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第二十六章 宇陀の調略


 山を越えた。

 吉野よしのの谷から北へ。石押分之子いわおしわくのこが尾を揺らしながら先を歩き、井氷鹿いひかが水脈から時々顔を出して「こっちだ」と言った。獣道が少しずつ広くなった。人が通った形跡が出てきた。

 二日で——山が低くなった。木が薄くなった。空が広くなった。

 大和やまとの南端。宇陀うだ

 宇陀うだは山と盆地の境目の土地だった。

 南は山。北は開けた土地。——大和やまとの盆地に続く入り口。ここを通らなければ盆地に降りられない。

 門だ。大和やまとの南の門。

 この門を——誰かが守っている。

 多芸志美美たぎしみみが偵察に出た。戻ってきた。

「兄弟がいる」

「兄弟?」

「この土地を治めている兄弟だ。——兄の方が大きな屋敷を持っている。弟の方が小さい。兵は——百もいない。我らの十分の一だ」

「敵か」

「分からない。——しかし兄の屋敷の周りに、妙なものがある」

「妙なもの」

「屋敷の入り口に——新しい御殿が建っていた。出来たばかりの。柱が新しい。——しかし人が住んでいる気配がない。誰のために建てたのか」

 我らのためだ。——直感がそう言った。千二百人の軍が南から来ることを知って、迎えの御殿を建てた。歓迎か。罠か。——どちらでもあり得る。

 夜。陣を張った。宇陀うだの南の山際に。

 見張りを立てた。——明け方、見張りが一人の男を連れてきた。

「こいつが——暗闘の中を一人で歩いてきた。武器は持っていない。話がしたいと言っている」

 小さい男だった。若い。顔が怯えている。——しかし足は止まっていない。怯えながら来た男。怯えても来る理由がある男。

「名は」

弟宇迦斯おとうかし。——宇陀うだの弟です」

「兄がいるな」

兄宇迦斯えうかし。——はい。兄が宇陀うだを治めています」

「なぜ一人で来た」

「……報せに来ました」

「何を」

「兄が——罠を仕掛けています」

 弟宇迦斯おとうかしの話を聞いた。

 兄宇迦斯えうかしは——南から大軍が来ることを知っていた。長髄彦ながすねびこから報せが来たらしい。「浪速なにわで追い払った軍が南から回り込んでいる。宇陀うだで止めろ」と。

 兄は百人の兵では千二百人に勝てないと分かっていた。——だから罠を仕掛けた。御殿を建てて、客として迎え入れるふりをして、中に入ったところで殺す。

「御殿の天井に——仕掛けがある。柱を引くと天井が落ちる。中にいる者は——全員潰される」

「…………」

「兄は——言いました。『天の子だろうが何だろうが、天井の下では死ぬ』と」

 正しい。——天の血があっても天井に潰されれば死ぬ。血は盾にはならない。

「なぜ報せに来た」

「……兄を止めたかった」

「止めたかった。——止められなかったから、こっちに来たのか」

「はい。——兄は聞く者ではありません。決めたら変えない人です」

「聞く者ではない、か」

「弟の言葉は聞かない。——昔からそうです」

 兄弟の話だ。長兄が聞かない。末弟が聞こえている。——覚えがある。

「お前は——兄を売ることになるぞ」

「分かっています」

「分かった上で来たのか」

「……兄が罠で人を殺せば、宇陀うだは終わります。大軍を殺しても——次の大軍が来る。そのときは宇陀うだが焼かれる。——兄を止めることが、宇陀うだを残すことだと思いました」

 弟が兄を売る。——その判断が正しいかどうか、俺には分からない。分からないが——この男の声に嘘はなかった。息の音が変わっていなかった。怯えているが——嘘はついていない。

