第十三章 速吸門の男
瀬戸の海を抜けた。
島が減った。波が変わった。低くて規則的だった瀬戸の波が——高くて不規則な外海の波になった。船が揺れた。吉備で板を厚くしておいて良かった。薄い船なら——折れていた。
東に向かう。浪速に向かう。——その手前に、海峡がある。
速吸門。
速い、と名前についている海峡が安全なはずがない。
多芸志美美が速い船で先行した。戻ってきたとき、顔色が変わっていた。
「潮が速い。——渦を巻いている。大船は通れない」
「通れない?」
「通れなくはない。——しかし潮の目を外すと巻き込まれる。潮の目が動く。さっきと今で位置が違う」
潮の目が動く。読めない。——瀬戸の潮は読めた。十五年かけて覚えた。しかし速吸門の潮は違う。ここの潮は——ここの者にしか読めない。
地の水は、地の者に聞くしかない。
海峡の手前で船を止めた。
潮を読む者を探す。——しかしこの海峡の周りに湊がない。岩場ばかりだ。人が住む気配がない。
多芸志美美をもう一度出した。速い船で海峡の周りを探らせた。
戻ってきた。
「人がいた」
「どこに」
「海峡の真ん中に」
「……真ん中?」
「亀の甲に乗って、釣りをしていた」
見に行った。速い船で。
——いた。
海峡の真ん中。潮が渦を巻いている場所の、すぐそばに。亀がいた。大きい亀だ。背中が平らで、人が一人座れるくらいの大きさ。その上に——男が座っていた。
釣りをしていた。竿を垂らして。渦の隣で。
潮が渦を巻いているのに——亀は流されていない。亀の足がゆっくり動いて、潮の中で同じ場所に留まっている。男は揺れてもいない。渦の隣に座って釣り糸を垂らしている姿が——当たり前のように落ち着いていた。
「おい」
声をかけた。船から。
男がこっちを見た。日に焼けた顔。髪は短い。体は細いが——腕だけ太い。櫂を漕ぐ腕ではない。潮に逆らう腕だ。
「あんた——何者だ」
「釣り人だ」
「渦の隣で釣りをする釣り人がいるか」
「いる。——ここが一番釣れる。渦の縁に魚が集まる。潮に巻かれた虫を食いに来るからだ」
「…………」
「あんたこそ何者だ。でかい船を連ねて。——見たことない旗を掲げて」
「西から来た。東に行く」
「東。——浪速か」
「そうだ」
「この海峡を通るのか」
「通る。——通れるか」
「あんたの船では無理だ。大きすぎる。潮の目を読めなければ——巻き込まれて沈む」
「潮の目は——読めるか。あんたには」
男が笑った。亀の上で。竿を持ったまま。
「読めなかったら渦の隣で釣りはしない」
名を聞いた。
「椎根津彦。——この辺の海の者だ」
「国つ神か」
「神なんぞじゃない。海峡に住んでいる男だ。潮を知っている。それだけ」
塩椎の翁と同じことを言う。塩の神と呼ばれて「大袈裟だ」と言った老人と。——海に生きる者は皆、大きな名前を嫌がる。名前が大きいと海に嫌われるのかもしれない。
「水先案内を頼めるか」
「あんたの船を海峡に通すのか。——十七隻」
「見えていたのか」
「見えていた。——朝から。あの岩の裏に止まっているだろう。全部数えた」
数えていた。——多芸志美美と同じだ。見て、測る男。この男もそうだ。
「通せるか」
「通せる。——ただし俺のやり方でやる。あんたの総帥がどんなに偉くても、海峡の中では俺の声に従え。海峡の潮を知っているのは俺だけだ」
「……構わない。海峡の中ではあんたが総帥だ」
「良い判断だ。——地の水は、地の者に聞け。それが海の掟だ」
椎根津彦を五瀬命に引き合わせた。
「この男が水先案内です。海峡の中ではこの男の声に従ってください」
五瀬命が椎根津彦を見た。——椎根津彦が五瀬命を見た。
「でかい男だな」
「声がでかいだけだ」
「声がでかい総帥は良い。——海峡で声が通る」
「声なら任せろ。海の底まで届く」
「底まではいらない。——船から船に届けばいい」
嚙み合っているのか嚙み合っていないのか分からない会話だが——二人とも笑っていた。声のでかい男と潮を知る男は、相性が良いらしい。
翌朝。海峡を通った。
椎根津彦が先頭の船に乗った。亀は——海峡の手前で離した。「あいつは遅い。船の方が速い」と言った。亀が少し寂しそうな顔をした気がしたが——亀の顔は分からない。
「三番目の渦と四番目の渦のあいだに筋がある。幅は船二隻分。そこを通せ」
「見えない」
「見えなくていい。——潮の色が違う。濃い青と薄い青の境目を走れ。薄い方に寄るな。巻かれる」
五瀬命が叫んだ。後ろの船に。
「濃い青を走れ! 薄い方に寄るな!」
声が全船に届いた。——椎根津彦が頷いた。「良い声だ」と小さく言った。
十七隻が一列に並んで、渦と渦のあいだを走った。左右に渦が回っている。水が白く泡立って、音がする。——ごう、という低い音。海が怒っている音ではない。海が動いている音だ。海は怒らない。ただ動く。動いているところに入れば巻かれる。動いていないところを見つければ——通れる。
椎根津彦が潮を読んでいた。目で。——聞いてはいない。見ている。潮の色を。泡の形を。渦の回る速さを。全部目で拾って、口で指示を出している。
俺は——耳で聞いていた。渦の音を。水が押す音を。引く音を。目と耳で同じものを別の角度から読んでいた。
椎根津彦が「右に寄せろ」と言った瞬間。俺も同じことを言おうとしていた。——目と耳が同じ答えを出した。
「あんた——聞こえるのか」
「聞こえる」
「目で読む者はいたが、耳で聞く者は初めてだ。——面白い男だな」
「記す係なので」
「記す係が耳を持っているのか。——良い軍だな」
十七隻。全船通過。損害なし。
海峡を抜けた。
椎根津彦が船の縁に座って足を海に垂らしていた。仕事が終わった顔。
「このまま来るか」
「来る。——ここで亀に戻っても退屈だ。あんたの軍の方が面白い」
「飯は出る」
「飯が出れば十分だ。——それと、浪速の潮も少し知っている。あの入り江は渦が多い。案内なしで入れば——沈む」
「……最初からそれを言ってくれ」
「聞かれなかったからな。——聞く係なら、聞けば良かった」
記す。椎根津彦。水先案内。亀に乗る男。潮を目で読む。口が減らない。——使える。
人材登用について記す。
軍には三種類の人間が要る。
一。旗を持つ者。声で人を動かす。五瀬命。
二。弓を持つ者。腕で敵を倒す。稲飯命。
三。道を知る者。目と耳で進路を開く。椎根津彦。そして——俺。
三種類が揃わない軍は、どこかで止まる。旗だけでは道が分からない。弓だけでは方角が分からない。道だけでは人が動かない。
十五年かけて三種類が揃った。遅いか。——遅くない。揃わないまま進んで全員沈むよりましだ。
椎根津彦が仲間に加わった日の夜。海に手を入れた。
——濁っている。まだ。高島宮の前夜より——少し濃い。近づいている。濁りの元に。
近づいている。——覚悟はしている。
東へ。
〈第十三章・了〉




