壱
羅城門の奥の方、朱雀大路をずっと北上すると、大内裏の南に神泉苑という庭園があった。そこにある法成就池という池があった。
大きなアマガエルが岩の上で休んでいると、慌ただしく赤い橋の上を走る者がいた。
女の悲鳴が聞こえると、その男は烏帽子をかぶり直して、袴の裾をあげながら、走り去る。
「こんな薄気味悪いところ、いつまでもいられるか!」
「ちょっと、待って。置いていかないで!」
平安京の召人と呼ばれる女性貴族や女官の愛人とされる男であった。ちょうど月が天にのぼり、煌々と輝きだす頃だった。
怨霊が出ると噂される池の水面にぼんやりと映る老婆の姿を目撃する者が後を絶たない。
「怖がるのは仕方ないことだけども、あたしを置いていくことの方が末恐ろしいのよ!」
「な、な、そんなの知ったこっちゃないわ!」
男は、女にべったりと引っ付かれても、ぐいっと肩を押して、剥がした。さっきまで、月が綺麗ねと見つめ合い盛り上がっていたはずの矢先だった。
「……一体、何が良くなかったって言うのよ、全く。どこにも怨霊なんて、いないじゃない!」
男が立ち去り、追いかけることを辞めた女は着物を持ち上げて、元来た道を戻ろうと、赤い橋の上を通りかかった。池の水面には満月がきらきらと輝いていた。
「なんて、綺麗なの。殿方と一緒じゃないのか、とても残念だわ」
女は、赤い橋の高欄に手をかけて、頬杖をついた。深いため息をつく。ゆらゆらと揺れる水面。錦鯉が満月の光に輝きだす。
「一人で見るのは味気ないわ……」
こんなに綺麗な夜の景色をなぜ横には誰もいないかと悔いた。すると、池の水面に何度も波紋ができた。何も落ちるものは無い。
「なんで、揺れたのかしら……」
その言葉を発した瞬間、池は大きな波を作り、赤い橋の上にいた女を池の水ごと連れ去って行った。海の波のような勢いで橋はびしょ濡れになる。何が起きたのか。女は悲鳴を上げる暇もなく、跡形もなく消え去って行った。
――― 一方、その頃、土御門 迅が憑依する肉体である土御門 康成は、大津 明衡という現代の元同僚の大津 智司の祖先の男と商店街通りを歩いていた。
「ここで間違いないですか?」
「ああ、ここだ。今に来るだろう」
天を見上げ、指を差す大津をじっと見る土御門 迅は、羅城門の南側の唐橋と呼ばれる赤い橋を渡っていた。空を見ると、飛んでくるのは土御門よりも大きな式神カラスだった。大津の式神カラスの足元には小さな巻物がくくられていた。土御門の式神カラスの獼猴桃は、かなり遠くの杉の木から見守っていて、何をしているかさえ分からない。
「巻物をくくっていたのか……」
「そうだ、こうやって、お互いに式神カラスを使って連絡をしている」
「連絡って、相手は誰なんですか?」
「聞きたいか。聞いて後悔しないだろうな?」
「は? それって聞かせたいんですか、聞かせたくないんですか」
「ん? それはどっちもよいわ。お前が決めろ」
「……もう、どうでもよいわ!」
「あ、待て。言う。言うから。あのな……コホン、大春日 義道殿だ」
大津 明衡は、慌てて咳払いをすると誰と交換しているかを説明した。それは、現代で言う大春日 舞子の祖先だった。平安時代でも、この二人は切っても切れない関係性のようだった。
「ほ、ほう。そうなら、素直に最初から教えてくれればいいじゃないですか」
「……な!? おぬしは失敬なやつだな。先輩の私にそんな口を利くとは!」
「あ、や、やべぇ。つい、口が滑った」
土御門 康成の肉体に憑依した土御門 迅の上には、土御門 康成本人の霊体がふわりと浮かび、ポカリと頭を叩いた。
『バカモン! すぐそうやって現代語を使いおって! 口を慎め。先輩陰陽師を大事にせんと、昇格試験は遠のくぞ。上下関係を甘く見るな?』
「ちぇ、霊体だからって自由にしてくれちゃってさ。そっちも霊体と人間の扱いしっかりしてくれよな!」
土御門迅は、頭をぼりぼりかいて、後ろの土御門 康成の霊体を睨みつけた。
「おぬし、何をしておる!? よからぬことを企むのあれば、安倍晴明様に報告するぞ」
「な!? それは勘弁してくださいませ! あー、どうすればいいんだ」
頭をぐわんぐわんかきむしり、悩ませていた。そこへ、やって来たのは安倍晴明率いる陰陽師達が列を連なっていた。賀茂光栄も後ろからついて来ていた。
「ここで一体何をしておったのだ?」
「あ、安倍晴明様。お疲れ様でございます」
口笛を吹いて、何も無かったようにそっぽを向く土御門迅。隣で大津 明衡は詳細に説明する。まだ悪いことはしていない。大津の伝達は、悪いようには伝わなかったようだ。土御門迅は胸をそっと撫で下ろし、安心していた。
だが、目を丸くするほど驚く法成就池の女性行方不明事件について安倍晴明に詳しく聞かされたのは、その後のことだった。




