表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
13/45

第十三章 速吸門の男


 瀬戸せとの海を抜けた。

 島が減った。波が変わった。低くて規則的だった瀬戸せとの波が——高くて不規則な外海そとうみの波になった。船が揺れた。吉備きびで板を厚くしておいて良かった。薄い船なら——折れていた。

 東に向かう。浪速なにわに向かう。——その手前に、海峡がある。

 速吸門はやすいのと

 速い、と名前についている海峡が安全なはずがない。

 多芸志美美たぎしみみが速い船で先行した。戻ってきたとき、顔色が変わっていた。

「潮が速い。——渦を巻いている。大船は通れない」

「通れない?」

「通れなくはない。——しかし潮の目を外すと巻き込まれる。潮の目が動く。さっきと今で位置が違う」

 潮の目が動く。読めない。——瀬戸せとの潮は読めた。十五年かけて覚えた。しかし速吸門はやすいのとの潮は違う。ここの潮は——ここの者にしか読めない。

 地の水は、地の者に聞くしかない。

 海峡の手前で船を止めた。

 潮を読む者を探す。——しかしこの海峡の周りにみなとがない。岩場ばかりだ。人が住む気配がない。

 多芸志美美たぎしみみをもう一度出した。速い船で海峡の周りを探らせた。

 戻ってきた。

「人がいた」

「どこに」

「海峡の真ん中に」

「……真ん中?」

「亀の甲に乗って、釣りをしていた」

 見に行った。速い船で。

 ——いた。

 海峡の真ん中。潮が渦を巻いている場所の、すぐそばに。亀がいた。大きい亀だ。背中が平らで、人が一人座れるくらいの大きさ。その上に——男が座っていた。

 釣りをしていた。竿を垂らして。渦の隣で。

 潮が渦を巻いているのに——亀は流されていない。亀の足がゆっくり動いて、潮の中で同じ場所に留まっている。男は揺れてもいない。渦の隣に座って釣り糸を垂らしている姿が——当たり前のように落ち着いていた。

「おい」

 声をかけた。船から。

 男がこっちを見た。日に焼けた顔。髪は短い。体は細いが——腕だけ太い。かいを漕ぐ腕ではない。潮に逆らう腕だ。

「あんた——何者だ」

「釣り人だ」

「渦の隣で釣りをする釣り人がいるか」

「いる。——ここが一番釣れる。渦の縁に魚が集まる。潮に巻かれた虫を食いに来るからだ」

「…………」

「あんたこそ何者だ。でかい船を連ねて。——見たことない旗を掲げて」

「西から来た。東に行く」

「東。——浪速なにわか」

「そうだ」

「この海峡を通るのか」

「通る。——通れるか」

「あんたの船では無理だ。大きすぎる。潮の目を読めなければ——巻き込まれて沈む」

「潮の目は——読めるか。あんたには」

 男が笑った。亀の上で。竿を持ったまま。

「読めなかったら渦の隣で釣りはしない」

 名を聞いた。

椎根津彦しいねつひこ。——この辺の海の者だ」

「国つ神か」

「神なんぞじゃない。海峡に住んでいる男だ。潮を知っている。それだけ」

 塩椎しおつちおきなと同じことを言う。塩の神と呼ばれて「大袈裟だ」と言った老人と。——海に生きる者は皆、大きな名前を嫌がる。名前が大きいと海に嫌われるのかもしれない。

