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第10話 ここにいてほしい

 ぱた、と。


 小さな羽音が、食堂に響いた。


 ノアの手にある大神殿からの書状。

 その白い紙の上に、黒い蝶の影が浮かんでいる。


 影だけのはずなのに、羽が動いていた。


 ぱた。

 ぱた。


 濡れた羽が闇を叩くような音。


 ミナが小さく悲鳴を上げ、リリアの服を握る手に力を込めた。


「リリアお姉ちゃん……」


「大丈夫」


 リリアは反射的にミナを背に庇った。


 けれど、自分の声が少し震えているのが分かった。


 手首の黒い痕が、じくじくと熱を持っている。

 書状から立ちのぼる香りは、井戸の底で嗅いだものと同じだった。


 焦げた花。

 腐った水。

 甘く濁った聖香。


 そして、王都大神殿の祝福式で感じた、あの黒い濁り。


「全員、下がれ」


 ノアの声が食堂に落ちた。


 騎士たちが即座に子どもたちを後ろへ移す。

 カイルは剣に手をかけ、ガレスは薬草袋を開いた。


 ルゥが低く唸る。


 白い毛が逆立ち、額に淡い月の紋が浮かび上がった。


 ノアは書状を床へ落とした。


 紙は床に触れた瞬間、黒い火花を散らす。


 炎ではない。

 燃えているのに、熱ではなく冷気を放っている。


 黒い蝶の影は、紙から剥がれるように浮かび上がった。


 羽を広げる。


 その形は、ミナの悪夢で聞いた黒い蝶と同じだった。


「井戸のものと繋がっている……」


 リリアは呟いた。


 黒い蝶は、まるでリリアの声に反応したかのように向きを変えた。


 顔などないはずなのに、見られていると分かる。


 次の瞬間、蝶がリリアへ飛んだ。


「リリア!」


 ノアが動く。


 しかし、それより早くルゥが跳んだ。


 小さな白い身体が、黒い蝶へ飛びかかる。


 蝶とルゥの月の光がぶつかった。


 ぱん、と乾いた音がして、黒い羽がいくつも弾け飛ぶ。


 食堂に焦げた匂いが広がった。


「ルゥ!」


 リリアが叫ぶ。


 ルゥは床に着地し、少しよろめいた。

 まだ傷が癒えきっていないのだ。


 それでも、ルゥは再びリリアの前に立った。


 小さな身体で、全身を使って守ろうとしてくれている。


 リリアの胸に、熱いものがこみ上げた。


「無理しないで」


 そう言いながら、リリアは自分の鞄へ手を伸ばした。


 白露草。

 銀葉ミント。

 そして母の香炉石。


 書状から出た蝶は、井戸の底のものほど強くはない。


 これは本体ではない。

 たぶん、書状に仕込まれた残り香。

 誰かに貼りつき、夢や心へ入り込むための、小さな呪い。


 なら、今ここで薄められる。


 リリアは香炉石を握り、白露草を指先で揉んだ。


「この香りは、あなたの居場所じゃない」


 黒い蝶が羽を震わせる。


 食堂の灯りが、一瞬だけ暗くなった。


 耳元で声がする。


 ――戻れ。


 リリアの肩が揺れた。


 その声はエルヴィンに似ていた。


 ――お前は神殿のものだ。


 今度は神官長の声に似ていた。


 ――役立たずのくせに、逃げられると思うな。


 セシリアの甘い声が混じる。


 リリアの呼吸が浅くなった。


 戻らなければいけない気がする。

 謝らなければいけない気がする。

 自分が悪かったのだと、認めなければいけない気がする。


 神殿で何度も味わった感覚。


 自分の言葉より、誰かの言葉のほうが正しいと思わされる感覚。


 胸が苦しい。


 その時、背後から小さな手がリリアの服を引いた。


「リリアお姉ちゃん」


 ミナの声だった。


「行かないで」


 その一言で、リリアの中の香りが変わった。


 黒い声に沈みかけていた意識が、食堂へ戻ってくる。


 騎士たちの息づかい。

 香草茶の湯気。

 ルゥの雪の香り。

 ノアの静かな気配。


 ここにある。


 今、自分がいる場所。


 リリアはゆっくり息を吸った。


「私は、戻りません」


 声は小さかった。


 けれど、前よりもはっきりしていた。


「私はもう、神殿の失敗を隠すために香りを整える人間ではありません」


 香炉石が淡く光る。


 白露草の澄んだ香りが、食堂に広がった。


「ここには、私を必要だと言ってくれる人たちがいます」


 リリアは黒い蝶を見つめた。


「だから、あなたの声では戻らない」


 銀葉ミントの青い香りを重ねる。


 黒い蝶の羽が、びくりと震えた。


 ルゥが吠える。


 月の光が広がり、リリアの香りと重なった。


 黒い蝶は逃げようとした。


