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第9話 香草茶と騎士たちの笑顔

 井戸の底に浮かんだ黒い羽は、灰のように崩れて消えた。


 最後に見えたのは、王都大神殿の聖香炉に刻まれていた紋章。


 リリアはしばらく、その水面から目を離せなかった。


 胸の奥が、冷たくなる。


 やはり、繋がっている。


 王都の聖香。

 白い神殿。

 セシリアが掲げた銀の香炉。

 そして、この辺境古城の井戸の底に潜む黒い何か。


 偶然ではない。


 そう思うのに、まだ証拠は何もなかった。


「リリア」


 ノアの声で、リリアは我に返った。


「顔色が悪い」


「……すみません。少し、考え込んでしまって」


「王都の紋章を見たのか」


 リリアは小さく頷いた。


「はい。大神殿の聖香炉にあったものと同じに見えました」


 ノアの表情が険しくなる。


 カイルも、井戸の底を覗き込みながら眉をひそめた。


「王都大神殿が絡んでるってことですか?」


「断定はできない」


 ノアは短く答える。


「だが、無視はできないな」


 リリアは手首を押さえた。


 黒い痕の痛みは、井戸の香りが薄くなったせいか少し落ち着いている。

 けれど、完全に消えたわけではない。


 この井戸も。

 薬草園の黒い根も。

 ミナの悪夢も。


 すべて、まだ終わっていない。


 けれど、今すぐ井戸の底へ降りるわけにはいかない。

 黒い羽は弱まっただけで、正体は掴めていない。


 リリアは深く息を吸った。


 井戸から漂う香りは、まだ重い。

 でも、先ほどまでのように孤児院へ伸びていく悪夢の匂いは薄れている。


 まずは、今日守れたものを見るべきだ。


 ミナは笑った。

 小さな芽はまだ生きている。

 ルゥも無事だ。


 それを忘れてはいけない。


「ノア様」


「なんだ」


「今日は、井戸に近づく人を減らしたほうがいいと思います。水はまだ直接使わないで、薬草園も孤児院も、別の水を使ってください」


「分かった」


「それから……もし可能なら、騎士団の皆さんにも、少し香草茶を出せませんか」


 ノアがわずかに目を瞬かせた。


「香草茶?」


「はい。昨日の薬室で、皆さんの呼吸が少し楽になっていました。井戸の香りが完全に消えていないなら、身体の中へ入る香りを少し整えたほうがいいと思うんです」


 説明しながら、リリアは自分の言葉が頼りなく聞こえないか不安になった。


 香りを身体の中へ入れる。

 呼吸を整える。

 疲れた人の匂いを和らげる。


 神殿なら、また感覚だけだと笑われただろう。


 けれどノアはすぐに頷いた。


「何が必要だ」


 その返事の早さに、リリアは少しだけ戸惑う。


「えっと……白露草と銀葉ミント、蜜根を少し。月眠草は夜用に少量だけ。あとは大きな鍋と、お湯と、できれば蜂蜜を」


「カイル」


「はい! 食堂に用意させます」


「騎士団員には昼の訓練後に集まるよう伝えろ。井戸水は使用禁止。西棟の貯水樽を使う」


「了解です」


 カイルは走っていった。


 あまりにも手際がよくて、リリアはまた驚いてしまう。


「そんなにすぐ、皆さんに集まっていただいて大丈夫なのですか?」


「今の騎士団には休息が必要だ」


 ノアは静かに言った。


「君がそう判断したなら、試す価値がある」


「……ありがとうございます」


「礼ではない。こちらが頼んでいる」


 頼んでいる。


 その言葉に、リリアの胸はまた少し温かくなった。


 隣でルゥが、得意げに尻尾を振る。


 まるで、自分が褒められたかのような顔だ。


「あなたも手伝ってくれる?」


 リリアが尋ねると、ルゥは当然というように鼻を鳴らした。


 昼前。


 古城の食堂には、大きな鍋が二つ並べられた。


 石造りの広い食堂は、決して華やかではない。

 長い木の卓。

 古い椅子。

 壁にかかった黒翼獅子の紋章旗。


 普段は騎士たちの食事場所として使われているらしく、空気には焼いた肉と固いパン、鉄と革の匂いが染みついていた。


 けれど、今日はそこに薬草の香りが混ざっている。


 白露草の澄んだ香り。

 銀葉ミントの青い香り。

 蜜根のやわらかな甘さ。


 リリアは鍋の前で、慎重に配合を調整していた。


 昼用は、眠くなりすぎないよう月眠草を入れない。

 疲れを和らげ、呼吸を少し楽にして、頭の重さを取る香りにする。