 軍議を開いた。

「罠の御殿がある。天井が落ちる仕掛けだ。入れば死ぬ」

「入らなければいい」

 椎根津彦しいねつひこが言った。

「入らなければ——兄宇迦斯えうかしは別の手を使う。百人の兵で夜襲をかけるかもしれない。毒を撒くかもしれない」

「先に攻めるか」

「百人を潰すのは簡単だ。——しかし宇陀うだを焼けば、この先の道が閉じる。宇陀うだ大和やまとの南の門だ。門を壊して入れば——中の者が全員敵になる」

「……では、どうする」

「罠を——返す」

 翌朝。

 兄宇迦斯えうかしの御殿に向かった。俺と。弟宇迦斯おとうかしと。椎根津彦しいねつひこと。兵百人。

 御殿が見えた。新しい。柱が白い。——立派だった。歓迎の御殿として見れば、十分な作りだ。

 兄宇迦斯えうかしが出てきた。大きな男だった。弟より二回りは大きい。笑顔で。——笑顔の下に、別の顔がある。声の温度が合っていなかった。口は笑っているが、息の音が冷たかった。

「遠路ようこそ。——御殿を用意しました。どうぞ中へ」

「…………」

 御殿の前に立った。

 聞いた。——足の裏で。

 宇陀うだの地面は——大国主命おおくにぬしのみことの道が少しだけ通っていた。吉野よしのよりは薄いが——ある。足の裏が聞こえる。

 御殿の床下から——音がした。

 軋む音。木と木が擦れる音。——仕掛けの音。天井を支えている柱が、別の柱と綱で繋がっている。綱を引けば柱が倒れ、天井が落ちる。その構造が——軋んでいた。新しい木は乾いていない。乾いていない木は重さで軋む。

 聞こえた。全部。

「——入らない」

「は?」

「入らない。——お前が先に入れ」

 兄宇迦斯えうかしの顔が変わった。笑顔が消えた。

「何を——」

「床下が軋んでいる。——仕掛けがあるな。天井が落ちる仕掛けだ」

「…………」

「聞こえた。木の軋みが。綱の張りが。——俺は耳がいい。嘘の笑顔の温度も、床下の仕掛けの音も、全部聞こえる」

 兄宇迦斯えうかしが——後ろに下がった。顔が白い。

「お前が作った御殿だ。——お前が入れ。お前が入って、仕掛けが安全だと見せてくれたら、俺も入る」

「…………」

「入れないなら——仕掛けがあるということだ」

 兵が兄宇迦斯えうかしを囲んだ。百人。弓を持って。

 椎根津彦しいねつひこが後ろから御殿の柱を確認した。「綱がある。——引けば天井が落ちる。弟の言う通りだ」と。

 兄宇迦斯えうかしが——御殿に入った。

 自分で。自分の足で。——押されたのではない。弓を向けられて、観念して、自分で入った。

 入った瞬間に——天井が落ちた。

 自分の仕掛けが——自分の上に落ちた。

 轟音。埃。——静かになった。

 弟宇迦斯おとうかしが泣いていた。

 兄を売った男。兄の罠を報せた男。——兄が死んで泣いている。

「……矛盾しているな」

「矛盾しています。——しかし、兄です」

「…………」

「止めたかった。報せれば——止まると思った。罠があると分かれば、兄も諦めると思った。——諦めなかった」

「諦めなかったな。——お前の兄は、決めたら変えない人だった」

「はい」

「…………」

宇陀うだは——どうなりますか」

「お前が治めろ。——門を守れ。俺たちが通った後も、門を守り続けろ」

「……はい」

「飯を用意してくれ。千二百人分。——飯を出す者は味方だ。旗はいらない。飯があればいい」

 弟宇迦斯おとうかしが涙を拭いた。飯の支度に走った。——走れるなら大丈夫だ。泣いても走れる男は——折れない。

 記す。

 宇陀うだの調略。

 罠を察知した方法。三つ。弟の内応。俺の耳(床下の軋み)。椎根津彦しいねつひこの目(綱の確認)。

 内応者の扱いについて記す。弟宇迦斯おとうかしは兄を売った。その判断が正しかったかどうか——俺には分からない。しかし宇陀うだは残った。弟は兄を失い、宇陀うだを残した。

 兄宇迦斯えうかしは自分の罠で死んだ。俺が殺したのではない。——しかし俺が「お前が入れ」と言った。言った以上、俺が殺したのと同じだ。

 記す。——汚い勝ち方だ。罠を返したのは正しい。正しいが汚い。正しさと綺麗さは別のものだ。祖父が力で兄を従えて悔いたように——俺は罠を返して、悔いている。

 悔いることが正しいかどうかも分からない。——ただ記す。悔いているということだけ。

〈第二十六章・了〉


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