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第十八章 雄水門


 紀伊きいの海岸に着いた。

 男之水門おのみなと。小さな入り江。山に囲まれている。波が穏やかだった。——追手はいない。ここまでは来ない。

 船を寄せた。兵を降ろした。

 五瀬命いつせのみことを——最後に降ろした。担いで。兄は軽かった。血を流しすぎて、軽くなっていた。

 浜に寝かせた。布の上に。

 傷を見た。右肘。——布を剥がすと、うみが出ていた。黒い。矢の毒か、海水の汚れか。——どちらにしても、もう手遅れだと俺の耳は聞いていた。兄の体から出ている音が変わっていた。波打ち際で聞いた音。吾平津媛あひらつひめの最後の朝に聞いた音と——同じ種類の音。

 体が閉じていく音。

 兄の目が開いた。

 空を見ていた。——空から、俺を見た。

「……ここは、どこだ」

紀伊きいの水門です。追手は来ていない」

「……そうか」

「安全です。休んでください」

「休む暇はない。——言うことがある」

「…………」

「起こせ」

「動かない方が——」

「起こせ。——座って言いたい」

 起こした。背中を支えた。左手で。右手は——まだ動かない。

 兄が海を見た。西を。——来た方角を。日向ひむかの方角を。

「負けた」

「はい」

「日の神の子が——日に向かって戦った。それが悪かった」

「…………」

「我らは天照大御神あまてらすおおみかみの子孫だ。日の神の子だ。——日の子が、日に向かって矢を射った。逆だ。日を背にして射たなければならなかった」

「…………」

「回り込め。——南から回れ。半島を越えて、東の裏から入れ。そうすれば——日を背にして戦える」

 兄が言っていることは——戦術だ。東を正面から攻めるのではなく、南から回り込んで西から攻める。そうすれば朝日は背中に来る。

 しかし——俺の耳は別の意味を聞いていた。

 日に向かうな。天の血を正面に掲げて進むな。旗は効かなかった。天の子だと名乗っても、二人目は要らないと言われた。——日の旗を掲げて正面から行くのは間違いだった。

 回り込め。旗ではなく、足で進め。血ではなく、道を歩いて行け。

 兄が言いたいのは——たぶん、両方だ。戦術と。それから——もっと大きなこと。

「兄上」

「何だ」

「俺は——聞こえていた。浪速なにわの前夜。波が濁っていた。凶兆が出ていた。言わなかった」

「…………」

「船の中でも言った。また言います。——兄上の肘は俺の沈黙が射抜いた」

「聞いた。——もう聞いた」

「…………」

「お前は二度同じことを詫びた。十分だ。——三度目は要らない」

「…………」

「お前に足りなかったのは——聞く耳じゃない。聞こえたことを言う口だ。耳はある。耳は十分だ。——口が遅い」

「……はい」

「聞く耳は——言うためにある」

 兄が俺を見た。目が澄んでいた。痛みで曇っていた目が——澄んでいた。最後に澄むことがあるのだと知った。

「今日から——お前が言え。全軍に」

「…………」

「俺は声がでかいだけだった。聞く耳がなかった。——お前は耳がある。耳がある者が口を開けば、声は俺よりでかくなくていい。聞こえたことを言う声は——でかくなくても届く」