 だが、ノアがその退路へ踏み込む。


 剣は抜いていない。

 けれど、その存在だけで食堂の空気が引き締まる。


「ここはレーヴェン古城だ」


 ノアの声は低かった。


「誰の許可もなく、客人に触れるな」


 その瞬間、黒い蝶の羽が白く濁った。


 リリアは香炉石を胸の前で握りしめる。


「香りよ、ほどけて」


 ぱきん、と。


 薄い硝子が割れるような音がした。


 黒い蝶は羽先から崩れ、灰になって落ちていく。


 床に触れる前に、灰は白露草の香りに溶けて消えた。


 食堂に、静けさが戻る。


 リリアは大きく息を吐いた。


 途端に膝から力が抜ける。


「リリア!」


 ノアの腕が、すぐに支えた。


 倒れる前に受け止められ、リリアは慌てて顔を上げる。


「す、すみません」


「謝るな」


 ノアの声は少し硬い。


 怒っているのではない。

 心配しているのだと、今なら少し分かる。


「無理をした」


「でも、止められました」


「それと無理をしていいかは別だ」


「……はい」


 リリアが素直に頷くと、ノアは一瞬だけ言葉を失ったようだった。


 カイルが横から小さく呟く。


「団長、今の返事、貴重ですよ」


「黙れ」


「はい」


 食堂に、緊張の残りをほどくような笑いが少しだけ起きた。


 ガレスは焦げた書状の残骸を布で包み、鼻を近づけて顔をしかめる。


「ひどい臭いじゃ。聖香に似せておるが、中身は呪香に近い」


「呪香……」


 リリアはその言葉を繰り返した。


 聖香ではなく、呪香。


 神殿で聖なるものとして扱われていた香りの中に、呪いが混じっていたのだとしたら。


 リリアの背筋に冷たいものが走る。


「ガレス、それは分かるのか」


 ノアが尋ねる。


「完全には分からん。だが、ただの書状にこんなものを仕込める者は限られる。少なくとも、大神殿の内部で聖香炉に触れる立場の者じゃろう」


 食堂がざわついた。


 大神殿の内部。


 リリアの脳裏に、神官長マルドの顔が浮かぶ。


 いつも穏やかに笑い、セシリアを褒め、リリアには「余計なことを言わないように」と柔らかく釘を刺してきた人。


 彼なら、聖香炉にも触れられる。


 書状にも封蝋を押せる。


 けれど、まだ決めつけることはできない。


「証拠が必要ですね」


 リリアが言うと、ノアが頷いた。


「ああ。こちらから正式に照会を出す。書状に呪いが仕込まれていた件も含めてな」


「でも、大神殿が認めるでしょうか」


「認めさせるために、手順を踏む」


 ノアはそう言って、食堂の騎士たちを見た。


「この件は記録する。書状を受け取った者、蝶を目撃した者、香りの異変を確認した者、全員の証言を残せ」


「了解しました」


 カイルが真剣な顔で頷く。


 リリアはその様子を見つめた。


 神殿では、リリアの言葉は記録されなかった。

 異変を訴えても、思い込みだと言われた。


 けれどここでは、証言として残してくれる。


 リリアの見たものを、なかったことにしないでくれる。


 それだけで、胸が熱くなった。


 その時、ミナがそっとリリアの手を握った。


「リリアお姉ちゃん、ここにいる?」


 リリアはミナを見た。


 不安そうな瞳。


 その後ろには、他の孤児たち。

 さらに、香草茶の器を手にした騎士たち。

 心配そうな侍女たち。

 腕を組んだガレス。

 そして、リリアを支えたままのノア。


 皆が、リリアを見ていた。


 責める目ではない。


 待っている目だった。


 リリアがどうしたいかを。


 神殿では、そんなことを聞かれたことがなかった。


 どうしたいか。

 何を望むか。

 どこにいたいか。


 考える前に、役目が与えられた。

 責任を押しつけられた。

 失敗を背負わされた。


 でも今は違う。


 リリアは自分の胸に手を当てた。


 まだ怖い。


 大神殿から追放処分を出された。

 罪人として送還されるかもしれなかった。

 王都の誰かが、今もリリアを利用しようとしているかもしれない。


 それでも、戻りたくなかった。


 この城で見つけた小さな芽。

 悪夢から戻ってきたミナの笑顔。

 香草茶を飲んで息を吐いた騎士たち。

 リリアを選んだかもしれないルゥ。


 そして、笑わずに「君には何が匂う」と聞いてくれたノア。


「私は……」


 声が震える。


 でも、言わなければならない。


 自分で選ぶために。


「ここに、いたいです」


 食堂が静まり返った。


 リリアは続けた。


