第十二章 高島宮の八年
吉備、高島宮。
八年いた。
八年は長いか。——七年より一年長い。足すと十五年。美々津を出てから十五年。
なぜ八年か。記す。
吉備は瀬戸の海の出口にある。
ここまでは島が守ってくれた。島と島の間を縫って進めば、外の海に出なくて済んだ。波は低く、潮は読め、湊が並んでいた。
ここから先は——違う。
瀬戸を抜けると大きな海に出る。大きな海の先に浪速がある。浪速の先に——あの国がある。塩椎の翁が言った、青い山に囲まれた国。
出口の手前で——止まった。止まって、八年かけて仕上げた。
船を仕上げた。
多芸志美美が吉備の船大工とも組んだ。安芸の船大工が瀬戸の潮を知っていたように、吉備の船大工は外海の波を知っていた。
「瀬戸の船と外海の船は違う。——板の厚さが違う。瀬戸は薄くて速い船がいい。外海は厚くて重い船がいい。波が叩くからだ」
多芸志美美が安芸で学んだことと吉備で学んだことを合わせた。瀬戸の速さと外海の強さを一隻に入れた船。——そんなものが作れるのか分からなかった。作れた。三年かけて。
船の最終編成を記す。
大船七隻。荷船五隻。速い船五隻。合わせて十七。美々津を出たとき十二。五隻増えた。
兵を仕上げた。
吉備の男も加わった。日向と安芸と吉備。三つの土地の男が混じった軍。弓と櫂と——吉備の男は剣がうまかった。石を割る仕事をしていた男たちだ。腕が太い。近い間合いでは弓より速い。
混ぜた。三つ目の血を混ぜた。弓と櫂と剣。遠くと海と近く。
千五百になった。美々津を出たとき八百。倍近い。——しかし、倍の数が倍の力になるとは限らない。混ぜた分だけ、合図が複雑になる。旗三色では足りない。
旗を五色に増やした。赤は進め。白は止まれ。青は退け。黄は集まれ。黒は——散れ。
散る旗を作った。囲まれたときに四方に散る合図だ。五瀬命は嫌な顔をしなかった。退く旗のときとは違う。——七年で兄も変わった。「面倒なことを先にやる」を覚えた。
多芸志美美に部隊を持たせた。
速い船五隻と、その乗員百五十人。物見だけではない。先行して湊を確かめ、水を確保し、敵がいれば報せる。——独立した部隊だ。俺の指示がなくても動ける。
「父上。俺に任せてもらえるか」
「二度目だな。——任せる」
「一度目は船を作るときだった。今度は船を動かすときだ」
「動かせるか」
「動かせる。——母上が海人だったから。海の上では誰よりも聞こえる」
「聞こえる?」
「……ああ。俺も——少し聞こえるんだ。父上ほどじゃないが。波の音が変わるのが。——今まで言わなかった」
「…………」
「言わなかったのは——父上の真似をしていたからだ。聞こえても黙っている。末の子がそうだったように、息子もそうだと思っていた」
「……もう黙るな」
「ああ。——黙らない。聞こえたら言う」
息子が——俺と同じ失敗を、もう少しで繰り返すところだった。聞こえているのに言わない。それで誰かが死ぬ。俺はまだ誰も死なせていない。——しかし浪速では分からない。
言え。聞こえたら言え。——俺が四十五年かけて覚えたことを、息子に繰り返させるな。
筋を仕上げた。
吉備から東の情報が少しずつ入ってきた。稲飯命が筋を伸ばした結果だ。
分かったこと。
一。浪速の入り江は潮が速い。渦を巻く場所がある。——船で突っ込むと沈む可能性がある。
二。浪速の東に、大きな盆地がある。山に囲まれた平らな土地。——塩椎の翁が言った国だろう。
三。その盆地を治めている者がいる。名前は分からない。しかし——強い。土地の者が「逆らえない」と言うくらいには。
四。その者の上に、天から降りた者がいるという噂がある。——邇芸速日。やはりいる。
五。邇芸速日が何者で、何を考えているかは——分からない。
分からないことが多い。しかし岡田宮のときよりは増えた。「何も分からない」から「五つ分かった」に変わった。十五年かけて五つ。遅いか。——遅くない。一つでも分かれば、分からないまま突っ込むよりましだ。
八年のあいだに——人が死んだ。
二十三人。病で十四。事故で六。喧嘩で二。自ら命を絶った者が一。
喧嘩の二人は日向の兵と吉備の兵だった。酒の席で。混ぜた軍の代償だ。混ぜれば摩擦が起きる。摩擦を減らすことはできるが、なくすことはできない。
自ら命を絶った男は——妻に逢いたいと言っていたらしい。十五年だ。日向を出てから十五年。妻が待っているかどうか分からない。分からないことに十五年耐えるのは——全員ができることではない。
名は記した。全員分。
八年目の秋。
準備が終わった。船は仕上がった。兵は仕上がった。筋は伸びた。——出る条件が揃った。
出航の前夜。湊に出た。
海に手を入れた。
——濁っていた。
初めてだった。美々津を出てから十五年。岡田宮でも多祁理宮でも——澄んでいた。ずっと。
今夜。初めて——濁っている。
波の音が変わっていた。低い音の中に——別の音が混じっている。重い音。押す音。東の方から来ている。何かが東にある。何かが——待っている。
凶兆だ。
迷った。——言うべきか。聞こえたことを全部言うと決めた。決めたなら言う。しかし——凶兆を言えば、兵が動揺する。五瀬命が動揺する。十五年かけた出発の前夜に。
迷って——記した。声に出す代わりに。頭の中に。
凶兆。——ただし出る。
波が濁っている。東に何かがある。——しかし出る。ここまで来て引き返す理由にはならない。凶兆は「危ない」という意味であって「行くな」という意味ではない。危ないと分かっていて行くのは——愚かか勇敢かのどちらかだ。どちらでもいい。行く。
風は待てる。冬の風は春を待てばいい。——しかし歳月は待てない。五十を過ぎた男に残りの年は多くない。花の血が流れている。短い命の血が。
記す。
凶兆。ただし出る。風は待てるが、歳月は待てない。
翌朝。五瀬命に言った。
「出ます。——波が少し荒い。しかし出ます」
「荒いのか」
「荒い。——しかし出る理由の方が大きい」
「…………」
「凶兆が出ました」
「……凶兆?」
「波の音が変わった。東に何かがある。——良いものではない」
「それでも出るのか」
「出ます。凶兆は『危ない』であって『行くな』ではない。危ないと分かっていて行くなら——備えて行ける。分からずに行くよりましです」
五瀬命が俺を見た。長く。——笑った。
「お前が言うなら、行く。——凶兆ごと」
「はい」
「お前の耳を信じる。——お前の耳が『出る』と言うなら、出る」
旗を掲げた。五色。赤が先頭。
兵が声を上げた。千五百の声。十五年分の声。
高島宮、八年。
得たもの。船五隻。兵七百。筋。三つの土地を混ぜた軍。五色の旗。息子が将になった。敵情五つ。
失ったもの。二十三人。それと——八年。
足すと美々津から十六年。得たもの全部。失ったもの全部。——帳簿を閉じる。
次に開くとき——何が書かれるかは分からない。凶兆がある。波が濁っている。東に何かが待っている。
分からないまま行く。——聞こえたものは全部持って。
〈第十二章・了〉