「兄上——」

「旗は——お前に渡す。白い旗はもう拾えないが。——新しい旗を作れ。お前の旗を」

「…………」

「日の丸は——やめてもいい。日に向かって負けた旗だ。日を背にして戦う旗を——お前が作れ」

 風が吹いた。海から。西から。日向ひむかの方角から。

 五瀬命いつせのみことが風を受けた。目を閉じた。——口元が動いた。

「……母上の風だな」

「…………」

日向ひむかの風だ。——ここまで届くのか」

「……届いています」

「嘘をつけ。紀伊きいまで日向ひむかの風が届くはずがない。——しかし、そう聞こえるなら、そう聞こえたんだろう。お前の耳は嘘をつかない」

「…………」

「声がでかいだけの男が——ここで終わる。……悪くない場所だ。海が見える」

「兄上。——もう少し」

「もう少しは——ない。分かっているだろう。お前の耳には」

 分かっていた。——体が閉じていく音が、もう小さかった。波の音に混じりかけていた。吾平津媛あひらつひめのときと同じだった。人の音が波にかえっていく。

「最後に——一つ聞いていいか」

「何でも」

「……俺の声は——でかかったか」

「でかかった。——海の底まで届いた」

「……そうか。——良かった」

 五瀬命いつせのみことが死んだ。

 紀伊きいの水門で。海を見ながら。

 声がでかい男の声が——止まった。波の音だけになった。

 泣かなかった。

 嘘だ。

 泣いた。——ただし、立ったまま泣いた。座って泣いたら、もう立てない気がした。立ったまま泣いた。声は出さなかった。稲飯命いなひのみことと同じ泣き方で。

 三毛入野命みけいりぬのみことが泣いた。声を上げて。——五瀬命いつせのみことの代わりに声を出すように。でかい声で。兄と同じくらいでかい声で。

 多芸志美美たぎしみみが泣いた。黙って。——俺と同じ泣き方で。

 稲飯命いなひのみことは泣かなかった。弓を握ったまま、海を見ていた。

 椎根津彦しいねつひこは——離れた岩の上に座っていた。何も言わなかった。

 兄を埋めた。水門の丘に。海が見える場所に。

 日向ひむかの方角が見える場所に。

「兄上。——聞こえたか。全部」

 返事はない。——当たり前だ。

「聞こえた。俺は全部聞いた。——回り込む。日を背にする。旗ではなく足で行く。お前の遺言は全部聞いた」

「…………」

「聞く耳は言うためにある。——今日から言う。全部」

 丘を降りた。浜に戻った。兵が並んでいた。千五百。——三十七人減った千四百と少し。全員がこっちを見ていた。

 総帥が死んだ。旗が落ちた。——次は誰だ。誰が旗を持つ。誰が声を出す。誰が「行くぞ」と言う。

 全員の目が——俺を見ていた。

 末の子を。聞く係を。記す係を。四十五年黙っていた男を。

 声を出した。

「俺が——総帥を継ぐ」

 声は——でかくなかった。五瀬命いつせのみことの十分の一もなかった。しかし——静かだった。浜が静かだったから、小さい声でも届いた。

「南に回り込む。日を背にして戦う。——五瀬命いつせのみことの遺言だ」

「…………」

「旗は新しく作る。——日の丸は、兄と一緒に埋めた。次の旗は——まだ決めていない。決めたら言う。聞こえたことは全部言う。——それが俺の仕事だ」

 兵が——動かなかった。動かなかったが、崩れなかった。並んだまま黙って聞いていた。

 声がでかくなくても——聞こえたことを言う声は、届く。兄がそう言った。本当だった。

 そして——叫んだ。

 声ではなかった。——声にならない声だった。言葉ではなかった。意味のない声だった。兄が死んだ男の口から出る——ただの音。

 浜に向かって。海に向かって。

 雄叫び。

 兵が叫び返した。千四百の声が重なった。——意味のない声。しかし全員が同じ音を出した。

 悲しみの音ではない。怒りの音でもない。——まだ生きている、という音。死ななかった者たちが出す音。死んだ者の代わりに、まだ出せる音。

 男之水門おのみなと。——男の声が水門に満ちた日。ここが、この名になった。

 記す。

 第一次作戦、終わる。

 得たもの。水先案内一名。戦の音の記憶。退く旗の正しさ。——教訓三つ。

 失ったもの。総帥。白い旗。右手の感覚。三十七人の兵。

 ——兄。

 帳簿の行が足りない。「兄」は帳簿に収まらない。声のでかさも。旗を降ろさなかったことも。嫌な顔をしても理屈が通れば飲む器の大きさも。末弟に「お前はどう思う」と聞ける強さも。

 帳簿に収まらないものを——失った。

 記す。これだけは帳簿の外に記す。

 五瀬命いつせのみこと。声がでかいだけの男だった。——声がでかいだけの男が、どれだけ大きかったか。いなくなって初めて分かった。

 穴が開いている。——兄の声の大きさ分の穴が。

 埋められない。——埋めなくていい。穴のまま持っていく。南へ。東へ。日を背にして。


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