 夜用は別に作る。


 不眠に悩む者には、月眠草をほんの少し。

 ただし、悪夢へ深く沈まないよう、銀葉ミントを合わせる。


 神殿では、リリアはいつも裏方だった。


 聖香が焚かれる大広間に立つのは、セシリア。

 貴族たちに褒められるのも、セシリア。

 リリアは香炉を磨き、薬草を刻み、終わった後に灰を片づけるだけだった。


 けれど今、食堂の中央で鍋をかき混ぜている。


 騎士たちや侍女たちが、少し離れたところから興味深そうに見ている。


 視線はある。


 でも、嘲りではない。


「リリアさん、こっちの蜂蜜はどれくらい入れます?」


 カイルが小瓶を持って尋ねた。


「昼用は少しだけで大丈夫です。甘くしすぎると、疲れが一気に出て眠くなってしまうかもしれないので」


「なるほど。団長に飲ませるなら甘めですね」


「カイル」


 食堂の入口からノアの声が飛んだ。


 カイルはびしっと背筋を伸ばす。


「冗談です」


「冗談に聞こえなかった」


「でも団長、昨日眠れたじゃないですか」


「今はリリアの作業の邪魔をするな」


「はいはい」


 そのやり取りに、食堂の中から小さな笑いが起こった。


 リリアもつい口元を緩める。


 ノアは少し困ったようにこちらを見る。


「すまない。騒がしい」


「いえ。楽しそうで、いいと思います」


 そう言うと、ノアは一瞬だけ黙った。


「楽しそう、か」


「はい」


 リリアは鍋をゆっくりかき混ぜながら、食堂を見回した。


「皆さん、とても疲れています。でも、誰かが冗談を言うと、少しだけ香りが軽くなるんです」


「香りが軽くなる?」


「笑うと、息が変わるので」


 リリアは少し恥ずかしくなりながらも続ける。


「薬草だけで整えようとするより、人の声や食事や、安心できる場所も大事なのだと思います」


 ノアは静かに聞いていた。


 やはり笑わない。


 それだけで、リリアは続きを話せた。


「たぶん、この城はずっと気を張りすぎています。魔獣も、呪いも、悪夢もあるから当然なのですが……ずっと息を詰めていると、良い香りも入ってこなくなります」


「だから香草茶か」


「はい。大きな解呪はまだできません。でも、皆さんが少し楽に息をできる時間を作ることなら、できるかもしれません」


 ノアは鍋から立ちのぼる湯気を見つめた。


 その横顔は、いつものように感情が読みにくい。


 けれど、声は少しだけ柔らかかった。


「君は、戦い方が変わっているな」


 リリアは瞬きをした。


「戦っているつもりは……」


「ある」


 ノアははっきり言った。


「剣を抜くだけが戦いではない。眠れない兵に眠りを戻すことも、怯える子どもを悪夢から戻すことも、薬草園の芽を守ることも、この城では十分な戦いだ」


 リリアは手を止めた。


 胸の奥が、きゅっと締めつけられる。


 戦い。


 自分のしてきたことを、そんなふうに考えたことはなかった。


 ただ、誰かが困らないように。

 薬草が枯れないように。

 香炉が傷まないように。

 子どもが怖がらないように。


 それだけだった。


 でも、それを戦いと呼んでくれる人がいる。


「……ありがとうございます」


「また礼か」


「はい。言いたいので」


 ノアは少しだけ目を伏せた。


「そうか」


 その時、食堂の入口から騎士たちが次々と入ってきた。


 訓練終わりなのだろう。

 額には汗が滲み、鎧の隙間から革と鉄の匂いがする。


 だが、それ以上に濃いのは疲労の香りだった。


 焦げた灯芯。

 乾いた喉。

 浅い眠り。

 強い緊張。


 リリアは思わず鍋の香りを確かめる。


 強すぎない。

 弱すぎない。

 これなら、大丈夫。


「皆さん、お疲れさまです」


 リリアが声をかけると、騎士たちは一瞬だけ戸惑ったように止まった。


 それから、ぎこちなく頭を下げる者が何人かいた。


「あ、ああ」

「リリアさん、だったか」

「守護獣様を助けてくれたっていう……」


 視線がリリアから、足元のルゥへ移る。


 ルゥはリリアの隣に座り、ふんぞり返っていた。


 騎士たちの間に、妙な緊張が走る。


「守護獣様……」

「昨日、俺が近づいたら唸られたんだが」

「俺なんて目を合わせたら逃げられたぞ」


 ルゥはますます胸を張った。


 リリアは慌てて言う。


