第二十二章 布都御魂
暗闇の中にいた。
どのくらい経ったか分からない。時間が消えていた。音がない。温度がない。足の裏が何も聞いていない。——生きているのか死んでいるのか分からない。
ただ——意識だけがある。考えることだけができる。体は動かない。目は開かない。しかし頭の奥で——何かが回っている。
これが死か。——死は暗いのか。暗くて静かで冷たいのか。
祖父が死んだとき、足の裏が温かくなった。父が死んだとき、少しだけ温かくなった。——死んだ者は地面に還って温かさになる。なら死は——冷たくないはずだ。
冷たい。ここは冷たい。——なら、まだ死んでいない。死んでいないのに動けない。
夢を見た。——夢なのか分からない。暗闇の中に、光が見えた。
光ではない。——形だ。人の形をした何かが、暗闇の中に立っていた。
大きかった。見上げるほど。——しかし顔が見えない。輪郭だけ。光の輪郭。
声が聞こえた。——声ではない。振動だ。地面を通して体の底に届く振動。言葉ではないが——意味がある。
「起きろ」、という意味。
起きられない。体が動かない。——そう答えようとした。声が出ない。
もう一つの形が現れた。最初の形より小さい。人間の大きさ。——こちらは顔が見えた。鬼のような顔。怒っていた。怒りが顔の形になったような男だった。
怒った男が——何かを持ち上げた。剣だった。長い。太い。——光っていない。暗闇の中にあるのに光っていない。闇と同じ色をした剣。
怒った男が、大きな形に向かって叫んだ。——声は聞こえなかった。しかし意味が分かった。
「俺の剣を降ろせ。あいつに持たせろ」。
大きな形が——頷いた。ように見えた。
剣が——落ちてきた。暗闇の中を。真っ直ぐに。俺の方に。
目が覚めた。——のではない。暗闇が少し薄くなった。まだ暗い。しかし——音が戻りかけていた。遠い音。虫の音。水の音。
声が聞こえた。——夢の声ではない。現実の声。男の声。
「おい。——生きているか」
知らない声だった。兵の誰でもない。多芸志美美でもない。椎根津彦でもない。
「生きているなら——これを握れ」
何かが、手のそばに置かれた。左手のそばに。
冷たかった。——金属の冷たさ。しかし珠の冷たさとは違う。海の冷たさではない。地の冷たさ。土の底の、岩の冷たさ。
指を動かした。左手の。——触れた。握りに。柄に。剣の柄。
握った。
重かった。
石より重い。岩より重い。——地の底の全部の重さが、柄に集まっている。
持ち上がらない。——しかし握ることはできた。握った瞬間に——体の中を何かが通った。冷たいものが。剣の冷たさが腕を通って、胸を通って、足まで落ちた。
足の裏に——衝撃が来た。
冷たい衝撃。大国主命の温かさとは違う。もっと古い。もっと深い。——地の底そのものの力。
毒が——晴れた。
体を押していた重さが、剣の重さに負けて逃げた。甘い匂いが消えた。頭が軽くなった。息ができた。目が——開いた。
空が見えた。木の隙間から。曇っている。——しかし明るい。暗闇ではない。現実だ。
体を起こした。剣を握ったまま。左手で。——重い。持ち上げられないほど重い。しかし握ることはできる。握っている限り——体が動く。
周りを見た。
兵が倒れていた。——全員。地面の上に。目を閉じて。死んでいるのではない。眠っている。毒の眠り。
俺が起きたのは——剣のおかげだ。剣が毒を押し返した。
剣を——地面に突いた。立てた。柄を上にして、刃を地面に。
地面が——震えた。小さく。剣を中心にして、波紋のように震えが広がった。
兵が——起き始めた。
一人、二人。目を開けて、咳をして、起き上がる。五人。十人。——波紋が広がるにつれて、遠くの兵も起きた。
「……何だ。何があった」
「分からん。——眠っていた」
「なぜ起きた」
「分からん。——何かが、地面を通して来た」
