第十五章 白肩の津
入り江を抜けた。水が穏やかになった。山に囲まれた内海。渦はない。波もない。——静かだった。
静かすぎた。
俺の耳が拾っている。水面の下に——音がある。人の音ではない。しかし生き物の音でもない。——地面の音だ。岸辺の土から、低く、重い音が出ている。
踏み固められた音だ。何千回も人が歩いた土の音。畑を耕した土の音。水路を掘った土の音。——長い年月をかけて、誰かがこの土地を作ってきた音。
敵の音、と言うべきか。敵とは限らない。しかし——この土地を作った者は、この土地を渡すつもりがない。土の音が、そう言っている。
白肩の津。上陸した。
浜に足をつけた瞬間——足の裏が変わった。
温かさがある。大国主命の道は——ここにもある。しかし日向の温かさとは違う。濃い。太い。道が太い。——ここは大国主命が長くいた土地に近い。塩椎の翁が言った通りだ。
しかしもう一つ——別の温度がある。道の温かさの上に、冷たい層がある。人が歩いた温度。耕した温度。水路を掘った温度。——人間の仕事の温度だ。大国主命の道より新しい。
この土地は——二重になっている。下に神の道。上に人の仕事。
上陸して陣を張った。浜に近い高台に。
多芸志美美が報告に来た。速い船で入り江の周りを回って戻ってきた。
「東の岸に——人がいる。多い」
「多いとは」
「千は超える。——もっとかもしれない。浜に出ていないが、山の裾に家が並んでいた。煙が出ていた。飯を炊いている煙だ」
「武器は」
「弓を持っている者がいた。——こちらを見ていた」
「見ていただけか」
「今のところは。——しかし見ていた目が、宇沙都比古とは違った。値踏みの目じゃない。警戒の目だ」
値踏みは損得で動く。警戒は——守りで動く。守る者がいる土地に入っている。
稲飯命が陣の守りを固めた。弓兵を高台の縁に並べた。——念のために。
五瀬命が立った。高台の上に。旗を持って。白い布に日の丸。
「旗を掲げます。——日の神の子が来たことを知らせる」
「待ってください」
「何だ」
「旗を掲げれば——向こうが出てくる。出てきた者が味方とは限らない」
「同じ天の血だ。ニニギの子孫が来たと知れば——」
「ニニギの子孫だと名乗って歓迎されるかどうか、分からない。宇沙では飯が出た。しかしここは——土の音が違う」
「土の音?」
「この土地を作った者がいる。長い時間かけて。——作った者は、渡さない」
「…………」
「旗を掲げるなら——返事が矢で来る覚悟をしてください」
五瀬命が俺を見た。——笑った。
「矢で来ても構わない。矢が来れば敵だと分かる。分からないまま待つよりましだろう。——お前の言葉だ」
「…………」
「分からないなら、聞け。旗を掲げて、向こうの答えを聞く。それがお前の仕事だ」
正しかった。——言い返せなかった。
旗が上がった。
返事は——矢ではなかった。
人が来た。一人。丸腰で。山の裾から歩いてきた。
背が高い男だった。腕が太い。日に焼けた顔。——農夫の体をしている。弓を持つ腕ではない。鍬を振る腕だ。
高台の下に立った。上を見上げた。
「旗を掲げている者。——名は」
五瀬命が答えた。声がでかい。入り江じゅうに響いた。
「天照大御神の子孫。日向より来た。——名は五瀬。兄弟の長兄。末弟は狭野。東に美しい国があると聞いて来た」
男が——動かなかった。聞いていた。全部聞いてから、口を開いた。
「天の子孫か。——うちにもいる」
「…………」
「天磐船で降りた主がいる。邇芸速日命。——お前たちより先に降りた天の子だ」
やはりいた。——塩椎の翁が言った通りだ。先に降りた者が。
「お前は——何者だ」
「長髄彦。——この土地の者だ」
「天の子ではないのか」
「天の子じゃない。地の者だ。——この土地を耕して、この土地を守っている者だ」
長髄彦が言った。静かな声で。声は大きくない。——しかし、重かった。