「ルゥはまだ怪我が治ったばかりなので、少しずつ慣れてもらえたらと思います。今日は皆さんの香りを覚えてもらうためにも、同じ香草茶を飲んでいただけたら」


「香りを覚える……」


 騎士たちは顔を見合わせる。


 少し不思議そうではあったが、馬鹿にする者はいない。


 ノアが短く言った。


「飲め」


 その一言で、全員が器を受け取り始めた。


 少し強引な気もしたが、結果として列ができる。


 リリアは一人ずつ、香草茶を注いだ。


「熱いので、少し冷ましてください」

「夜に悪夢が強い方は、後で別の配合にします」

「胃が重い方は蜂蜜を少なめにしますね」

「訓練後なので、先に水も飲んでください」


 言葉をかけるたび、騎士たちは少し驚いた顔をした。


「なんで胃が重いって分かったんだ?」

「俺、悪夢見るって言ったっけ?」

「水を先に飲めって、うちの母親みたいだな」


 その最後の言葉に、周囲から笑いが起こる。


 リリアは頬を赤くした。


「す、すみません。口うるさかったでしょうか」


「いや、懐かしい感じがしただけだ」


 騎士の一人が器を両手で包む。


「……いい匂いだな」


 その一言をきっかけに、皆が香草茶を口にし始めた。


 最初は恐る恐る。

 次に、少し驚いたように。

 そして、表情がゆっくり緩んでいく。


「あれ、飲みやすい」

「薬草ってもっと苦いと思ってた」

「喉が楽だ」

「なんか、胸の辺りが軽いな」

「飯前にこれ、いいかもな」


 食堂の空気が変わる。


 張りつめていた香りが、少しずつほどけていく。

 焦げた灯芯のようだった疲れの匂いに、白露草の澄んだ香りが混ざる。


 誰かが息を深く吸う。


 誰かが肩を回す。


 誰かが、久しぶりに笑う。


 それは大きな奇跡ではない。


 呪いを消したわけでもない。

 魔獣を倒したわけでもない。

 井戸の底の何かを解決したわけでもない。


 でも、食堂にいた人々の顔が、ほんの少し明るくなった。


 リリアはそれだけで、泣きそうになった。


 自分の手で淹れたものを、誰かが受け取ってくれる。

 おいしいと、楽になったと言ってくれる。


 こんなに嬉しいことだったのだと、初めて知った。


「リリアさん!」


 入口から声がした。


 振り返ると、ミナが世話係に手を引かれて立っていた。

 その後ろには、他の孤児たちもいる。


 皆、少し不安そうだが、香草茶の匂いに興味を引かれているようだった。


「ミナちゃん。大丈夫?」


「うん。羽音、聞こえない」


 ミナはそう言って、ルゥを見つけた途端にぱっと顔を輝かせた。


「狼さん!」


 ルゥは不満げに一度鼻を鳴らしたが、逃げなかった。


 ミナが近づいても、今日は大人しく座っている。


 リリアは笑った。


「この子、ルゥという名前になったの」


「ルゥ!」


 ミナが呼ぶと、ルゥの耳がぴくりと動く。


 完全に気に入っている。


 子どもたちにも薄めた香草茶を配ると、食堂はさらに賑やかになった。


「甘い!」

「いい匂い」

「ルゥ、こっち向いて!」

「騎士様、これ毎日飲めるの?」


 騎士たちは最初こそ戸惑っていたが、やがて子どもたちに席を譲ったり、器を運んだりし始めた。


 古城の食堂に、笑い声が広がる。


 ノアは壁際でそれを眺めていた。


 リリアが近づくと、彼はぽつりと言った。


「久しぶりだ」


「何がですか?」


「この食堂で、子どもたちが笑っているのを見るのが」


 リリアは食堂を見た。


 ミナがルゥの毛を撫でている。

 ルゥは偉そうな顔で耐えている。

 カイルが子どもたちに囲まれ、訓練用の木剣を見せている。


 ガレスは香草茶を飲みながら、「蜜根が少し多いな」と言いつつ二杯目を要求していた。


 リリアは思わず微笑む。


「よかったです」


「ああ」


 ノアはリリアを見る。


「君が来てから、城の香りが少し変わった」


 リリアは目を見開いた。


「ノア様にも、香りが分かるのですか?」


「君ほどではない。ただ……空気が軽くなったのは分かる」


 それだけで、十分だった。


 リリアは胸の前で手を重ねる。


「まだ、何も解決していません」


「それでも、変わった」


 ノアの声は静かだった。


「小さな変化を軽く見るな。戦場では、それが人を生かすことがある」


 リリアは唇を結んだ。


 神殿では、小さな仕事は見えないものだった。


 窓を開けること。

 水を替えること。

 香炉を磨くこと。