剣だ。この剣が地面を通して毒を追い出した。天の剣が——地面に突き刺さって、地面を通して力を出した。
天の剣なのに——地の重さがする。地面に刺さって、地面を使って働く剣。
声がした。後ろから。
「起きたか」
振り返った。男がいた。——夢の中で剣を置いた男ではない。別の男。
中年の男だった。日に焼けた顔。農夫の体。——背が低い。腰が曲がっている。手に何も持っていない。武器もない。
「あんたが——剣を持ってきたのか」
「ああ」
「何者だ」
「高倉下。——この辺りの者だ。山の麓に住んでいる。普通の者だ」
「普通の者が——なぜこの剣を」
「夢を見たからだ」
「夢」
「昨夜。夢の中で——倉の屋根が破れた。上から剣が落ちてきた。床に突き刺さった。目が覚めて倉に行ったら——本当に刺さっていた」
「…………」
「夢の中で声が聞こえた。『この剣を山の中の者に持っていけ』と。——だから持ってきた」
「それだけか」
「それだけだ」
それだけ。
夢を見て、剣を拾って、山に入って、倒れている軍を見つけて、一番手前にいた男の横に剣を置いた。——それだけ。
高倉下は神ではない。天の血も地の血も海の血も持っていない。普通の男だ。山の麓に住んで、畑を耕している男。
その男が——天の剣を運んだ。
記す。神ではない者が神の剣を運んだ。夢を見ただけの男が、千二百人の命を救った。——俺の耳も、祖父の珠も、曾祖父の血も、何も役に立たなかった場所で。
普通の男の足が——一番遠くまで届いた。
剣の話をする。
布都御魂。——高倉下が夢の中で聞いた名前だという。
長い。太い。——そして重い。
草薙剣を知っている。曾祖父のニニギが持っていた剣。雲模様が動く剣。光る剣。嵐の力を持った剣。——あの剣は日向の丘の家にある。持ってこなかった。
この剣は——違う。
光らない。模様もない。ただの鉄の色をしている。鈍い灰色。——しかし重い。信じられないほど重い。片手では持ち上がらない。両手で持っても——腕が震える。
天から降りてきた剣のはずだ。天の剣だ。——しかし、天の軽さがない。空の高さがない。この剣は地の底の色をしている。地の底の重さを持っている。
「天の剣なのに——地の重さがする」
高倉下が首を傾げた。
「俺には普通の剣に見えるが。——重いとは思ったが」
「重いだけで十分だ。——重い剣は、地面に刺せば地面が応える」
地面に刺す剣。振るう剣ではない。——突き立てる剣。地面に打ち込んで、地面を通して力を出す剣。
草薙剣は空を切る剣だった。風を起こし、嵐を呼ぶ剣。天の剣。
布都御魂は地に打つ剣だ。地面を震わせ、毒を追い出す剣。——天から降りたのに、地の剣。
矛盾しているようで——合っている。天が地に降ろした剣なのだから。降りたものは降りた場所のものになる。ニニギが天から降りて地の者になったように。——剣も降りて、地の剣になった。
多芸志美美が駆けてきた。
「父上——! 起きたのか——!」
「起きた。——お前は」
「俺は浜にいた。山に入らなかった者は倒れなかった。——山の中の毒だけだった」
「全員起きたか」
「起きた。全員。——この剣は何だ」
「布都御魂。天から降りてきた。——この男が運んだ」
多芸志美美が高倉下を見た。測る目で。——そして、頭を下げた。
「……ありがとうございます」
高倉下が困った顔をした。「礼を言われるようなことはしていない。夢を見て、拾って、持ってきただけだ」と。
——それだけのことが、一番難しい。
記す。
熊野の山。全軍昏倒。
救ったもの。布都御魂。天から降りた地の剣。
運んだ者。高倉下。普通の男。
記す。血も耳も珠も針も——届かない場所がある。そこに届くのは、普通の男の足だ。夢を見て、拾って、持ってくる足。何の力もない足。——しかし歩く足。
俺は歩かなければならない。この先も。血に頼らず。耳に頼りすぎず。足で。
〈第二十二章・了〉




