第十六章 孔舎衛坂
朝。——日が昇った。
東から。正面から。
当たり前だ。日は東から昇る。我らは西から来て東を向いている。朝になれば日が正面に来る。——当たり前のことだ。
当たり前のことが——牙を剥いた。
夜明け前に動いた。
五瀬命が命じた。「夜明けとともに攻める。向こうが陣を整える前に」。正しい。寝込みを突くのは卑怯だが、兵数で劣る側の常道だ。劣っているかどうか分からない。——分からないなら劣っていると思え。思った方が生き残る。
陣を発った。高台を降りて、入り江の東岸に向かって進んだ。
孔舎衛坂。東岸の坂。長髄彦の陣がある山の麓の坂だ。
坂の手前に——兵を並べた。弓兵を前列に。稲飯命が並べた。百人ずつ。十列。千人。後ろに予備の五百。
旗。五色。赤が先頭。五瀬命が持っている。
日が昇った。
正面に。
——眩しかった。
俺は聞く男だ。目の話はしない。しかし——これは目の話だ。日が東から昇って、坂の上から射してくる。我らは坂の下にいる。坂の上に敵がいる。敵の背中に日がある。
逆光。
弓を引いた。百人が同時に引いた。——矢が見えなかった。
いや。矢は見える。自分の矢は見える。——飛んでいく先が見えない。日が目を灼いている。的が光の中に消えている。どこに当たるか分からないまま射っている。
稲飯命の弓は日向で一番だ。この兄が外すのを見たことがなかった。——外した。三射続けて外した。日が目を潰していた。
坂の上から——矢が降ってきた。
長髄彦の兵。日を背にしている。我らの顔が見える。——向こうからは、日に照らされた的が並んでいるように見えるだろう。
当たった。
前列の右端に。三人倒れた。声が上がった。——叫び声ではない。驚きの声。矢が飛んでくることは分かっていた。しかし、こっちの矢が当たらないのに向こうの矢が当たる——その理不尽に驚いている声。
理不尽ではない。地形と太陽の位置だ。向こうは知っていた。朝の日がこの角度で射すことを。坂の上と下でどちらが眩しいかを。——知っていて、待っていた。
記す。この時点で俺は知っていた。負けることを。
昨夜から知っていた。波の音が濁っていた。入り江の水が重かった。足の裏が冷たかった。——全部、凶兆だった。
知っていた。——言わなかった。
なぜか。
聞こえていたが——確信がなかった。濁っている音が「戦に負ける音」なのか「ただの潮の変わり目」なのか、区別がつかなかった。十五年聞いてきて——戦の音を聞いたことがなかった。戦の前の濁りがどんな音なのか、俺の耳は知らなかった。
知らないことは言えない。——言えないのではない。言わなかったのだ。知らないことでも「分からないが濁っている」と言えばよかった。判断は兄に任せればよかった。
言わなかった。半日。朝の軍議で「出ます」と言った。言ったのは俺だ。出ると言った。濁りを聞いていたのに。——言うのが遅れた。いや、遅れたのではない。言わなかったのだ。
四十五年の癖だ。聞こえても黙る癖。「確信がないから言わない」は——「聞こえても黙る」と同じだ。形を変えた沈黙だ。
五瀬命が前に出た。
「旗を掲げろ! ——怯むな! 日の神の子が日に怯んでどうする!」
正しい。士気を保つために叫ぶのは正しい。——しかし前に出た。旗を持って。坂に向かって。日に向かって。
旗が——光った。白い布に日が当たって、光の板になった。反射した日光が五瀬命の顔を照らした。兄の目が——眩んでいるのが分かった。
「兄上! 下がってくれ!」
叫んだ。——遅かった。
矢が飛んできた。坂の上から。日を背にした矢。光の中から現れて——
五瀬命の肘に刺さった。
右肘。弓を引く腕の肘。
旗が——落ちた。
兄の声が止まった。
