弐
鶯が鳴きはじめる春の頃。桜の花びらが地面に舞い落ちていた。畳の香りがする陰陽寮でいびきをかいて、眠っていたのは土御門迅が憑依するこの世界で生きる祖先の土御門 康成であった。平安の陰陽師で無位の下級であり、周りからは幽霊のような存在で忘れ去られていることもしばしばあった。
昨夜の妖怪退治で一躍注目を浴びたかと思われたが、退治したのは土御門ではなく、安倍晴明だという者が多数存在した。確かに術を唱えたのは土御門迅が憑依する康成であり、力も一流だったにも関わらずに名前が挙がって来ない。この世界で人気者になれないと判断した迅はふて寝をして、朝になっても起きることはなかった。誰かに気づかれることもないと、そう思っていた。
背の高い慣れない枕に頭をつけて、寝返りを打ち、またいびきをかくと、障子の向こう側で話し声がした。
「……言ったであろう。妾は忙しいと……いつまで着いてくるの」
十二単を身に纏った女が、後ろからついてくるのは黒い烏帽子をかぶり、少し着崩れた直衣を着ていた男がいた。
「どこまでもでございますよ。ここで会えるなんて夢のようです。貴方様のようなお美しい方に会えるなんてありがたき幸せです。ぜひ、私と一緒にお茶でも飲みませんか?」
「えー? そんな言葉は、誰にも言ってることじゃないの?」
「いーえ、違いますよ! さぁ、さぁ、一緒に行きましょう」
ざわつく廊下が耳障りだった土御門は、体をむっくりと起こし、断りきれぬ女性の前に立ち憚った。よく見ると、誘っていた男性はどこかで見たことあるような顔をしていた。
「困っているでしょう? 無理に誘うのはいかがなものか。この時代にそんなに責める誘いは嫌われますよ? ご存じないのですか?」
「お、おぬし、何者だ。見ない顔だな……こんな時間に起きたのか?」
不思議そうな顔をして、マジマジと土御門の顔を見るのは、鬼柳兵吉の祖先である和賀 時平であった。役人で検非違使としての仕事を務めていた。令和で言うところの警察だ。見回りをしていた時に綺麗な女性を見つけてしまったようだ。
「ん? 起きてはいけないのか? ん? 誰も起こしに来ないんだぞ」
「誰が下流のお前を起こすんだよ。変なやつだ。怪しい、何か悪さをするつもりだろ! さぁ、来い。捕まえてやる」
急に仕事スイッチの入った和賀 時平は、土御門の体をぐいぐい引っ張り、廊下を突き進んでいく。
「あら、よく見たらとても綺麗顔立ち。いと尊き人。どこに行かれるの?」
「まさか、この男の方が良いとおっしゃるんですか!?」
「そなたより、鼻も高く、優しそうな顔をしておるではないか。そんな乱暴に、その手を放しなさい!」
「そうだそうだ!」
「……チッ。所詮、皆、顔が綺麗だからって……」
涙が出そうなくらいに悔しがる和賀 時平は、掴んでいた土御門の体をそっと放した。
「そなたは綺麗じゃ。自信を持つがよい」
十二単を着た名前も知らない綺麗な女性は、寝転んだ土御門の顔を拝むと、ペチッと持っていた扇子で頬を叩いた。
「な! 痛っ。なんてひどい!」
「綺麗なものを見ると、崩したくなる性分でねぇ」
「こ、こわッ」
和賀 時平は一連の流れを見て、心のわだかまりが消えて晴れていた。悔しい思いがすっきり解消されたのだ。
「――土御門!!」
少し離れたところから、安倍晴明がこちらを睨み叫んでいた。彼にとっては土御門の行動は興味津々だ。自分の力よりも遥かに強い力を持っていることを肌で感じていた。この時代に存在しない者であるということも薄々感じている。
「あ、安倍晴明 様……」
お叱りを受けるのかと手足が震えていた。慌てて、敬意を伝えるために袖口で両手を隠して、お辞儀をした。隣にいた和賀 時平と十二単の女性も頭を下げる。
「探しておったぞ。どこにいたのかと思えば……今から藤原氏が和歌と詠むというのに、陰陽師のおぬしが聞かずしてどうする!」
「はぁ……わたくしが聞かずとも、平気なのではありませんか?」
「何を言うか! 来たまえ」
身分の低い自分が安倍晴明に引っ張られ、寝殿に向かっている。貴族たちが集まる神聖な場所だ。この時代に来て、まだ日が浅い。こんな状況になるとは思わなかった。土御門 康成(迅)は言われるまま着いていく。彼にとって、眠くなるような和歌を聞く時間は長く感じた。
――――平安時代の藤原道長の正妻である源倫子は、縁の下の力持ちのごとく、表には出ずとも、しっかりと夫を支える信念を持っていた。一方、側室である源明子は、穏やかで控えめに過ごしていた。声には出さずとも、心の内側では嫉妬心が強くなっていた。
邸宅の寝床で、源明子は白い着物をそっと着込んだ。通い婚と呼ばれるこの時代では、藤原氏が直接女性の部屋に行くというのが決まりだった。
ある夜のこと、額に汗を流して、白い肌に細い指をなぞる。
「どうして、わたくしではないのですか?」
「何を言うのかと思ったら……そんなこと、考えなくていい」
「……そうやって、いつも話をそらすのですね。まぁ、慣れていますけど……」
「その口、もう開けぬようにしてやろうか?」
「……まぁまぁ。怖い怖い。わたくしの口が無くなったら困るのはわたくしだけではないですよね。接吻さえもできなくなりますよ」
月明りに光る彼女の白い肌に藤原氏は、手を伸ばして、源明子の喉をぐっとおさえた。不穏な空気が流れる。言ってほしくないことを言われて、腹が立っていた。邪悪な念が背中から沸き上がる。
「く……苦しい……」
「綺麗な首だ……」
ハッと我に返った藤原氏は、そっと手をおろす。
「風邪をひいてしまうな……」
そう言って、部屋を後にした。首筋に残る彼の触れた手のぬくもりがまだ少し残っていた。障子の向こう側で、邪悪な気配を感じた安倍晴明が札を片手に待機していたとは誰も知らなかった。土御門に負けないと必死で行動する安倍晴明に少し焦りが見えた。
庭園の鹿威しが静寂をかき消すようにカツンと鳴った。




