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第二十九章 忍坂の宴


 最初のとりで忍坂おしさか

 盆地の南東の端にある大きなむろ——山の斜面を掘り込んだ洞窟のような屋敷に、八十梟帥やそたける土雲つちぐもたちが集まっていた。

 土雲つちぐも。地に住む者たち。それぞれが小さなとりでを持ち、小さな兵を抱えている。一つずつは弱い。——しかし集まると面倒になる。集まる前に潰す。集まった後では——蜂の巣を叩くようなものだ。一匹ずつは小さいが、全部で刺されれば死ぬ。

 弟宇迦斯おとうかしが情報をくれた。

忍坂おしさか大室おおむろに——八十梟帥やそたけるが集まる。長髄彦ながすねびこの号令で。『南から来た軍を止めろ』と」

「何人集まる」

「八十——と言うが、実数は分からない。五十から百の間だろう。かしらだけが集まる。兵はそれぞれのとりでにいる」

かしらだけが集まる」

「はい。——かしらを潰せば、兵は散る」

 かしらを潰す。——潰し方の問題だ。

 軍議を開いた。

「正面から攻めるか」

 多芸志美美たぎしみみが聞いた。

「攻めない。——大室おおむろは山を掘った屋敷だ。入り口が狭い。中が広い。攻め込めば狭い入り口で詰まる。中の者に囲まれる」

「では、どうする」

「宴を開く」

「……宴?」

「飯を出す。酒を出す。——吉野よしので学んだ。飯を一緒に食えば道が開く。忍坂おしさかでも同じだ。飯を出して中に入る。中に入ってから——」

 言葉を切った。——言いたくなかった。しかし言わなければならない。聞こえたことは全部言う。考えたことも全部言う。

「中に入ってから——斬る」

「…………」

「宴の席で。歌を合図にして。——一斉に」

 沈黙。——多芸志美美たぎしみみが俺を見ていた。測る目で。椎根津彦しいねつひこが足元を見ていた。

「汚いやり方だ。——分かっている」

「…………」

「飯を一緒に食った相手を斬るのは——吉野よしのでやったことの裏返しだ。石押分之子いわおしわくのこに顔向けできない」

「……しかし」

「しかし——八十のかしらを残せば、八十のとりでが全部敵になる。一つずつ潰す時間はない。俺は六十を過ぎた。花の血で。——時間がない」

「…………」

「俺が命じる。——俺の判断だ。汚い判断は俺一人の責任だ。手を汚すのは俺だけでいい」

「それは無理だ」

 椎根津彦しいねつひこが言った。

「一人で八十人は斬れない。——手を汚すなら全員だ。全員で汚れる。あんただけ汚れるのは、きれいごとだ」

「…………」

「汚いやり方を命じるなら——命じた後も汚いままでいろ。一人で背負うふりをするな。背負えないものを背負うふりをするのは——嘘だ」

 椎根津彦しいねつひこは水先案内のくせに——言うことが鋭い。亀の上で釣りをしていた男とは思えない。

「……分かった。全員で汚れる」

 宴を準備した。

 使いを出した。忍坂おしさか大室おおむろに。「南から来た者だ。戦うつもりはない。話がしたい。——飯と酒を持って行く」と。

 八十梟帥やそたけるの返事。「来い」。

 来い、と言った。——罠かもしれない。こちらが罠を仕掛けているように、向こうも罠を仕掛けているかもしれない。宇陀うだ兄宇迦斯えうかしと同じように。

 しかし——こちらの罠の方が先に動く。先に動いた方が勝つ。

 大室おおむろに入った。

 兵を選んだ。腕がいい者を五十人。全員に剣を持たせた。——しかし隠させた。腰の布の下に。手ぶらに見えるように。

 酒を持った。飯を持った。——吉野よしのの魚と同じ手で。同じ手の裏に刃を持って。

 大室おおむろは広かった。山を掘り込んだ天井が高い。松明たいまつが壁に並んでいる。中央に炉がある。——八十梟帥やそたけるかしらたちが座っていた。五十人ほど。多芸志美美たぎしみみの偵察通りだ。

 武器を持っている者もいた。しかし——宴の席だ。構えてはいない。

 酒を出した。飯を出した。

 食った。一緒に。——吉野よしのと同じように。向かい合って座って、火を囲んで、酒を飲んだ。

 土雲つちぐもかしらの一人が言った。

「あんた——天の子だそうだな」

「そう名乗っていた時期もある。——今は名乗っていない」

「名乗らないのか。——浪速なにわで名乗って追い返されたそうじゃないか」

「その通りだ。——名乗って負けた」

「正直だな」

「記す係なので。嘘は記せない」

 笑いが起きた。——笑わせるつもりはなかった。しかし笑いが起きた。酒が入ると人は笑いやすくなる。

 笑わせている間に——腹が決まった。

 歌を歌った。

 久米くめの兵たちが歌う歌。日向ひむかから持ってきた歌。働くときに歌う歌。——畑を耕すとき、網を引くとき、船を漕ぐとき。拍子に合わせて体を動かすための歌。

 拍子が——速くなった。

 歌詞が変わった。

 俺が歌った。声は小さい。しかし大室おおむろは響く。洞窟のように。小さい声でも壁に跳ね返って全体に届く。

 歌の中に——合図を入れた。

 剣が抜かれた。

 五十人が同時に。腰の布の下から。

 歌の拍子に合わせて。一拍で立ち、二拍で抜き、三拍で——

 記す。

 書きたくないが記す。飛ばさない。

 斬った。全員を。

 宴の席で。酒を飲んでいる相手を。笑っている相手を。——歌に合わせて。

 戦ではない。謀殺だ。

 八十梟帥やそたけるかしらたちは——剣を抜く間もなかった者が半分。抜いたが構える前に斬られた者が残りの半分。立ち上がれた者はいなかった。

 大室おおむろの床に——血が広がった。松明たいまつの光で赤黒く見えた。酒の匂いと血の匂いが混じった。

 外に出た。

 空を見た。星が出ていた。——星はきれいだった。大室おおむろの中は汚かった。

 多芸志美美たぎしみみが隣に来た。剣を持っていた。血がついていた。

「……父上」

「ああ」

「終わった」

「終わった」

「…………」

「吐くか」

「……吐かない」

「吐いていい。——俺は吐きたい」

「……父上も吐いていない」

「吐いていないが吐きたい。——同じことだ」

 記す。

 忍坂おしさかの宴。

 八十梟帥やそたけるかしら、殲滅。数は——数えたくないが数えた。四十七人。

 方法。宴席での謀殺。歌を合図にした一斉攻撃。

 命じた者。俺。狭野さの

 記す。俺が命じた。汚い勝ち方だ。戦ではない。宴を裏切った。飯を一緒に食った相手を斬った。

 祖父は力で兄を従えて悔いた。宇陀うだでは罠を返して悔いた。——今度は宴で敵を殺した。悔いは——まだ来ない。

 来るのは知っている。——今は来ない。今は時間がない。六十を過ぎた体に、一つずつとりでを落とす時間がない。汚くても速い方を選んだ。

 悔いは後で来る。後で来たとき——受け止める。今は受け止めている暇がない。

 これが将の判断か。——分からない。将になって日が浅い。正しい将がどう判断するか知らない。俺は俺の判断をした。汚い判断を。

 記す。全部記す。——後で読み返して吐くかもしれない。そのときに吐く。

〈第二十九章・了〉


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