声がでかい男の声が止まると——世界が止まる。兵が止まった。矢を番えた姿勢のまま。前列が振り返った。旗が倒れたのを見た。
「退け!」
俺が叫んだ。
「青旗! ——退け!」
旗手が青を掲げた。退けの旗。五瀬命が嫌がった旗。要らないと言った旗。——あの旗が、兄を生かした。
兵が動いた。退いた。崩れなかった。並んだまま退いた。冬のあいだ退屈するほど並ばせた体が——体が覚えていた。恐怖で頭が消えても、体が勝手に並んで退いた。
五瀬命を担いで退いた。稲飯命が殿を務めた。弓を引きながら。——日に向かって。当たらない矢を射ちながら。しかし射つことで追撃を止めた。当たらなくても矢は矢だ。飛んでくるものに人は足を止める。
三毛入野命が叫んだ。兵に向かって。
「死ぬな! ——退いて生きろ! 死ぬのは明日にしろ!」
笑わなかった。——この人が笑わなかったのは初めてだった。笑えないときに叫ぶ。笑いの代わりに声で空気を持たせる。
多芸志美美が船を岸に寄せた。兵を乗せた。——数えていた。乗せながら数えていた。測る目で。
船に乗った。全員。——全員ではない。
乗れなかった者がいた。
記す。
戦死。三十七人。前列に集中。矢を受けた者が二十九。坂で足を滑らせて転落した者が四。退却時に取り残された者が四。
負傷。八十以上。正確な数は船の中で数え直す。重傷は十二。そのうち——五瀬命。
損耗。弓二十三張を坂に残した。旗を一本失った。——白い旗。日の丸の旗。五瀬命の旗。
船の中。五瀬命の肘を布で巻いた。矢を抜くのは——揺れる船の上では危ない。岸に着いてからだ。
兄が目を開けた。
「……負けたか」
「負けました」
「…………」
「すみません」
「何がすまない」
「俺が——聞こえていた。昨夜。波が濁っていた。凶兆が出ていた。——言わなかった」
「…………」
「言うのが遅れたのではない。言わなかった。確信がなかったから。確信がないことは言わない——四十五年の癖が出た」
「…………」
「兄上の肘は——俺の沈黙が射抜いた」
五瀬命が俺を見た。痛みで顔が歪んでいる。——しかし目は歪んでいなかった。
「聞こえていたのか」
「聞こえていた」
「なぜ言わなかった」
「……戦の音を知らなかった。十五年聞いてきて——戦の前の濁りを聞いたことがなかった。初めてだったから、判断できなかった」
「…………」
「言い訳です。——判断できなくても『分からないが濁っている』と言えばよかった。判断は兄上に任せればよかった」
五瀬命が目を閉じた。長く。
「……聞こえたことは全部言う。そう決めたんじゃなかったのか」
「決めた。——守れなかった」
「守れなかったなら——次は守れ。次は言え。遅れるな」
「はい」
「お前の耳がなければ——もっと死んでいた。退く旗がなければ——全滅していた。……負けたが、全滅はしていない。お前の準備が生かした」
「…………」
「ただし——次は言え。確信がなくても言え。聞こえたら全部言え。——それがお前の仕事だ」
記す。
我らは負けた。
原因は三つ。
一。地形を敵が知り、我らが知らなかった。坂の上と下で日の当たり方が違うことを——向こうは知っていた。我らは知らなかった。
二。日に向かって布陣した。東を向いている軍が朝に戦えば——日は正面に来る。当たり前のことだ。当たり前のことを忘れた。
三。俺が——音の濁りを聞いていて、言わなかった。半日。半日早く言えば、夜明け前に攻めるのではなく、日の位置を確認してから布陣を変えられた。あるいは——一日待てた。
三つとも、俺の責任だ。一と二は情報不足。情報を集めるのは聞く係の仕事だ。三は——沈黙。聞く係の最大の罪。
記す。三十七人が死んだ。俺の沈黙が殺した。
〈第十六章・了〉




