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第十九章 南方迂回


 総帥が代わった。

 兵は知っている。五瀬命いつせのみことが死んだことを。末弟の狭野さのが継いだことを。——知っているが、慣れていない。

 声がでかい男の後に来たのは、声が小さい男だ。旗を持って舳先へさきに立つ男の後に来たのは、船の真ん中で耳を澄ませる男だ。兵は戸惑っている。戸惑いは記す。記さないと——後で崩れたとき、なぜ崩れたか分からなくなる。

 男之水門おのみなとを出る前に、軍議を開いた。

 出席は四人。俺。稲飯命いなひのみこと三毛入野命みけいりぬのみこと多芸志美美たぎしみみ。——椎根津彦しいねつひこも呼んだ。水先案内だが、もう仲間だ。五人。

「南に回る。五瀬命いつせのみことの遺言だ」

「南——とは、どこまで南だ」

 稲飯命いなひのみことが聞いた。

紀伊きいの半島を回り切る。南の端を越えて、東に出る。——東に出れば、大和やまとの裏に回れる。裏から西に攻め上がれば、日を背にできる」

「半島を回り切る。——海路か」

「海路しかない。陸路はない。紀伊きいの山は深い。千四百の兵を山越えさせるのは——北の山道と同じだ。着く前に飢える」

「海路は」

 椎根津彦しいねつひこが答えた。

「荒い。——紀伊きいの南は黒潮くろしおが走っている。速い。熊野灘くまのなだという海だ。名前の通り——荒い。瀬戸せととは比べものにならない」

「通れるか」

「通れる日を選べば通れる。——選べなければ沈む。天気次第だ」

「天気次第、か」

「天気と喧嘩しても勝てない。——前にも言ったはずだ」

 前にも言った。岡田宮おかだのみやで。あのときは冬の風を待った。今度は——何を待つ。

 南方迂回の地勢を記す。

 紀伊きいの半島は南に向かって突き出ている。西側が我らのいる海。東側が——大和やまとに続く海。南の先端を回れば、東側に出られる。

 しかし南の先端は——熊野灘くまのなだだ。黒潮くろしおが西から東に走っている。この潮に乗れれば速い。乗れなければ——巻かれる。

 東側に出たら、熊野くまのの浜に上陸する。そこから山を越えて——大和やまとの盆地に入る。東から。日を背にして、西へ攻め下る。

 これが五瀬命いつせのみことの遺言「回り込め」の実行計画だ。

 問題は三つ。

 一。熊野灘くまのなだを渡れるか。天気次第。

 二。熊野くまのから大和やまとまでの山道があるか。分からない。地の者に聞くしかない。

 三。兵の士気が持つか。——これが一番の問題だ。

 士気の話をする。

 千四百の兵は——疲れている。

 日向ひむかを出てから十六年。岡田宮おかだのみやで一年。多祁理宮たけりのみやで七年。高島宮たかしまのみやで八年。——それだけの年月を費やして、最初の戦で負けた。総帥が死んだ。旗が落ちた。

 疲れている、という言い方は正確ではない。——折れかけている。

 折れた兵は走る。逃げる方に。折れかけている兵は——止まる。進めない。退けない。どっちにも動けなくなる。

 今がそれだ。

 兵を見ていれば分かる。目が死んでいる。飯を食う手が遅い。声が小さい。——三毛入野命みけいりぬのみことが笑っても、笑い返す者が減った。

 三毛入野命みけいりぬのみことに聞いた。

「持つか」

「持たせる。——しかし長くはない。動かさないと腐る。止まっている軍は腐る」

「動かす、とは」

「南へ出す。船に乗せる。——船の上では腐れない。波と戦っている間は、人間のことを忘れる。人間のことを忘れている間に——傷が少し塞がる」

「……それは、兵を海に投げ込むということだ。熊野灘くまのなだに」

「そうだ。——危ない方に投げ込む。危ない方が、折れかけた兵には向いている。安全な場所にいると——考える時間ができる。考えると折れる。考えさせないために、動かす」

 正しいかどうか分からない。——しかし三毛入野命みけいりぬのみことは人の空気を読む男だ。この人が「動かせ」と言うなら、止まっている方が危ないのだろう。

 右手の話を記す。

 指が——少し動くようになった。

 男之水門おのみなとで三日休んだ。その間に、右手の人差し指と中指が動いた。薬指と小指は——まだ動かない。親指はかすかに動く。

 弓は引けない。握力がない。——もともと弓は下手だったから、失ったものは少ない。しかしはしが持てない。飯を左手で食っている。

 多芸志美美たぎしみみが言った。「左手で食えるなら、左手で記せる」と。正しい。左手で記す練習を始めた。——字が汚い。読めなくはないが汚い。

 たまはまだ使えるか。——分からない。左手で握れば使えるかもしれない。しかし左手でも同じ代償が来るなら——両手とも動かなくなる。

 両手が動かなくなったら——記せなくなる。記す係が記せなくなるのは、死ぬより困る。死んでも帳簿は残るが、記せなくなったら帳簿が途絶える。

 たまは——最後の手段にする。最後の最後の。

 出発した。南へ。

 男之水門おのみなとを出て、紀伊きいの西岸を南に下った。

 海が変わった。波が高くなった。瀬戸せとの波でも浪速なにわの波でもない。外海そとうみの波。大きくて、遅くて、重い。船が持ち上げられて、降ろされる。持ち上げられて、降ろされる。——体の中が揺れる。飯が出そうになる。

 三毛入野命みけいりぬのみことが笑った。

「ほら——考える暇がないだろう」

 兵が吐いていた。船の縁から。——折れかけていた目が、吐いた後で少しだけ生き返っていた。生き延びることで忙しくなると、死んだ目が戻る。

 紀伊きいの西岸を南下する間に、椎根津彦しいねつひこが情報を集めた。岸に寄せるたびに、土地の漁師に聞いた。

熊野灘くまのなだは渡れるか」

「渡れる。——秋はなぎの日がある。その日を選べ」

なぎはいつ来る」

「分からん。——来るまで待て」

 分からない。——来るまで待つ。天気の話は全部同じだ。待つしかない。

 もう一つ聞いた。

熊野くまのの山を越えて、大和やまとに行けるか」

「行ける。——ただし道がない」

「道がない?」

「獣道しかない。昔、山の中に入った者がいるが——帰ってこなかった者もいる。山の毒気どくけにやられたと言う者もおる」

毒気どくけ

「山の奥から出る毒だ。——吸うと眠くなる。眠って起きなくなる」

 毒のある山。道のない山。——その山を越えなければ大和やまとに出られない。

 記す。

 南方迂回作戦の見通し。

 良い点。日を背にできる。浪速なにわの正面を避けられる。長髄彦ながすねびこの裏に回れる。

 悪い点。熊野灘くまのなだが荒い。熊野くまのの山に道がない。毒気どくけがある。兵の士気が折れかけている。総帥が代わったばかり。右手が動かない。

 悪い点の方が多い。——いつも通りだ。

 いつも通り、進む。聞こえたことを全部言いながら。

 南へ。

〈第十九章・了〉


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