第二十五章 吉野
煙の方に歩いた。
山を一つ越えたら——谷があった。川が流れていた。水が澄んでいた。川沿いに木を削った小屋が点々と並んでいる。人がいる。
飯の匂いがした。魚を焼く匂い。——千二百人の腹が同時に鳴った気がした。
谷に降りた。
五瀬命なら、ここで旗を掲げただろう。「天の子が来た」と名乗っただろう。——俺はやらない。浪速で学んだ。旗は効かない。名乗りは届かない。
何もせずに——降りた。
武器を持たずに。手ぶらで。一人で。
椎根津彦が「危ないぞ」と言った。多芸志美美が「俺も行く」と言った。
「一人でいい。——武器を持っている男が二人来るのと、手ぶらの男が一人来るのでは、意味が違う」
「殺されたら」
「殺されたら、俺の判断が間違っていたということだ。——記しておいてくれ」
「…………」
「冗談だ。——たぶん殺されない。飯の匂いがする場所で人は殺さない」
川辺に降りた。
水を汲んでいる男がいた。——背中に何かがある。腰のあたりから、細いものが出ている。
尾だった。
尾がある。人間の体に、獣の尾がついている。短い尾。揺れている。
驚いた。——しかし声を出さなかった。驚いて声を出すのは相手に失礼だ。尾がある者にとっては、尾がある方が普通なのだから。
「…………」
男が振り向いた。——こっちを見た。尾が止まった。
「あんた——山の向こうから来たか」
「ああ」
「大勢いるな。——山の上に煙が見えた。焚火の煙だろう」
「千二百人いる。——飯が尽きかけている」
「飯が尽きた千二百人か。——困ったな」
「困っている」
「……まあ、上がれ。魚ならある」
名前を聞いた。
「石押分之子。——この谷の者だ」
「尾は——」
「生まれつきだ。——この谷の者は尾がある者が多い。山の血だ。気にするな」
「気にしていない」
「嘘だろう。——見たとき目が丸くなっていた」
「……少しだけ驚いた。すまない」
「いい。慣れている。——あんたは何者だ」
聞かれた。何者か。
「……狭野。日向から来た」
天の子とは言わなかった。日の神の子孫とも言わなかった。——名前と、来た場所だけ。
「日向か。遠いな。——何しに来た」
「大和に行く途中だ。南から回り込んで山を越えている」
「大和か。——わざわざ南から?」
「一度正面から行って負けた。——回り込んでいる」
「負けたのか」
「負けた。回り込んでいる途中だ」
石押分之子が——笑った。尾が揺れた。
「正直な男だな。——負けたと言う将はなかなかいない」
「記す係なので。——嘘は記せない」
もう一人の者が来た。
地面から。——井戸から出てきた。
正確に言うと、川辺の岩の隙間から出てきた。岩の下に水脈があるらしい。その水脈を通って——人が出てきた。
井氷鹿。水脈を行き来する者。白い肌。水の中にいる肌。目が大きい。暗い水の中で使う目。
「客か」
「客だ。——飯が尽きた千二百人」
「千二百人の飯は——うちにはないぞ」
「ない。だから——獲る」
石押分之子が川を指した。
「魚はいくらでもいる。この谷は——魚が太い。獲り方を知っているか」
獲り方を——知っていた。
懐から歪んだ針を出した。骨の釣り針。返しが内側に曲がった失敗作。帆柱と綱を留めた針。——まだ血がこびりついている。
「釣る。——祖父に教わった」
「祖父が漁師か」
「漁師ではない。——しかし釣りはした。海の底で覚えた、と言っていた」
「海の底で?」
「長い話だ」
糸をつけた。蔓を割いて細くしたものを。——歪んだ針を結んだ。虫を餌にした。石押分之子が虫を捕まえてくれた。尾を揺らしながら。
川に糸を垂らした。
——釣れた。
一投目で。太い川魚。歪んだ返しが——魚の口に引っかかった。まっすぐな針では外れる引き方で。歪んでいるから引っかかる。
