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第二十一章 荒坂の津


 熊野くまのの浜に着いた。

 山が黒かった。

 浜の向こうに山がある。——山だけがある。どこまでも山。黒い緑。深い森。木の密度が、日向ひむかの山とは違う。日向ひむかの山は明るい。光が入る。熊野くまのの山は——光が入っていない。木が光を全部食っている。

 浜に降りた。足が砂に触れた。

 ——冷たかった。

 初めてだった。足の裏が冷たいのは。

 日向ひむかの浜は温かかった。丘はもっと温かかった。筑紫つくし安芸あき吉備きびも——どこでも足の裏は温かかった。浪速なにわは冷たい層があったが、下には大国主命おおくにぬしのみことの道が通っていた。

 ここには——ない。

 道がない。大国主命おおくにぬしのみことの温かさがない。足の裏の下に——何もない。冷たい土だけ。

 この土地は——歩かれていない。国を作った神が歩かなかった土地。道が引かれなかった土地。

「……ここは、地図の外だ」

 誰にも聞こえないように呟いた。——温かさの地図の外。俺の足の裏が頼りにしてきたものが、ここにはない。

 上陸して陣を張った。浜に近い場所に。

 山には入らなかった。すぐには。——漁師が言った「毒気どくけ」が気になった。まず偵察を出した。

 多芸志美美たぎしみみが志願した。

「俺が行く。——速い足の者を五人連れて」

「深入りするな。山の縁だけ見てこい」

「分かっている」

 多芸志美美たぎしみみが五人を連れて山に入った。——半日で戻ってきた。

「道はない。——獣道はあるが、人が通った形跡がない。少なくとも浜側からは」

毒気どくけは」

「分からない。——ただ、山の奥に行くほど空気が重かった。息が詰まるような重さ。匂いはない。目にも見えない。——しかし体が重くなった」

「重い」

「重い。帰ってきたら治った。——浜の空気に戻ったら治った」

 山の中にだけある重さ。見えない。嗅げない。——しかし体を押す。

 翌朝。全軍で山に入った。

 仕方がなかった。山を越えなければ大和やまとに出られない。浜に留まっていても先に進めない。——三毛入野命みけいりぬのみことの言葉を思い出した。「止まっている軍は腐る」。止まれない。動くしかない。

 山道は——なかった。

 木を切って進んだ。やぶを払って進んだ。千二百人が一列になって、山の中を進んだ。前の者が切り開き、後ろの者が踏み固める。道を作りながら進む。

 遅い。——半日で山の奥に入った距離は、浜の上なら歩いて半刻はんときで行ける距離だった。

 山の奥に入るほど——空気が変わった。

 多芸志美美たぎしみみの言う通りだった。重い。体が重い。足が重い。腕が重い。——息が重い。

 匂いはない。色もない。しかし確かに——何かがある。木と木のあいだを、何かが流れている。見えない霧のように。吸い込むと——眠くなる。

 兵が遅くなった。足が止まる者が出た。「休ませてくれ」と言う声が後ろから聞こえた。

「止まるな。——歩け」

 叫んだ。しかし——自分の声も重かった。喉の奥に何かが詰まっている。言葉が出にくい。

 そのとき——音がした。

 山の奥から。地面を揺らす音。何かが来る。大きなもの。

 木が倒れた。三本。目の前で。根こそぎ倒れた。——その向こうに。

 熊がいた。

 大きかった。見上げるほど。——普通の熊ではない。毛が黒ではなく灰色。目がない。目のある場所に——黒い穴が二つ。穴の中に光はない。

 立ち上がった。後ろ足で。枝を掴んで。——そして、匂いを出した。

 匂い。——初めて匂った。今まで匂いがなかったのに。熊が立ち上がった瞬間、山全体から匂いが出た。甘い匂い。腐った果実のような。花が枯れたときのような。——眠くなる匂い。

 兵が倒れた。

 前列から。一人、二人——十人、二十人。膝をついて、手をついて、倒れた。目を開けたまま。目を開けているのに——意識がない。眠っている。立ったまま眠った者もいた。

「——何だこれは」

 俺も——膝が折れた。

 足の裏が冷たい。大国主命おおくにぬしのみことの道がない。温かさがない。温かさがなければ——俺の耳は聞こえない。足の裏を通して聞いていた地の声が、ここでは届かない。

 耳が——塞がっていく。音が遠くなる。波の音が消える。風の音が消える。兵の声が消える。

 熊が——消えた。見えなくなった。目ではなく——意識が。熊が消えたのではなく、俺の意識が消えかけている。

 倒れた。

 地面に。冷たい地面に。足の裏が——もう何も聞こえない。

 薄れていく。全部。音が。温度が。

 最後に聞こえたのは——多芸志美美たぎしみみの声だった。

「父上——!」

 遠かった。水の底にいるように遠かった。

 暗い。

 何も聞こえない。何も見えない。足の裏が冷たい。体が重い。

 ——ここで終わるのか。

 熊野くまのの山の中で。道のない山で。地図の外で。兄たちがいない場所で。

 花びらが——ふところにある。ゆがんだ針がある。しおたまがある。全部持っている。全部持ったまま——倒れている。

 使い道のないものを持った、使い道のない男が。

 ——暗い。

〈第二十一章・了〉

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