第三十章 磯城兄弟
八十梟帥の頭が消えた。
忍坂の翌日から——砦が崩れ始めた。頭がいなくなった砦は、蜂の巣から女王を抜いたようなものだ。兵はいる。しかし命じる者がいない。命じる者がいなければ——散る。
三日で十の砦が空になった。兵は山に逃げた者もいれば、畑に戻った者もいた。——畑に戻った者は追わない。畑にいる者は敵ではない。
残った砦は——磯城だけだ。
磯城は大和の南の要だった。
盆地の南を東西に走る山の尾根の上に砦がある。兵は三百。宇陀の三倍。——この砦を越えなければ、盆地の平地に降りられない。
また兄弟がいた。兄磯城と弟磯城。
弟宇迦斯に聞いた。
「磯城の弟を知っているか」
「知っている。——会ったことがある。祭りの席で。物静かな男だ」
「味方になるか」
「分からない。——宇陀の俺とは事情が違う。磯城の兄は罠を仕掛けるような男ではない。正面から戦う男だ。——弟が裏切る理由がない」
裏切る理由がない。——宇陀では兄が罠を仕掛けたから弟が報せに来た。磯城の兄は正面から戦う男だ。弟が売る理由がない。
「売れとは言わない。——門を開けてくれ、と言う」
「門を開ける?」
「戦わずに通してくれ、ということだ。兄を売るのではなく——門を開けるだけ。兄が正面から戦う男なら、弟が門を開けても、兄は正面から出てくる。兄の名は傷つかない」
「…………」
「弟に使いを出す。——八咫烏を送る」
八咫烏に——使いを頼んだ。
頼んだ、と言うのは正確ではない。烏に言葉は通じない。しかし——温度は通じる。俺が「行ってくれ」と念じると、烏が飛ぶ。俺の意図を温度で読んでいるのか、それとも烏自身が判断しているのか。分からない。——分からないが、飛んだ。
磯城の方角に。
翌朝。弟磯城が来た。
一人で。——弟宇迦斯のときと同じように。武器を持たずに。
しかし——顔が違った。弟宇迦斯は怯えていた。弟磯城は——怯えていなかった。怒っていた。
「三本足の烏が来た。——俺の家の屋根に止まって、朝まで鳴いていた。家の者が怖がって眠れなかった」
「すまない。——加減を知らない烏で」
「何の用だ。あの烏に込められていた意味は分かった。『来い』と言っていた。——だから来た。用を言え」
烏の温度を読めるのか。——弟磯城も「聞こえる」者なのかもしれない。あるいは烏の温度は、聞こえなくても伝わるほど強かったのかもしれない。
「門を開けてほしい」
「門?」
「磯城の砦を通してほしい。——兄を売れとは言わない。門を開けてくれるだけでいい」
「門を開けて——兄を攻めるのだろう」
「兄が門の向こうで待ち構えていれば——戦になる。しかし門を開けた弟が責められることはない。門は弟の持ち場だ。弟が判断することだ」
「…………」
「兄を殺す気はない」
「嘘だ。——忍坂で何をしたか聞いている。宴で四十七人殺したと」
「…………」
「あんたは——汚いやり方をする男だ。宴で人を斬る男に、兄は殺さないと言われて信じられるか」
正しい。——正しかった。忍坂の汚れが、ここに返ってきた。汚い手を使った男は——信用されない。
「……信じてもらえないのは、俺が汚い手を使ったからだ。否定しない」
「…………」
「しかし——磯城では使わない。兄が正面から戦う男なら、俺も正面から行く。宴は開かない。門を開けてくれたら、正面から入る。正面から兄と会う」
「会ってどうする」
「降りてくれと言う。——降りなければ戦う。しかし先に降りてくれと言う」
「降りなければ」
「戦う。——しかし、降った者は殺さない。降った兵は田に返す」
「田に返す?」
「耕す者を殺せば——勝った土地が枯れる。枯れた土地を取っても意味がない。俺は土地が欲しいのではない。——土地で暮らす人間ごと、欲しいのだ」
弟磯城が——黙った。怒りが少し引いた顔で。
「……妙な男だな。殺したり生かしたり。汚かったり正しかったり」
「どっちかに決められるほど——器用じゃない」
「…………」
「門を開けてくれるか」
「……考える。——一日くれ」
翌日。弟磯城が戻ってきた。