「ここは俺の土地だ。誰にもらった土地でもない。俺が耕した。俺の父が耕した。その前も。——汗で作った土地だ」
「…………」
「天の子が二人も要るか。一人で十分だ。うちの主がいる。二人目は——要らん」
五瀬命が答えた。
「我らは奪いに来たのではない。東に美しい国があると聞いて来た。——話がしたい。お前の主と」
「主は忙しい。——話すことはない」
「話すことはないと決めるのは、お前ではなく主だろう」
「俺が決める。——主を守るのは俺の仕事だ。主に会わせるかどうかも、俺が決める」
「…………」
「帰れ。——来た道を帰れ。それが一番平和だ」
長髄彦が去った。山の裾に戻っていった。丸腰のまま。——来たときと同じように。
軍議を開いた。高台の上で。
「帰れと言われた」
「帰りません」
俺が言った。——十五年かけて来て帰るのか。帰らない。
「しかし——あの男は本気だ。帰らなければ矢が来る」
稲飯命が言った。
「本気だ。——あの男の声に嘘はなかった。息の音が変わっていなかった。全部本気で言っている」
「……お前の耳は、そこまで聞くのか」
「聞く。——あの男は嘘をついていない。この土地を自分が作ったと言ったのも本当だ。俺の土地だと言ったのも本当だ。——正しいことを言っている」
「正しい敵か」
「正しい敵だ」
正しい敵は——厄介だ。間違っている敵は崩れる。どこかに綻びがある。正しい敵には綻びがない。「俺の土地だ」は——正しい。耕した者の土地だ。大国主命が言ったことと同じだ。
敵情を整理する。
一。敵将は長髄彦。地の者。農夫の体。——鍬を持つ腕で弓も引ける男だろう。
二。長髄彦の主は邇芸速日命。天磐船で降りた天の子。——我らと同じ血。
三。長髄彦は主を守る立場にある。主に会わせるかどうかを自分で決めている。——つまり、この土地の実権は長髄彦にある。邇芸速日は「主」であっても、実務は長髄彦が握っている。
四。兵数は不明。千は超える。我ら千五百と同等かそれ以上。
五。地の利は向こうにある。この入り江を知っている。山を知っている。道を知っている。我らは知らない。
六。旗——天の血の旗は効かなかった。「うちにもいる」で無効化された。同じ旗を持つ者同士では、旗は意味を失う。
七。帰る選択肢は——ない。十五年かけて来た。渦を二度越えて来た。帰れば——帰っただけの男で終わる。
五瀬命が旗を見つめていた。白い布。日の丸。
「旗が効かなかったな」
「効きませんでした」
「日の神の子だと名乗れば、道が開くと思っていた。——西国では開いた」
「西国には天の子がいなかったからです。ここにはいる。同じ旗を持つ者の前で——旗は旗にならない」
「……では何で進む。旗がなければ——何を掲げる」
「…………」
「狭野。聞こえるか。——何か」
聞こえる。足の裏から。大国主命の道が。——しかしその上に冷たい層がある。長髄彦が耕した土の層が。
二重の土地。下の道は俺たちを呼んでいる。上の層は俺たちを拒んでいる。
「聞こえます。——しかし、答えはまだ出ない」
「…………」
「すみません。——もう少し聞かせてください」
「良い。——聞け。お前が答えを聞くまで、俺が旗を持って立っている」
兄が立っていた。旗を持って。効かない旗を。——それでも降ろさなかった。
夜。陣の端で海に手を入れた。
濁っている。——もう澄んでいない。入り江の水は重い。長い年月の重さ。この土地を作った者たちの重さ。
明日。——たぶん、矢が来る。
記す。敵は正しい。旗は効かない。兵数は同等以上。地の利は向こう。
我らに利があるとすれば——十五年かけた覚悟だけだ。覚悟は利ではない。しかし覚悟のない軍より覚悟のある軍の方が——崩れるのが遅い。
遅いだけでは勝てない。——しかし遅ければ、聞こえるものが増える。聞こえるものが増えれば、答えが出るかもしれない。
かもしれない、で軍を動かすな。——しかし他に何がある。
記す。明日、戦になる。
〈第十五章・了〉




