弐
―――― 三ケ月前のこと
檜の香りが漂う紅色の橋の手すりの上に、一羽の鶯が羽根を休めていた。風が揺らぎ、楓の葉が舞い落ちる。ふと、人の動きを察し、鶯は空へと飛び立った。
平安京にある内裏の南門――健礼門の前で、大勢の陰陽師たちが結集していた。ここでは毎年決まって、鬼気祭が行われていた。都のすべての疫病退散を願うためだ。
儀式を参列するはずだった土御門 康成がまだ来ていなかった。ともに陰陽道を習う倉橋 泰久が腕を組んで、足をパタパタとさせていた。
「まだなのか。こんな時間だというのに、大事な儀式に出ないつもりなのか……」
心中穏やかで居られない泰久は、数十人いる陰陽師の行列の中、そっと抜け出し、康成を探しに狩衣を持ち上げて走った。人をかき分けて進むたびに睨まれる。誰も後ろに戻る者はいないからだろう。そんなのも気にせずに突き進む。
スズメたちが広く綺麗な庭園に集まり、御屋敷の屋根の上に飛び立った。ぽちゃんと、カエルが池に落ちている。波紋が浮かび、ハスの葉が揺れていた。
布団の中にもぐり込んで爆睡していた康成は、寝返りを打った。
――土御門 康成の夢――
日本・東京の地で鬼である酒吞童子と決戦後、世界のすべてを失った令和時代の土御門 迅は亡くなった。迅の魂は光を保ちながら、深い深い海の中に沈んでいく。漆黒色の海の中で、小さい光はだんだんと大きくなって人型に輝き出すと、白い狩衣を纏い、膝を抱えて沈んでいた。
ぽたんと水の上に落ちる音が響く。
頭の中で今までの記憶がすべて走馬灯のように映し出される。天国でも地獄でもない飛ばされた意識の中、じっと動かなかった。
闇の世界が、地上から細く光が差し込んだ。誰かの声が響く。その声がどんどん大きくなっている。あまりにもうるさい声に、たまらなくなって、海の上に浮かびあがった。
目を開けると、鼻に畳の匂いがした。そこは、大きな広い和室の中だった。上半身を起こすと、全身に大量の汗をかいて寝巻の着物はびしょ濡れになっていた。
「土御門!! 何をやっている。さっきから何度も起こしてるだろ。いい加減に起きろよ!!」
(こいつ、誰だ? じいちゃんの友達か?)
大きな声で叫ぶ男は、白い狩衣を着た陰陽師だった。迅は、平安時代の土御門家の祖先 土御門 康成になっていた。土御門 迅からすると、かなり遠いおじいちゃんということになる。
「ああ?!」
現代の迅が憑依しているのかそのものに転生したかはわからない。口調が現代風になっていた。倉橋 泰久はかなり驚いて、口をあんぐり開けていた。低血圧で機嫌が悪いのはいつものことだが、こんな喋りをしたことがない。警戒して、飛んで離れた。
「あ……お前、低級霊でも憑いてるのか? 俺が除霊してやる」
「え、いや、その。違う違う!!」
突然の口調の変化に倉橋 泰久は霊にとりついてるのかと慌てて、お札を出したが、土御門 康成の体にいる迅は、危険を察して逃げ回った。
「い、今、起きます! 起きますから!」
寝巻から、儀式用の白い狩衣に着替え始めた。何だかいつもと調子が狂うなと思いながら、身なりを整える。寝坊するのは現代と同じだと改めて、落胆する。
(おじいちゃんも寝坊してたんだなぁ……いたっ)
愚痴が聞こえたようで空中から扇子でたたかれた。後ろを振り向くと誰もいない。さらに前を向くと、本物の土御門 康成の霊体がぷかぷかと浮かんでいた。
「はぁ?!」
(土御門 迅。お前なぁ、わしが寝坊するわけなかろう。お前をたたき直すためにここまで連れてきたんだ。一から陰陽師の勉強をしなおせ。ここで初心者から丁寧に教えてくれるぞ。わかったか!)
どうやら、あまりにも見かねた祖先の土御門 康成が土御門 迅の霊体を現代から引っ張りだしたようだ。また扇子で頭をたたかれた。
「いってーって!」
霊力が低いせいか、倉橋 泰久には見えていなかった。
「何をしてる?! 一人芝居か?」
「え、いや。違います。えっと……」
「いいから、行くぞ。儀式はとっくに始まってるんだぞ!!」
着ていた狩衣をぐいぐいと引っ張られて、鬼気祭の会場に向かった。
行列の中に紛れ込んだ土御門 康成に入った迅は、周りから怖い目で睨まれていた。霊体の康成は、呆れた顔をして、肩をすくめる。
『どこの時代でも、お前は無能な陰陽師なんだよなぁ……』
ボソッと小さくつぶやいたはずの霊体の康成の声は、地獄耳だったようで舞台に立つ肉体の康成(迅)にすっかり聞こえていた。
「無能っていうんじゃねぇ!!」
その大きな一言でじろりと陰陽師たちは康成の肉体(迅)を睨み続けて、空気が重かった。
(この緊張感、何なんだよ。殺されるかと思った!! 半端ねぇし。今すぐ現代に戻りたいぃ。マジで、ここで修行なんて勘弁してくれ!!)
心の声は、空にまでこだまする。
舞台上で念を唱え終えた安倍晴明は、何も話さずに折り紙で作った鶴をそっと空に向けると、一瞬にして白鷹に変えた。
陰陽師の力で式神を空へ送り込んだ。
さらに参列していた陰陽師たちも折り紙を白鷹に変えて、都に巨大な結界を張り巡らせた。これで妖怪や鬼が近づくことはない。
真っ青な空の平安京は今日も平和に見えた。
だが、北の船岡山では、不穏な雲が集まり始めていた。
土御門 迅は、土御門 康成の肉体に入り、陰陽師としての長い長い修行が始まっていく。