「門を開ける。——ただし条件がある」
「聞く」
「兄には先に報せる。『門を開けた。南から軍が来る』と。——兄が正面から構える時間をくれ。不意打ちはさせない」
「構わない。——正面から行く」
「もう一つ。降った兵は殺さない。田に返す。——あんたが言った通りにしろ。約束を破ったら、俺が後ろから刺す」
「約束する。——破らない」
「信じる根拠はないが——烏があんたの声で鳴いた。烏の声は嘘がつけない。あの温度は本気だった」
烏が——信用の担保になった。俺の声ではなく。烏の温度が。
門が開いた。
磯城の南の門。弟磯城が開けた。——兵を引いて、道を空けた。
中に入った。千二百五十人が。日を背にして。
兄磯城が——砦の上に立っていた。弓を持って。兵が並んでいた。二百。——百は弟と一緒に引いた。残り二百で、正面から構えていた。
「来たか」
「来た。——正面から」
「弟が門を開けた。——知っている」
「怒っているか」
「怒っている。——しかし弟を責める気はない。弟には弟の判断がある」
——良い兄だ。宇陀の兄宇迦斯とは違う。弟の判断を認める兄。
「降りてくれ」
「断る」
「戦になる」
「なれ。——正面から来い。お前が正面から来ると言ったなら、俺も正面から受ける」
戦になった。
短く記す。——正面からぶつかった。弓と弓。剣と剣。
日を背にしていた。——今度は、こちらの矢が見えて、向こうの目が眩んだ。浪速の逆だ。五瀬命の遺言が、ここで効いた。
二百対千二百五十。——数が違いすぎた。兄磯城の兵は勇敢だったが、囲まれた。
兄磯城が膝をついた。弓の弦が切れて。剣を拾おうとして——稲飯命の後任の弓頭に肩を射たれた。
「……殺せ」
「殺さない」
「殺せと言っている」
「降った者は殺さない。田に返す。——約束した」
「俺は降りていない。膝をついただけだ」
「膝をついたなら——降りたのと同じだ。生きろ。畑に戻れ」
兄磯城が——俺を見た。怒りと。困惑と。——少しだけ、安堵の混じった目で。
「……妙な男だ」
「よく言われる」
降兵の処遇を記す。
兄磯城の兵二百。うち戦死十五。負傷四十三。残り百四十二。
百四十二人を——武装解除した。弓を取り、剣を取り、手ぶらにした。
そして——田に返した。
「帰っていい。畑に戻れ。——武器を持たずに畑に立つ者は、俺の敵ではない」
兵が——戸惑っていた。殺されると思っていた者が殺されない。追われると思っていた者が帰されている。
一人が聞いた。「本当に帰っていいのか」。
「帰れ。——飯を作れ。田を耕せ。俺たちもいずれこの土地で飯を食う。飯を作る者がいなくなれば、俺たちも飢える。——お前たちが生きていることが、俺たちの飯になる」
汚い論理だ。——優しさではない。損得だ。宇沙都比古の損得の目と同じだ。相手が生きている方が得だから生かす。
しかし——損得で生かされた者は、生きている。優しさで殺された者は死んでいる。どちらが良いか。——生きている方がいい。理由は問わない。
兄磯城の肩の傷を手当てした。弟磯城が。
「兄上。——すまない」
「…………」
「門を開けた。俺の判断だ」
「分かっている。——お前は昔からそうだ。俺より先のことを見る」
「…………」
「俺は目の前のことしか見えない。弓の的しか見えない。——お前は的の向こうを見る」
「兄上——」
「磯城を頼む。——俺はしばらく畑に出る。肩が治ったら」
兄が弟に土地を渡した。——宇陀とは違う形で。死なずに。生きたまま。
記す。
磯城攻略。
方法。弟の内応で門を開け、兄と正面から戦った。宴は使わなかった。——使わないと決めた。忍坂の汚れを、ここで少しだけ洗った。洗えたかどうかは分からない。
降兵の処遇。武装解除の上、帰農させた。殺さない。田に返す。耕す者を殺せば勝った土地が枯れる。
得たもの。磯城の門。弟磯城の協力。降兵百四十二人の——命。
失ったもの。我ら側の戦死七人。名は記した。忍坂で四十七人殺した者が、七人失った。——釣り合いは取れない。取れないが、記す。
〈第三十章・了〉




