第十四章 渦
浪速が見えた。
入り江だった。広い。左右に山が迫って、その間に水が入り込んでいる。奥は——見えない。入り江が深い。
良い土地だ。——船を入れるには最高の地形だ。山が風を遮り、入り江が波を消す。ここに湊を作れば、外海がどれだけ荒れても中は穏やかだ。
ただし——入り口が狭い。
そして——渦を巻いている。
椎根津彦が舳先に立って、入り江の口を見ていた。
「三つある」
「三つ?」
「渦が三つだ。——入り口の左に一つ。右に一つ。真ん中に一つ。三つが回っている」
見えた。水面が白く泡立って、三か所で渦を巻いている。左の渦が一番大きい。右が二番目。真ん中が——一番小さいが、一番速い。
「通れるか」
「通れない」
「…………」
「今のままでは通れない。——三つの渦が全部同時に回っている。隙間がない。左を避ければ真ん中に巻かれ、真ん中を避ければ右に巻かれる」
「渦が止まる時間はないのか」
「ない。——潮が変わるとき一瞬緩むが、その一瞬で十七隻は通れない。三隻がやっとだ」
三隻。十七隻のうち三隻しか通れない。残り十四隻は入り江の外に取り残される。——分断される。分断された船団は船団ではない。
止まった。入り江の外で。岩場に船を寄せて、考える時間を取った。
五瀬命が言った。
「待てばいいだろう。——渦がなくなる日を」
「なくなりません。ここの渦は地形が作っている。潮がある限り回り続ける」
椎根津彦が言った。
「ならば別の入り口はないのか」
「ない。——この入り江は口が一つだ。裏から回る山道はあるだろうが、船は通れない」
「…………」
軍議が黙った。——十五年かけて来て、入り口の前で止まっている。
夜。岩場に降りた。一人で。
海に手を入れた。——濁っている。渦の音が水の中を通って、手のひらに触れた。ごう、という低い音。海が動いている音。
懐に手を入れた。
珠が鳴っていた。
青い珠。潮満珠。——低い音で。渦の音と共鳴するように。
白い珠。潮干珠。——鳴っていない。黙っている。
青だけが鳴る。白は黙る。——なぜだ。
海幸山幸の物語を思い出した。祖父が使った珠だ。青い珠で潮を満たし、白い珠で潮を引かせた。二つ合わせて海を動かした。
俺の手では——青しか応えない。白は眠っている。握っても何も起きない。
半分だ。力の半分しか使えない。
なぜ半分なのか。考えた。
祖父は海の底に行った。海の神から珠をもらった。海を知っている男が海の道具を使った。——だから両方使えた。
俺は海に行っていない。海の底を知らない。潜ったことすらない。水に入ると聞こえすぎるから避けてきた。——海の半分しか知らない男に、海の力は半分しか応えない。
理屈としては通る。通るが——半分では渦は止められない。
止められないなら——止めなくていい。
翌朝。椎根津彦に聞いた。
「渦を止める必要はあるか」
「止められるなら通れるが——止められないだろう」
「止められない。——しかし、ずらせるかもしれない」
「ずらす?」
「渦は潮が作っている。潮を少しだけ変えれば——渦の位置がずれる。ずれた隙間を通れないか」
椎根津彦が目を細めた。測る目で。潮を目で読む男の目で。
「……左の渦が右にずれれば、左岸に隙間ができる。船一隻分の隙間。——しかし潮を変えるなど、どうやる」
懐から——青い珠を出した。
潮満珠。深い青。海の底の色。手のひらの上で——低い音を出している。渦の音と同じ高さで。
「これは何だ」
「潮を動かす道具だ。——祖父の形見」
「潮を動かす。——嘘だろう」
「嘘じゃない。ただし半分しか使えない。潮を満たすことはできるが、引かせることはできない。——満たすだけでいい。左の渦に潮を足せば、渦が膨れて右にずれる。ずれた隙間を通れるか」
椎根津彦が黙った。長く。
「……やったことがない」
「俺もない」
「失敗したら」
「渦が大きくなって、船が巻かれる」
「…………」
「しかし——もう一つある。俺の耳。渦の音を聞いている。珠で潮を押して、渦がずれた瞬間を——俺が聞き分ける。ずれたら叫ぶ。あんたがその瞬間に船を通す」
「珠と耳と俺の目。——三つか」
「三つ繋いで渡る。一つだけでは足りない。三つ合わせて——ぎりぎり足りる」
「ぎりぎりか」
「半分の力は、繋げば足りる。——たぶん」
「たぶんをつけるな」
「……足りる」
全船に伝えた。
手順。
一。俺が珠を使って左の渦に潮を足す。渦が膨れて右にずれる。
二。左岸に隙間ができた瞬間を、俺が叫ぶ。
