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第十七章 血沼の海


 南に逃げた。

 逃げた、と記す。退いた、ではない。退却は合図があって並んで下がることだ。今やっているのは——逃げることだ。

 入り江を南に抜けて、外海そとうみに出た。追手がいる。長髄彦ながすねびこの船。小さいが速い。入り江の潮を知っている船だ。こっちは外海そとうみの船で、入り江の潮を知らない。——遅い。

 追われている。

 五瀬命いつせのみことの傷が——悪い。

 矢は抜いた。岸に一度寄せて、稲飯命いなひのみことが抜いた。無口な男が、無口のまま矢を抜いた。五瀬命いつせのみことは声を上げなかった。——声がでかい男が声を上げなかった。それが怖かった。痛みが声を越えていたのだ。

 傷口を布で巻いた。血が染みた。布を替えた。また染みた。——止まらない。

 うみが出始めた。矢の先が汚れていたのかもしれない。あるいは海水が入ったのかもしれない。どちらにしても——悪い。

 兄の顔色が白い。声が出ない。声がでかいことだけが取り柄だと本人が言っていた男から、声が消えている。

 追手の話をする。

 長髄彦ながすねびこの船が七隻。小さいが速い。かいの数が多い。入り江の潮を使って、こっちの倍の速さで追ってくる。

 我らの船は十七隻。大きい。重い。——遅い。外海そとうみに出れば波に強いが、入り江の出口付近は潮が複雑で、椎根津彦しいねつひこでも読みきれない。

「あの船はこの海を知っている。——俺より速い」

 椎根津彦しいねつひこ舳先へさきで言った。初めて聞く言葉だった。この男が「俺より速い」と認めたのは。

「振り切れるか」

「このままでは無理だ。——追いつかれる。半日で」

 半日。半日後に追いつかれれば、船の上で戦になる。千五百対——追手の兵数は分からないが、向こうは少数で速い。少数で速い敵が船に取り付けば、大きい船は動けなくなる。動けなくなった船は——棺桶かんおけだ。

 稲飯命いなひのみこと殿しんがりを志願した。

「弓兵を三隻に分けて後ろに残す。——追手が近づいたら射る。当たらなくても足を止められる」

「足が止まるか」

「矢が飛んでくる方向に全速で突っ込む馬鹿はいない。——少しは遅れる。遅れた分だけ、本隊が先に行ける」

稲飯命いなひのみことは」

殿しんがりの三隻に乗る」

「……殿しんがりは一番危ない」

「弓を引くのは俺の仕事だ。——一番危ない場所で弓を引くのも、俺の仕事だ」

 言い返せなかった。——この兄は、こういうときに長く喋る。普段は無口なのに。無口な男が喋るときは——覚悟が決まっているときだ。

「死ぬな」

「死なない。——弓が当たる間合いなら、向こうも俺の間合いだ」

 稲飯命いなひのみことが三隻を率いて後ろに残った。

 弓が鳴った。——遠い。追手との距離は矢が届くぎりぎり。当たらない。しかし矢が水面みなもに突き刺さる。追手の船の横に。前に。——足が止まる。少しだけ。

 少しだけ止まっている間に——本隊が進む。

 追いかけっこだ。稲飯命いなひのみことの矢が追手を遅らせ、追手が弓の射程から出ると加速し、また近づき、また矢が飛ぶ。繰り返し。——しかし繰り返すたびに、矢が減る。矢は無限ではない。