「うまいな。——その針、変な形をしているが、よく引っかかる」
「歪んでいるからだ。——失敗した形の方が、引っかかる場所がある」
「面白い考え方だな」
「祖父の受け売りだ」
兵を降ろした。山から。谷に。
千二百人が川辺に座って——魚を釣った。歪んだ針は一つしかないので、俺が釣って、兵は石押分之子が教えた方法で獲った。手で。川の浅い場所に追い込んで、石で囲んで、手で掴む。
泥だらけになった。千二百人の兵が。——しかし笑っていた。飯がある場所では人は笑える。兄を失っても。山を越えても。泥にまみれても。——腹が満ちれば笑える。
三毛入野命がいたら、もっと笑っただろう。——いない。しかし兵は自分で笑った。兄がいなくても笑える日が来た。
石押分之子と井氷鹿と一緒に飯を食った。焼いた魚。山の芋。澄んだ水。
「うまい」
「うまいだろう。——この谷の魚は太い」
「太い。——日向の海の魚とは違う。甘い」
「川の魚は甘い。海の魚は塩辛い。——どっちがうまいかは、腹の減り具合で決まる」
「今は川の魚の方がうまい。——死ぬほど腹が減っていたから」
井氷鹿が笑った。白い顔が赤くなった。
「あんた、本当に将なのか。——将にしては腰が低い」
「末の子だったので。——腰が高くなる前に年を取った」
「末の子が将か。——面白い軍だな」
「面白くはない。——兄が三人死んだだけだ」
「…………」
「すまない。——暗い話をした」
「いい。——魚を食え。暗い話のあとは、魚を食え。腹が満ちれば暗さが薄まる」
三日間、吉野の谷にいた。
魚を食い、芋を食い、水を飲み、体を休めた。兵が太った。——太ったは言い過ぎだが、頬に色が戻った。目が生き返った。
石押分之子が道を教えてくれた。
「この谷を北に抜ければ——山が低くなる。低い山を越えれば、大和の南の端に出る」
「道はあるか」
「獣道だが——俺たちは通っている。案内する」
「……なぜそこまでしてくれる」
「飯を一緒に食ったからだ。——飯を一緒に食った相手を山で迷わせるのは、寝覚めが悪い」
飯だ。飯で道が開いた。旗ではなく。名乗りではなく。血ではなく。——一緒に魚を焼いて、一緒に食って、一緒に笑って。それで道が開いた。
五瀬命の旗は効かなかった。——しかし歪んだ針で釣った魚は効いた。
出発の朝。石押分之子が先に立った。尾を揺らしながら。井氷鹿が川の中を並行して進んだ。水脈を通って。
八咫烏が——木の上にいた。吉野の谷にいる間、烏は木の上から見ていた。何もしなかった。鳴かなかった。——案内が足りているときは鳴かない。足りないときだけ鳴く。
今朝。烏が鳴いた。温かい声で。——進め。
石押分之子が上を見た。
「三本足の烏か。——あれに導かれて来たのか」
「ああ」
「あの烏を見たのは初めてだ。——話には聞いていたが」
「何の話だ」
「山の奥に三本足の烏がいる。その烏について行けば、山を越えられる。——ただし、烏は本気の者にしか見えない、と」
「本気の者」
「本気で山を越えたい者にしか見えない。帰りたい者には見えない。——あんたたちは本気だったから見えた」
本気か。本気だったのか。——本気で東に行きたかったのか。それとも帰る場所がなかっただけなのか。
どちらでもいい。——進んだ。それだけが事実だ。
記す。
吉野。三日間。
得たもの。飯。道。案内者二名。笑い。——兵の頬の色。
失ったもの。なし。
失ったものがない。——十六年の遠征で初めてだ。何も失わない三日間があった。魚を食って、芋を食って、笑って、何も失わなかった。
こういう日を——記しておく。失うことばかり記していると、得たものを忘れる。得たものも記す。全部。
北へ。大和の南の端へ。——日を背にする日が近い。
〈第二十五章・了〉




