。——それが私だ」

 多芸志美美たぎしみみが俺を見た。——俺は聞いていた。邇芸速日にぎはやひの声を。息の音を。

 嘘がなかった。全部本当だった。この男は——降りたが根を張らなかった。天磐船あまのいわふねで降りて、天のまま地上に立っていた。地上の土を踏まなかった。耕さなかった。めとらなかった。——降りたのに降りなかった男。

「降りた者の血には——降りた場所のものが混じる」

 俺が言った。

「天の血だけでは——地上にはいられない。混じらなければ根が出ない。根がなければ——風が吹いたら倒れる」

「…………」

「俺の曾祖父そうそふは——天から降りて、花の女を愛して、その子が海の女を愛して、その子がまた地上の女を愛した。天の血に地の血が混じり、海の血が混じった。——混じらなかったら、俺はここにいない」

「…………」

「あんたは混じらなかった。天のまま降りた。——だから根がない。根がないのに先にいた。先にいたが——根を張ったのは長髄彦ながすねびこだ。あんたじゃない」

 邇芸速日にぎはやひが——黙った。長く。

 風が吹いた。朝の風。東から。花びらが——風に揺れた。俺の手の上で。飛びそうになって。——飛ばなかった。指で押さえた。

「……先に降りたのは私だ」

「ああ」

「しかし——根を張ったのは。お前の家系だ」

「ああ」

「…………」

「……花は——きれいだな」

「きれいだ。——曾祖母そうそぼの花だ」

「私は花を知らない。——天には花がなかった。地上に降りても——花を見なかった。見ていたが——見えなかった。見ようとしなかった」

 日が昇った。東から。俺の背中を照らした。朝日が邇芸速日にぎはやひの顔に当たった。——白い顔が。赤く染まった。

「私は——お前に従う」

「…………」

「先に降りたのは私だ。しかし根を張ったのはお前の家だ。——根がある者が、この土地にいるべきだ」

「従う、とは——」

長髄彦ながすねびこを——退かせる。私が。私の名前で。私が従うと言えば——長髄彦ながすねびこも従う。主が従えば、家来も従う。——はずだ」

 はずだ、と言った。——「はず」がついた。確信がなかった。

長髄彦ながすねびこは——従うか」

「……分からない。あの男は——私の家来だが、私の言うことを聞くとは限らない。私より先に、この土地に根を張った男だからだ」

「根を張った男は——簡単には動かない」

「動かない。——しかし、私が従うと言えば、大義がなくなる。天の子が従った相手に、天の子の家来が逆らう理由がなくなる」

「理由がなくても——逆らう者はいる」

「いる。……いるだろうな」

 邇芸速日にぎはやひが矢を降ろした。天羽々あまのはばやを。

「矢はもう要らない。——天の証を見せ合う必要はなくなった」

「…………」

「花を一つもらえるか。——地上のものを、一つ」

「……この花びらは渡せない。曾祖母そうそぼの形見だ」

「形見か。——そうか。なら別のものでいい。何でもいい。地上のものを一つ」

 足元の草を一本引いた。野の草。名前も知らない草。——邇芸速日にぎはやひに渡した。

 邇芸速日にぎはやひが——草を受け取った。白い手で。くわを持ったことのない手で。——草を握った。

「……根がついている」

「草だから。——根がある」

「…………」

「根のあるものを持っていれば——少しは根が移るかもしれない。分からないが」

「分からないが——持っておく」

 二人の天孫が向かい合った朝が、終わった。

 邇芸速日にぎはやひが西に帰った。護衛と。草を一本持って。

 俺は東に帰った。多芸志美美たぎしみみと。花びらをふところに戻して。

「通じたのか」

 多芸志美美たぎしみみが聞いた。

「通じた。——たぶん」

「たぶん?」

邇芸速日にぎはやひは従うと言った。しかし長髄彦ながすねびこが従うかどうかは分からない。邇芸速日にぎはやひ自身も分からないと言った」

「…………」

「花は通じた。——しかし花が通じない者もいる。長髄彦ながすねびこは地の男だ。天の証も地の証も——あの男には関係ない。あの男にとっての証は、自分の汗だ。自分が耕した土だ。——花びらでは動かない」

「ではどうする」

「…………」

「父上」

「聞こえたことを言う。——長髄彦ながすねびことは、話が通じないかもしれない。正しい敵との対話は——最も難しい」

 記す。

 二人の天孫の対面。

 同じ天羽々あまのはばやを見せ合った。同じ天の血を確認した。——しかし差があった。花があった。根があった。

 邇芸速日にぎはやひは従うと言った。草を一本持って帰った。

 しかし——長髄彦ながすねびこが残っている。正しい敵が。

〈第三十二章・了〉


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