第二十三章 ヒサメ
夜の熊野。
兵は眠っていた。毒は晴れたが、体が疲れている。布都御魂が地面に突き刺さったまま、陣の真ん中で鈍く光っていない。——光らない剣は、夜に見ると夜そのものに見える。
眠れなかった。——俺だけ。
足の裏が冷たいままだ。大国主命の道がない土地。温かさがない土地。——眠れない。温かさに包まれていないと、体が落ち着かない。生まれてからずっと温かい場所で眠ってきたから。
陣の端に出た。山の縁。木の下に座った。——祖父がいつも木の下に座っていたのと同じように。
黒い炎が見えた。
木の間に。地面の上に。——焚火ではない。焚火は赤い。これは——黒い。闇の中に闇より暗い炎が揺れている。
近づいた。——近づいてはいけない気がした。しかし足が動いた。足の裏が冷たい土地で、唯一温度があるものに引かれたのかもしれない。温かくはない。しかし——温度がある。冷たくも温かくもない、別の温度。
炎のそばに——人がいた。
小さかった。子供の大きさ。——しかし子供ではない。
灰白色の肌。——月の光を受けて白く見えるのではない。肌そのものが灰白色だった。
目のない顔。目がある場所に——何もなかった。平らだった。窪みもない。ただ滑らかな肌が続いている。
笑顔だった。——目がないのに笑っていた。口元だけで。穏やかに。
「お久しぶりです」
声が聞こえた。——声ではない。音でもない。空気が震えた。
「——初めまして、ですが」
久しぶり、で初めまして。矛盾している。——しかし矛盾していない気がした。この存在は——俺には初めてだが、俺を知っている。
「……あんたは誰だ」
「名前は——あります。しかし今は言いません。あなたが知る必要はまだない」
「…………」
「ヒサメ、と呼ばれたことがあります。あなたのお祖父様のお父様に」
祖父の父。——ニニギ。曾祖父。
「曾祖父に会ったのか」
「会いました。丘の上で。花の咲く木の下で。——あなたのお祖父様にも会いました。同じ丘で」
「祖父にも」
「はい。それと——もう一人。もっと前に。国を作った方にも」
「大国主命」
「そうです。——あなたの足の裏が覚えている方」
「何のために——会いに来る」
「見るためです」
「見る?」
「『ここにいる』と言う者を見るためです」
「…………」
「あなたのお祖父様のお父様は——天から降りてきて、地上で『ここにいる』と言いました。お祖父様は——海から帰ってきて、丘の上で『ここにいる』と言いました。国を作った方は——幽冥に入って、『ここにいる』と言いました」
「…………」
「私はそれを見てきました。——ずっと」
「なぜ見る」
「見たいからです。——私は『ここにいる』と言えなかった者なので。言った者を見ると——きれいだと思うのです」
「言えなかった——とは」
「私は流されました」
「流された」
「生まれて——流されました。着く場所がなかった。どこにも着けなかった。——今もどこにもいない」
「…………」
「どこにもいない者には、『ここにいる』は言えません。ここ、がないからです」
黒い炎が揺れた。——穏やかに。怒りはなかった。悲しみも——分からなかった。目がないから表情が読みにくい。しかし声は——静かだった。
「怒っていないのか。——流されたことに」
「怒っていません。流されたとき、私にはまだ心がなかった。心がないものは怒れない」
「…………」
「心は後から生まれました。漂っているうちに。世界ができていくのを見ていた。きれいでした。——しかし、私のものではなかった」
「あんたは——どこにいるんだ。今」
「どこにも」
「どこにもいないのに——ここにいる」
「矛盾していますね。——しかし、矛盾したまま漂うのが私です。着かないまま」
「…………」
「あなたは着きますか」
「……何に」
「場所に。——あなたのお祖父様のお父様は天から降りて着いた。お祖父様は海から帰って着いた。国を作った方は幽冥に入って着いた。——あなたは、どこに着きますか」
「……分からない。まだ歩いている途中だ」
「そうですね。——途中ですね」
ヒサメが笑った。目のない顔で。
「途中が一番きれいです。着く前の人は——光っている。着いた人は落ち着く。落ち着くときれいさは減る。——しかし途中の人は、まだ全部持っている。迷いも、痛みも、聞こえたものも」
「…………」
「あなたは全部持っていますね。花びらも。針も。珠も。——それと、いなくなった人たちの穴も」
知っている。——俺の懐の中身を。兄たちの穴を。全部知っている。
「見ていたのか。——全部」
「全部見ていました。浪速の矢も。熊野灘の嵐も。——あなたのお兄様が海に入るところも。波を踏んで行くところも」
「…………」
「きれいでした。——悲しいのに。きれいなのです。『ここにいる』と言う者のそばでは、いなくなる者も——きれいになる」
「あんたは——俺に何を求めている」
「何も。——見ているだけです。見ることしかできないので」
「見るだけか」
「見るだけです。——しかし、一つだけ」
「何だ」
「あなたが着いたとき——もう一度来ます。着いた場所で、もう一度話しましょう」
「……来るのか」
「来ます。——着いたかどうかは、私が一番よく分かる。私は着けなかった者なので。着いた者の顔は——すぐに分かる」
黒い炎が——薄くなった。消えかけている。
「お元気で。——聞こえる者は、強い。聞こえる限り、倒れても起き上がれる」
「……あんたには聞こえないのか」
「聞こえません。目もない。耳もない。——ただ見える。目がないのに見える。不思議でしょう」
「不思議だ」
「世界とは不思議なものです。——では」
消えた。黒い炎ごと。木の間の暗闇に溶けるように。
一人で座っていた。木の下に。
足の裏が——ほんの少しだけ、温かかった。ヒサメがいた場所の土だけ。大国主命の道とは違う温かさ。もっと古い。もっと淡い。——流された者が一瞬だけ触れた場所の温かさ。
着かないまま漂っている者が残す温度。——消えるように薄い。しかし、ある。
記す——べきか迷った。軍記に書くことではない。兵数にも飯にも関係がない。
記さない。——しかし覚えておく。ヒサメ。目のない笑顔。黒い炎。「着いたらまた来る」。
着く場所が——あるのか。俺に。あるなら——あの子にも着いてほしい。流された子にも。
分からない。——分からないまま、歩く。
〈第二十三章・了〉