「私はまだ、自分に何ができるのか分かりません。神殿で言われたことを、全部忘れられたわけでもありません。役立たずじゃないと、胸を張って言えるほど強くもありません」


 喉の奥が熱い。


「でも、ミナちゃんの悪夢を少し遠ざけられました。ルゥの呪縛をほどけました。騎士団の皆さんに香草茶を淹れることもできました」


 リリアはノアを見た。


「だから、ここでできることを探したいです。薬草園も、井戸も、古城の香りも、整えたい。もし許されるなら……ここで働かせてください」


 言い終えた瞬間、胸が大きく鳴った。


 断られるかもしれない。

 客人として一時的に置くだけで、働くことまでは認められないかもしれない。


 そう思った。


 けれどノアは、迷わなかった。


「こちらから頼むつもりだった」


「え……?」


「リリア・エルム」


 ノアは改めて、リリアの前に立った。


 その灰色の瞳は、まっすぐだった。


「レーヴェン古城の薬草園管理と、呪香調査への協力を正式に依頼したい。君の身柄は、辺境伯家の客人として保護する。大神殿からの不当な送還要求には応じない」


 リリアは言葉を失った。


 正式に。


 保護する。


 依頼したい。


 それは、あまりにも大きな言葉だった。


「私で……いいのですか」


 思わず聞いてしまった。


 ノアの表情は変わらない。


「君がいい」


 胸の奥が、熱くなる。


 神殿を追い出された時、リリアの人生は小さな鞄ひとつになってしまったと思った。


 でも今。


 ここにいてほしいと言われている。


 必要だと言われている。


「……はい」


 リリアは深く頭を下げた。


「お受けします。私にできることを、精一杯やらせてください」


 食堂に、ほっとした空気が広がった。


 ミナが真っ先にリリアへ抱きつく。


「やった! リリアお姉ちゃん、いる!」


 子どもたちも笑い、騎士たちから拍手のような音が起こる。


 カイルが器を掲げた。


「じゃあ、リリアさんの古城勤務初日に乾杯ですね!」


「まだ昼だぞ」


 ノアが言う。


「香草茶なら問題ありません!」


 食堂に笑いが広がった。


 リリアも、泣き笑いのような顔で微笑んだ。


 ルゥが足元にすり寄り、尻尾を振る。

 まるで、最初からそうなると知っていたように。


 その日の午後。


 ノアは大神殿への返書を作成した。


 リリアの送還要求には応じないこと。

 書状に不審な呪香反応があったこと。

 リリアが黒森の守護獣を救助し、辺境古城の呪い調査に不可欠な人物であること。


 すべて、正式な文書として記された。


 リリアはその控えを見せてもらい、紙の上に自分の名前が丁寧に書かれているのを見て、少しだけ泣きそうになった。


 罪人としてではなく。


 必要な協力者として。


 夕方、薬草園ではミナたちが遠くから小さな芽を見守っていた。


 ルゥはそのそばで番をしている。


 騎士たちは井戸の周囲に仮の柵を作り、ガレスは黒い根の欠片を薬瓶に封じていた。


 リリアは、白露草を浸した布で小さな芽の周りの土を整える。


 まだ弱い。


 でも、昨日より少しだけ香りが澄んでいる。


「一緒に頑張ろうね」


 リリアが囁くと、芽がほんのわずかに揺れた。


 風のせいかもしれない。


 でも、返事のようにも思えた。


 その頃。


 王都大神殿の地下にある聖香庫では、一人の神官が悲鳴を上げていた。


「神官長! 聖香が……!」


 整然と並んでいた聖香の瓶。


 そのうちのいくつかに、黒い亀裂が走っている。


 瓶の中の白い香粉は、底からじわじわと黒く染まり始めていた。


 神官長マルドは、報告を聞いても表情を変えなかった。


 ただ、割れた瓶のひとつを手に取り、低く呟く。


「……あの娘が、辺境で何かをほどいたか」


 聖香庫の奥で、セシリアが顔を青ざめさせている。


「神官長様、どういうことですの? リリアお姉さまは、もう追放したはずでは……」


「だから困っているのだよ」


 マルドは静かに笑った。


 その笑みは、祝福式で貴族たちに向けていた穏やかなものとは違っていた。


「香りを整える手が、こちらにない」


 棚の奥で、また一つ、聖香瓶に亀裂が入る。


 ぴしり、と。


 白い香粉が黒く濁り、甘く焦げた匂いが聖香庫に広がった。


 セシリアは思わず口元を押さえる。


 マルドは割れた瓶を見つめながら、低く告げた。


「リリア・エルムを、必ず連れ戻しなさい。あれはまだ、自分の価値を知らない」


 聖香庫の暗がりで、黒い蝶の羽が一枚、音もなく舞い落ちた。

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