肆
真っ暗闇の中で、水が滴り落ちた。波紋が広がった。
また水が落ちる。鈴を鳴らす音が響き渡った。
風が強く吹くと、真上から釣瓶が落ちて来た。
ロープを何度も引っ張って持ち上げようとする少年がいた。瞳の色が朱く、髪の毛は宙にくるんと舞っていた。天然パーマと言うべきなのだろうか。寝ぐせというべきなのだろうか。無造作ヘアというべきなのか。平安時代にはふさわしくない髪型をしていた。
「これって、どれくらい入れればいいんだろう」
「―――おーい、何してるんだ?」
そこへ現れたのは大きな尻尾を隠さずに走ってやって来た白狐兎だった。令和時代からタイプスリップしてこの平安時代にやって来た。肉体は本人のものだが、力は鈍くなっている。白狐兎の曾祖父の氷狐竜が神主でもある稲荷神社で居候していた。
「え……えっと。これって、合ってるかなって思って……」
「お前、水汲みもしたことないのかよ。その釣瓶ってやつに水を入れたら、その曲物桶に入れるだけだ。簡単だろ。お前、今までどこに暮らしていたんだよ」
「…………さぁ?」
少年は遠い目をして答えた。時々、考えていることが分からない。体全体に赤いオーラを纏わせて誰かと話してるような素振りを見せるその少年の名は「赫」と言った。いつの間にか、この神社に住み着くようになったというが、人間なのか狐なのかそれさえも分からない。神社の仕事を手伝うというのだから、人手不足にちょうどよいと氷狐竜が笑って話しているのを白狐兎は面白くない顔で見ていた。大好きな稲荷を赫という少年と半分こしなくちゃいけなくなったからだ。ブツブツ文句を言いながら、境内の掃除を二人で協力してやっていた。
「あのさ、俺がリーダーでいいか。ここの神主はじいちゃんだけど、この掃除のリーダーは俺な!」
「……ふーん。別にどうでもいいけど、その《《リーダー》》で食べられるの?」
「…………」
自分で言って馬鹿みたいだなと感じた白狐兎だった。鼻息を大きく吹くと、箒を勢いよく動かした。
「ねぇ、さっきから、氷狐竜さんのこと、じいちゃんっていうのは、なんで? まだ25歳って聞いたけど、どうしてそんなこと言うの?」
赫は鳩のフンを洗い流そうと、神社の石畳に曲物桶から水を地面に撒いた。近くにいたスズメたちが驚いて、空に飛び立った。
「じ、じいちゃん? 俺にとってはじいちゃんだからな。まぁ、いいだろう。そんなの気にするなって、掃除、掃除。今日のおやつはみたらし団子って言っていたからな。俺は稲荷の次に好きなものだ」
「……ふーん。それ食べて何になるの? 猪や熊を食べた方が力つくだろ」
「は? お前、何喰って生活してきたんだ?」
「あー……何でもない」
変なことを言ったと察した赫は、顔を伏せて箒を何度も動かした。
鳥居にかけられた紙垂が風も起きない場所で何度も揺れた。何かを感じ取った白狐兎は、背中をぼりぼりとかいた。
「うーん、今日は何だか、不吉だな……」
「…………」
話すことが嫌になった赫は掃除用具を持って、静かに立ち去った。白狐兎は疑問符を浮かべて、まだ汚れが取れない石畳を力を込めて、掃除した。
「ちくしょーー、この犬のフン。べったりくっついてるんじゃねぇよ! 運が付くなら許してやるのになぁ!? もう!」
ごしごし勢いよく動かしても、なかなか取れない。水を思いっきりかけて、もう一度こすってようやく取れた。
「俺は、今日、かなりいい仕事したぜ。ひゃっほい! 稲荷、稲荷~、みたらし~みたらし」
鼻歌を歌いながら、掃除用具片手にスキップして、屋敷の中に入って行った。境内の奥の方、飾られた風鈴が勢いよく揺れた。鈴の音色が心地よく感じる。
「……そのまま、平和でいてほしいもんだよ」
その景色を見た白狐兎は、これから何かが起きるんじゃないかという予感がしていた。
杉の木に止まっていた1羽のカラスが空へと飛び立った。