 薬草の香りを確かめること。


 誰かにとっては、どうでもいい雑用。


 でも、ここでは違う。


 小さな変化が、人を生かすと言ってもらえる。


「……はい」


 リリアは小さく頷いた。


 その時、食堂の入口に一人の騎士が駆け込んできた。


 鎧に旅塵がついている。

 どうやら城門から急いで来たらしい。


「団長!」


 食堂の空気が、一瞬で引き締まる。


 ノアが振り返った。


「どうした」


「王都から早馬です。大神殿の封蝋が押された書状が届きました」


 リリアの心臓が、どくりと鳴った。


 王都大神殿。


 食堂にいた者たちの視線が、自然とリリアへ向く。


 ノアは表情を変えず、騎士から書状を受け取った。


 白い封筒。

 金の封蝋。

 見覚えのある聖香炉の紋章。


 リリアの手首の黒い痕が、じくりと痛んだ。


 ノアは封を切り、文面に目を通す。


 読むほどに、その目が冷えていく。


「ノア様……?」


 リリアが声をかけると、ノアは書状を閉じた。


 そして、ひどく静かな声で言った。


「リリア・エルムに対する正式な追放処分通知だ」


 分かっていたはずなのに、胸が痛んだ。


 もう神殿には戻れない。


 それは分かっていた。


 けれど、正式な文字にされると、最後の細い糸まで切られたようだった。


 ノアは続ける。


「大神殿は君を、祝福式妨害と聖香汚染の罪で告発するつもりらしい」


 食堂がざわめいた。


 リリアは息を呑む。


「聖香汚染……?」


 汚染させたのではない。


 リリアは止めようとしたのだ。


 でも、証明できない。


 あの場では誰も信じなかった。


 ノアの手の中で、書状の紙がわずかに音を立てた。


「さらに書かれている。君が辺境に逃亡した可能性があるため、見つけ次第、王都へ送還せよと」


「送還……」


 ミナが不安そうにリリアの服を掴んだ。


「リリアお姉ちゃん、連れていかれるの?」


 リリアは答えられなかった。


 喉が詰まる。


 神殿の白い大広間が脳裏に蘇る。

 エルヴィンの冷たい声。

 セシリアの涙のふり。

 貴族たちの視線。


 役立たず。

 見苦しい。

 罪人。


 身体が震えかけた、その時。


 ノアが一歩前に出た。


「連れていかせない」


 低く、はっきりした声だった。


 食堂が静まり返る。


 ノアはリリアではなく、騎士たち全員に向けて告げた。


「リリア・エルムは、黒森の守護獣を救い、孤児院の悪夢を退け、騎士団の不眠を和らげた。現在、レーヴェン古城に必要な客人だ」


 リリアは目を見開いた。


 必要な客人。


 その言葉が、胸にまっすぐ刺さる。


「王都大神殿には、こちらから照会を返す。彼女の送還には応じない」


 カイルが真っ先に頷いた。


「当然です」


 ガレスも鼻を鳴らす。


「罪人が香草茶を淹れて、城中の呼吸を楽にしてたまるか」


 侍女が、ミナの肩を抱きながら言った。


「リリアさんは、ミナを助けてくださいました」


 別の騎士も声を上げる。


「俺も、昨日は久しぶりに眠れました」

「香草茶、明日も飲みたいです」

「守護獣様も懐いておられる」


 ルゥが得意げに一声鳴いた。


 リリアは、何も言えなかった。


 神殿では、誰も味方をしてくれなかった。

 何年も働いた場所で、リリアの言葉は届かなかった。


 けれど、来たばかりのこの古城で。


 まだ何も返せていないと思っていたこの場所で。


 皆が、リリアのために声を上げてくれている。


 ミナがリリアの服をぎゅっと握る。


「行かないで」


 その小さな声で、リリアの胸の奥にあったものが崩れた。


 泣きそうになりながら、けれどリリアは膝をついてミナと目を合わせる。


「……うん」


 声は震えていた。


 でも、ちゃんと自分で選びたかった。


「私は、ここにいたい」


 その言葉を口にした瞬間、手首の黒い痕が強く熱を持った。


 同時に、ノアが持っていた大神殿の書状から、焦げた聖香の匂いが立ちのぼる。


 リリアははっと顔を上げた。


 白い封筒の封蝋が、黒く滲んでいる。


 そして、誰も触れていないのに、書状の端が内側から焦げ始めた。


 紙の上に、黒い蝶の影が浮かぶ。


 ぱた、と。


 小さな羽音が、食堂に響いた。

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