 三毛入野命みけいりぬのみことが俺の隣に来た。

たまを使えないか」

「……考えていた」

「追手の前に潮を作れば——壁になる。渦のときと同じだ」

「同じじゃない。渦のときは止まっている渦をずらしただけだ。——走っている船の前に潮を作るのは、もっと大きな力が要る」

「できるか」

「…………」

「できるかと聞いている」

「渦で二度使った。指が凍えた。——三度目を使えば、手が動かなくなるかもしれない」

「手が動かなくなっても——生きているだろう」

「…………」

「手か命か。——どっちを選ぶ」

 三毛入野命みけいりぬのみことは面白がっていない。声が低い。目が据わっている。——この人がこの顔をするのは、本当にまずいときだけだ。

「……手だ」

「良い判断だ。——手は二本ある。一本動かなくなっても、もう一本がある」

「…………」

「やれ」

 青いたまを出した。三度目。

 手が覚えていた。冷たさを。海の底の温度を。——握る前から指が震えた。体が覚えている痛みを、手が先に怖がっていた。

 握った。

 冷たかった。——前の二回より冷たい。たまが怒っているのか。疲れているのか。それとも俺の体が——もう限界に近いのか。

椎根津彦しいねつひこ。——追手の船の前方、百歩。潮を横に作れるか。壁のように」

「横に?」

「潮を満たして、追手の前に水の壁を作る。——船が越えられない高さの」

「……正気か」

「正気だ。——やる」

 たまを掲げた。

 耳を使った。追手の船の音を聞いた。かいの音。水を切る音。船底が水を叩く音。——距離と速度を音で測った。百歩先。そこに——潮を押す。

 海が——動いた。

 追手の前方に——水が膨れた。波ではない。潮だ。海面そのものが持ち上がった。壁のように。高さは船の半分くらい。——船を沈めるほどではない。しかし突っ込めば転覆する高さ。

 追手の船が——止まった。七隻全部。水の壁の前で。かいを逆に漕いで、急停止した。

「今だ! ——全速!」

 椎根津彦しいねつひこが叫んだ。全船のかいが入った。追手が止まっている間に——距離を開けた。

 手を離した。

 たまを離す前に——たまが手から落ちた。握れなくなっていた。指が動かない。右手の五本が全部——白くなっていた。血が通っていない色。

 多芸志美美たぎしみみたまを拾った。海に落ちる前に。

「父上——」

「大丈夫だ」

「大丈夫じゃない。手が——」

「……左手がある」

 三毛入野命みけいりぬのみことの言葉を繰り返した。——笑えなかった。

 追手は——来なかった。

 水の壁が消えた後も、追手は追ってこなかった。止まったまま、引き返していった。——壁の高さに驚いたのか。それとも「これ以上追う必要がない」と判断したのか。

 たぶん後者だ。長髄彦ながすねびこは賢い男だ。追い払えば十分だと知っている。殺し尽くす必要はない。——帰ってくれればいい。帰ってくれれば自分の土地が戻る。

 正しい判断だ。——正しい敵は、追撃も正しい。必要以上に追わない。必要以上に殺さない。

 稲飯命いなひのみことの三隻が合流した。

「追手が引いた。——何をした」

たまを使った」

「…………代償は」

「右手」

 稲飯命いなひのみことが俺の右手を見た。白い指。動かない指。——無口な男が、さらに黙った。黙って、俺の手を布で包んだ。温かい布で。

「動くようになるか」

「……分からない。渦のときは戻った。今回は——分からない」

「分からないことは——待て。戻るかもしれない」

「ああ。——待つ」

 南へ。紀伊きいの海岸へ。追手のいない海へ。

 船の中で——五瀬命いつせのみことの傷がみ続けていた。布を替えても替えても、血とうみが染みる。

 兄の声が——かすれていた。

狭野さの

「ここにいます」

「……波は」

「濁っている。——まだ」

「そうか。……まだ、か」

「澄む日が来ます」

「……ああ。来る。——来るだろうな」

 兄の目が閉じた。眠ったのか気を失ったのか分からない。息はある。——ある。まだ。

 記す。

 血沼ちぬの海。撤退戦。

 使ったもの。潮満珠しおみつたま、三度目。稲飯命いなひのみことの弓。椎根津彦しいねつひこの操船。三毛入野命みけいりぬのみことの判断。多芸志美美たぎしみみの手。

 得たもの。全船生還。追手を振り切った。

 失ったもの。右手の感覚。矢の残り。——そして、兄の声が消えかけている。

 消えかけているものは——消える。消えるものは消える。吾平津媛あひらつひめのときに覚えた。聞こえなくなったときが終わりだと。

 兄の声は——まだ聞こえる。かすれているが。——聞こえる。

 聞こえているうちに、聞く。全部。


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