「水先案内を頼めるか」

「あんたの船を海峡に通すのか。——十七隻」

「見えていたのか」

「見えていた。——朝から。あの岩の裏に止まっているだろう。全部数えた」

 数えていた。——多芸志美美たぎしみみと同じだ。見て、測る男。この男もそうだ。

「通せるか」

「通せる。——ただし俺のやり方でやる。あんたの総帥がどんなに偉くても、海峡の中では俺の声に従え。海峡の潮を知っているのは俺だけだ」

「……構わない。海峡の中ではあんたが総帥だ」

「良い判断だ。——地の水は、地の者に聞け。それが海のおきてだ」

 椎根津彦しいねつひこ五瀬命いつせのみことに引き合わせた。

「この男が水先案内です。海峡の中ではこの男の声に従ってください」

 五瀬命いつせのみこと椎根津彦しいねつひこを見た。——椎根津彦しいねつひこ五瀬命いつせのみことを見た。

「でかい男だな」

「声がでかいだけだ」

「声がでかい総帥は良い。——海峡で声が通る」

「声なら任せろ。海の底まで届く」

「底まではいらない。——船から船に届けばいい」

 嚙み合っているのか嚙み合っていないのか分からない会話だが——二人とも笑っていた。声のでかい男と潮を知る男は、相性が良いらしい。

 翌朝。海峡を通った。

 椎根津彦しいねつひこが先頭の船に乗った。亀は——海峡の手前で離した。「あいつは遅い。船の方が速い」と言った。亀が少し寂しそうな顔をした気がしたが——亀の顔は分からない。

「三番目の渦と四番目の渦のあいだに筋がある。幅は船二隻分。そこを通せ」

「見えない」

「見えなくていい。——潮の色が違う。濃い青と薄い青の境目を走れ。薄い方に寄るな。巻かれる」

 五瀬命いつせのみことが叫んだ。後ろの船に。

「濃い青を走れ! 薄い方に寄るな!」

 声が全船に届いた。——椎根津彦しいねつひこが頷いた。「良い声だ」と小さく言った。

 十七隻が一列に並んで、渦と渦のあいだを走った。左右に渦が回っている。水が白く泡立って、音がする。——ごう、という低い音。海が怒っている音ではない。海が動いている音だ。海は怒らない。ただ動く。動いているところに入れば巻かれる。動いていないところを見つければ——通れる。

 椎根津彦しいねつひこが潮を読んでいた。目で。——聞いてはいない。見ている。潮の色を。泡の形を。渦の回る速さを。全部目で拾って、口で指示を出している。

 俺は——耳で聞いていた。渦の音を。水が押す音を。引く音を。目と耳で同じものを別の角度から読んでいた。

 椎根津彦しいねつひこが「右に寄せろ」と言った瞬間。俺も同じことを言おうとしていた。——目と耳が同じ答えを出した。

「あんた——聞こえるのか」

「聞こえる」

「目で読む者はいたが、耳で聞く者は初めてだ。——面白い男だな」

「記す係なので」

「記す係が耳を持っているのか。——良い軍だな」

 十七隻。全船通過。損害なし。

 海峡を抜けた。

 椎根津彦しいねつひこが船の縁に座って足を海に垂らしていた。仕事が終わった顔。

「このまま来るか」

「来る。——ここで亀に戻っても退屈だ。あんたの軍の方が面白い」

「飯は出る」

「飯が出れば十分だ。——それと、浪速なにわの潮も少し知っている。あの入り江は渦が多い。案内なしで入れば——沈む」

「……最初からそれを言ってくれ」

「聞かれなかったからな。——聞く係なら、聞けば良かった」

 記す。椎根津彦しいねつひこ。水先案内。亀に乗る男。潮を目で読む。口が減らない。——使える。

 人材登用について記す。

 軍には三種類の人間が要る。

 一。旗を持つ者。声で人を動かす。五瀬命いつせのみこと

 二。弓を持つ者。腕で敵を倒す。稲飯命いなひのみこと

 三。道を知る者。目と耳で進路を開く。椎根津彦しいねつひこ。そして——俺。

 三種類が揃わない軍は、どこかで止まる。旗だけでは道が分からない。弓だけでは方角が分からない。道だけでは人が動かない。

 十五年かけて三種類が揃った。遅いか。——遅くない。揃わないまま進んで全員沈むよりましだ。

 椎根津彦しいねつひこが仲間に加わった日の夜。海に手を入れた。

 ——濁っている。まだ。高島宮たかしまのみやの前夜より——少し濃い。近づいている。濁りの元に。

 近づいている。——覚悟はしている。

 東へ。

〈第十三章・了〉

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