三。椎根津彦が先頭の船を通す。後続は間を詰めて一列で続く。
四。五瀬命が声で合図を繋ぐ。先頭から最後尾まで。
五。多芸志美美が最後尾で、通り終わった船を数える。十七隻全部通ったら——終わり。
「全部通る前に渦が戻ったら?」
多芸志美美が聞いた。
「もう一度珠を使う」
「何度使える」
「……分からない。祖父は一度で疲れ切ったと聞いた。——俺は祖父ほど強くない。二度が限度だと思う」
「二度で十七隻通せるか」
「通す。——一度目で十隻。二度目で七隻」
「根拠は」
「ない。——聞こえた数だ」
「…………」
「聞こえた数を信じるしかない。俺の耳を信じろ」
多芸志美美が黙った。それから——頷いた。
「信じる。——父上の耳を」
朝。潮が一番速い時間を選んだ。
逆だと思うだろう。潮が遅い時間の方が安全だと。——違う。潮が速いときの方が、珠で押したときの反応が大きい。速い潮に力を足せば——大きくずれる。遅い潮に力を足しても——少ししかずれない。
椎根津彦がそう言った。俺もそう聞こえた。目と耳が同じ答えを出した。
青い珠を握った。
冷たかった。海の底の温度。手のひらが凍えるくらい冷たい。
「——行く」
珠を掲げた。
音が変わった。
海の底から——何かが上がってきた。水が動いた。左の渦に向かって、水が押し寄せた。渦が——膨れた。大きくなった。白い泡が広がった。
渦が右にずれた。
左岸に——隙間ができた。水が澄んでいる場所。渦と岩のあいだの、細い道。船二隻分。
「今だ!」
叫んだ。
五瀬命が叫んだ。もっとでかい声で。
「行け!」
椎根津彦が先頭の船を突っ込ませた。隙間に。渦の縁をかすめて。船が揺れた。——しかし通った。二隻目。三隻目。四隻目。
手が痛い。珠が冷たい。指が動かなくなりそうだ。
五隻目。六隻目。七隻目。
渦が戻ろうとしている。膨れた渦が——元の大きさに縮もうとしている。隙間が狭くなっていく。
八隻目。九隻目。十隻目。——通った。
手を離した。珠を。指が白くなっていた。凍傷の一歩手前。
渦が戻った。隙間が消えた。
残り七隻が外に取り残された。——多芸志美美の船が最後尾にいた。
息を整えた。手を揉んだ。指の感覚が戻るのを待った。
二度目。
青い珠を握り直した。——さっきより冷たい。珠が怒っているのか疲れているのか分からない。どちらにしても——使う。
「もう一度行く」
珠を掲げた。
海が動いた。渦が膨れた。隙間が——できた。さっきより狭い。船一隻半分。
「今だ!」
声が——かすれた。叫んだが、かすれた。
五瀬命が拾った。かすれた声を。もっとでかい声に変えて。
「行け! ——残り全部!」
十一隻目。十二隻目。十三隻目。
手が震えている。珠が重い。石より重い。山より重い。海の底の重さ全部が手のひらに乗っている。
十四隻目。十五隻目。十六隻目。
十七隻目。多芸志美美の船。最後。——渦の縁が船腹をかすめた。木が軋む音が聞こえた。
通った。
手を離した。珠を。膝をついた。立っていられなかった。
十七隻全船通過。損害なし。
椎根津彦が俺の横に来た。
「……あんた、死ぬかと思ったぞ」
「死んでない」
「手が真っ白だ。——珠の代償か」
「代償というほどのものじゃない。冷えただけだ」
「冷えただけで膝をつく男は初めて見た」
「……記す係は体が弱いので」
「嘘をつけ」
多芸志美美が駆けてきた。
「父上。——手」
「大丈夫だ」
「大丈夫じゃない。指が動いてない」
「……しばらくすれば動く」
「白い珠の方を使っていたら——もっと楽だったのか」
「白は応えない。俺には。——半分しか使えない」
「半分で十七隻通したのか」
「半分を二回だ。足せば一回分。——足りた。ぎりぎり」
多芸志美美が俺の手を握った。温かかった。——船大工の嫁の手も温かいと言っていた。この子は温かい手に縁がある。
記す。
浪速の入り江、突破。
使ったもの。潮満珠。椎根津彦の目。俺の耳。五瀬命の声。多芸志美美の数。——五つ繋いで渡った。
祖父は珠を一人で使った。力で海を動かした。力で兄を従わせた。——後悔した。
俺は一人で使えなかった。半分しか応えなかった。だから人に頼った。目と声と数を繋いだ。——半分の力は、繋げば足りる。足りないことが、繋ぐ理由になる。
祖父よりましだったかどうか分からない。ただ——誰も沈まなかった。全員通った。
それで十分だ。
——指が、少しずつ動き始めた。
〈第十四章・了〉




