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第三十一章 邇芸速日の使い


 磯城しきを越えた。盆地の平地に降りた。

 田があった。水路があった。道があった。——人が作った土地。足の裏が感じる二重の温かさと冷たさが、ここでは一番濃い。下の大国主命おおくにぬしのみことの道が太く、上の耕作の層も厚い。

 大和やまとの中心に近づいている。

 陣を張った。盆地の南端。磯城しきとりでを背にして。——背中に味方の門がある形。退く道を確保してから進む。退く旗を作ったときから、そうしている。

 長髄彦ながすねびこの本陣は——北西にある。盆地の奥。ここから二日の距離。

 明日にでも進軍できる。——しかし、使いが来た。

 長髄彦ながすねびこからではなかった。

 使いは一人の男だった。武器を持っていない。衣が違った。土地の者の衣ではない。——細い糸で織った布。日に焼けていない肌。手が白い。くわを持ったことがない手。

邇芸速日命にぎはやひのみことの使いだ」

邇芸速日にぎはやひ——本人ではなく、使いか」

「主は軽々しく動かない。——使いで十分だ」

 主は動かない。門番の長髄彦ながすねびこがいて、その奥に主がいる。主は使いを送る。——偉い者ほど動かない。天の者の作法だろう。

「用件は」

「お前たちは天の子だと名乗っている。——我が主も天の子だ。同じ天の血なら——証を見せよ」

「証」

「天から降りた者の証だ。天つあまつしるし。——我が主は天羽々あまのはばや歩靫かちゆきを持っている。天から持ってきた矢とゆきだ。お前たちは何を持っている」

 天つあまつしるし。天の証。

 天羽々あまのはばや歩靫かちゆき。——持っている。曾祖父そうそふのニニギが天から持ってきた矢とゆき。弓の長だった稲飯命いなひのみことがずっと預かっていた。熊野灘くまのなだで海に入る前に——船の床に置いていった。「矢は置いていく」と言って。天のものは海に持ち込まないと。弓の長の最後の判断で残った形見だ。

 しかし——問題がある。

 向こうも同じものを持っている。天羽々あまのはばや歩靫かちゆき。同じ天の証。見せ合えば——「同じ天の血だ」と確認できる。しかし確認した先に何がある。浪速なにわ長髄彦ながすねびこが言った言葉が返ってくる。「うちにもいる。二人目は要らん」。

 同じ証を持っている者が二人いて、一つの土地を争っている。同じ証では——差がつかない。

「証を見せろ、と言われた。——天羽々あまのはばや歩靫かちゆきはある。見せれば同じ天の血だと分かる。しかし——それだけでは何も変わらない。向こうも同じものを持っている。同じ証を見せ合って、『同じだな』で終わる」

 軍議で言った。

 椎根津彦しいねつひこが言った。

「同じなら——どこで差をつける」

「差を。——差があるのか。俺と邇芸速日にぎはやひに」

「あるから十七年歩いてきたんだろう。——ないなら帰ればいい。同じ者が二人いて、先にいた方が残るのは当然だ。後から来た方に何かなければ——意味がない」

 多芸志美美たぎしみみが言った。

「花びらだ」

「花びら?」

「天羽々あまのはばやを見せた後に——花びらを出す。向こうは矢しか持っていない。俺たちには花がある。天から降りた者が地上で出会った花の一枚。——天の証は同じでも、地に根を張った証は俺たちにしかない」

「…………」

「矢は天の道具だ。矢だけを持っている者は——まだ天にいる。降りたが、天のままだ。花を持っている者は——降りて、根を張った。根を張った証がある方が、この土地にいる理由がある」

「…………」

「矢は天の道具だ。矢を見せれば天の者だと分かる。——しかし花びらを見せれば、天の者が地上に根を張ったことが分かる。どっちが重い」

 息子が——俺より先に答えを出した。

 使いに会った。翌朝。

「証を見せる。——ただし、直接見せる。お前にではなく、邇芸速日命にぎはやひのみこと本人に」

「主は動かない」

「動いてもらう。——証は、見る者の目の前で見せなければ意味がない。使いに渡して持っていかれたら、すり替えられる可能性がある。俺は——汚い手を使ったことがある男だ。だからすり替えの可能性を知っている。直接でなければ見せない」

 使いが——黙った。

「……こちらも同じ条件を求める。我が主の天羽々あまのはばやも、直接見せる。お前の目の前で」

「構わない。——それが一番正しい」

「場所は」

「間を取って。——盆地の中央。どちらの陣からも同じ距離の場所で。兵はなし。本人同士。護衛は一人ずつ」

「…………」

「俺が出る。邇芸速日にぎはやひが出る。二人で証を見せ合う。——それでいいか」

「主に伝える。——返事は明日出す」

 使いが去った。

 椎根津彦しいねつひこが言った。

「罠の可能性はないか」

「ある。——しかし向こうも同じことを考えている。証を見せ合う場で罠を仕掛ければ、天の者として終わる。天の証を見せ合う場で殺し合うのは——天を汚すことだ。邇芸速日にぎはやひがまともな天の者なら、やらない」

「まともな天の者かどうか分からないだろう」

「分からない。——しかし天羽々あまのはばやを持っている以上、天の矜持がある。矜持がある者は——矜持を汚すことを一番嫌う」

「あんたにはないのか。矜持」

「俺には——ない。忍坂おしさかで捨てた。だから俺は罠の可能性まで考える。向こうは矜持があるから考えない。——考えられる方が有利だ。汚い可能性まで見える分だけ、備えられる」

「……怖い男だな」

「記す係なので。——全部の可能性を記す。汚い可能性も」

 翌日。使いが戻ってきた。

「主が承諾した。——明後日。盆地の中央。畝傍山うねびやまの東の野で。本人同士。護衛は一人ずつ」

「分かった。——俺が行く」

 前夜。

 天羽々あまのはばやを出した。古い矢。羽が少し痩せている。しかし穂先は光っている。——天の金属。地上の鉄とは違う。曾祖父そうそふが天から持ってきた矢。

 歩靫かちゆき。矢を入れるゆき。革が古びているが——形は崩れていない。天の者の道具は長持ちする。

 これで——「同じ天の血だ」は証明できる。しかし「同じ」では足りない。「同じだが、違う」と言わなければならない。

 ふところから花びらを出した。曾祖母そうそぼの花びら。木花之佐久夜毘売命このはなのさくやびめのみことの花びら。

 薄桃色。——まだ乾いていなかった。色が残っている。匂いが残っている。

 祖父が死んだとき、「俺が死んだらどうなるか分からない」と言った。乾くかもしれない、と。——乾いていない。祖父が死んでから何十年も経っているのに。

 乾かない花びら。——天から降りた者が地上で出会った花の、一枚。天の証ではない。地の証でもない。——天が地に根を張った証。

 矢を見せて。花びらを見せる。——二つ見せる。同じものと、違うもの。

 天羽々あまのはばやに花びらを添える。矢に花。武器に花。

 ——通じるか。

 通じなければ、戦になる。通じれば——

 通じるかどうかは、明日分かる。

 分からないことは——明日に聞く。

〈第三十一章・了〉


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