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第二十七章 高倉山


 宇陀うだの高台に登った。

 朝。日が昇る前に。——今度は日の位置を確かめてから動く。浪速なにわの失敗は二度としない。

 高台の上に立った。北を向いた。

 ——見えた。

 大和やまとの盆地。

 広かった。山と山のあいだに——平らな土地が広がっている。青い山が四方を囲んでいる。塩椎しおつちおきなが言った通りだった。「青い山が四方を囲む国」。——そのままだった。

 田があった。遠くに。水を引いた田が、朝もやの中で光っていた。道があった。何本も。人が歩いて作った道。集落の煙が何か所も上がっていた。

 国だ。——誰かが作った国。長い時間をかけて。

 足の裏が——温かかった。大国主命おおくにぬしのみことの道が太い。ここは道の中心に近い。日向ひむかの何倍も太い道が、盆地の下を走っている。

 その上に——人の仕事の層がある。浪速なにわで感じたのと同じ。下に神の道。上に人の耕作。二重の土地。

 この土地を——長髄彦ながすねびこが守っている。

 多芸志美美たぎしみみ椎根津彦しいねつひこが並んで、盆地を見ていた。

「見えるか」

「見える。——とりでがある。三つ。盆地の南の縁に並んでいる」

 多芸志美美たぎしみみの目が測っていた。

「南のとりでは小さい。兵は五十もいないだろう。——真ん中のとりでが大きい。磯城しき、と弟宇迦斯おとうかしが言っていた」

磯城しき

磯城しきにも兄弟がいるらしい。兄と弟。——宇陀うだと同じだ」

「同じ構造か」

「同じだ。兄が治めて、弟がいる。——弟が味方になるかどうかは分からない。宇陀うだの弟が味方になったのは、兄が罠を仕掛けたからだ。磯城しきの兄が同じことをするかどうかは——」

「着いてみないと分からないな」

「ああ」

 椎根津彦しいねつひこが指を伸ばした。西を指した。

「あの山の裏が——長髄彦ながすねびこの本陣だろう。盆地の西の奥。浪速なにわからは正面だったが、ここからは裏だ」

「裏から行く」

「裏から行く。——日を背にして」

 日が昇った。

 東から。——俺たちの背中から。

 朝日が盆地を照らした。田が光った。山の影が西に伸びた。——西に向かって影が伸びている。俺たちの影も。

 日を背にしている。

 五瀬命いつせのみことの遺言。「日に向かって戦ったのが悪かった。回り込め。日を背にしろ」。

 回り込んだ。浪速なにわから南へ。熊野灘くまのなだを越えて。熊野くまのの毒の山を越えて。吉野よしのを越えて。宇陀うだを越えて。——ここに立った。

 日が背中にある。影が西に伸びている。これから進む方角に。

「兄上」

 声に出した。高台の上で。兵には聞こえない声で。

「回り込んだ。——ここに着いた」

「…………」

「ここから先は——日を背にして西へ下る。兄上の遺言の通りに」

 風が吹いた。朝の風。東から。背中から。——日向ひむかの風ではない。大和やまとの朝の風。しかし——同じ東の風だ。

「聞いたことを全部言いながら進む。——約束は守る」

 高台を降りた。兵が待っていた。千二百。——少し増えていた。宇陀うだ弟宇迦斯おとうかしの兵が五十加わった。千二百五十。

 全員がこっちを見ていた。

大和やまとが見えた」

 声を出した。でかい声ではない。——しかし静かだったから、届いた。

「盆地だ。広い。田がある。水がある。山に囲まれている。——良い土地だ」

「…………」

「敵がいる。とりでがある。長髄彦ながすねびこがいる。——一度負けた相手だ」

「…………」

「今度は違う。日を背にしている。——朝日が俺たちの背中にある。前には影しかない。影の中に敵がいる。今度は——こっちから敵が見えて、敵からこっちが眩しい」

 兵の目が——変わった。少しだけ。孔舎衛坂くさえのさかで日にかれた記憶がある兵たちだ。あのとき眩しかった側が、今度は眩しくさせる側になる。——それだけで、目が変わる。

「ここから先は——西へ下る。聞こえたことは全部言う。聞こえなかったことは聞こえないと言う。嘘はつかない。——俺にできるのはそれだけだ」

「…………」

「声はでかくない。旗は——まだない。兄の旗は兄と一緒に埋めた。——新しい旗は、まだ見つかっていない」

「…………」

「見つかったら言う。——見つかるまでは、耳で進む。ついてきてくれ」

 兵が——声を上げた。千二百五十の声。

 でかい声ではなかった。——しかし、揃っていた。冬のあいだ退屈するほど並ばせた兵たちだ。声も並ぶ。揃った声は——でかくなくても届く。山に響く。

 兄が言った通りだった。

 八咫烏やたがらすが鳴いた。高台の上から。温かい声で。

 ——進め。

 記す。

 迂回作戦、終わる。

 美々みみつを出てから——十七年。浪速なにわの敗戦から一年と少し。紀伊きいを南に回り、熊野灘くまのなだを越え、熊野くまのの山を越え、吉野よしのを越え、宇陀うだを越えた。

 得たもの。剣一振。布都御魂ふつのみたま。光らない地の剣。

 烏一羽。八咫烏やたがらす。三本足の案内者。

 山の民。石押分之子いわおしわくのこ井氷鹿いひか。尾のある者と水の者。

 内応者。弟宇迦斯おとうかし。兄を売って土地を残した男。

 飯。吉野よしのの魚と宇陀うだの米。

 日を背にする位置。——五瀬命いつせのみことの遺言の実行。

 失ったもの。兄二人。稲飯命いなひのみこと三毛入野命みけいりぬのみこと。船二隻。兵百七十人。右手の感覚。

 ——数え切れないものは、数えない。笑い声。弓の腕。まっすぐな背中。声の高い兄の「面白い」。無口な兄の「引いてみろ」。

 帳簿の外に——穴が三つある。兄三人の穴。声と弓と笑い。

 穴は埋めない。穴のまま進む。西へ。


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