第11話 王都で腐る聖香
王都大神殿の朝は、香りから始まる。
少なくとも、リリアがいた頃はそうだった。
夜明け前に温室の窓が開けられ、湿った空気が外へ逃がされる。
白露草の葉についた雫が払われ、銀葉ミントの鉢は日陰へ移される。
乾燥棚の布は取り替えられ、聖水瓶の縁についた薄い膜は、誰にも気づかれないうちに拭き取られる。
それが毎日、当たり前のように繰り返されていた。
だから、誰も知らなかった。
その“当たり前”を、誰が支えていたのかを。
「……臭いわ」
セシリアは温室の入口で、白い扇を鼻先に当てた。
甘く華やかな香水をまとっているはずなのに、それでも隠せない臭いが温室の奥から流れてくる。
湿った草。
濁った水。
腐り始めた花。
そして、焦げた砂糖のような嫌な甘さ。
セシリアは眉を寄せた。
「昨日よりひどくなっていませんこと?」
そばにいた若い神官が、慌てて頭を下げる。
「申し訳ありません、セシリア様。朝から換気はしたのですが……」
「換気?」
セシリアは扇を閉じ、苛立った声を出した。
「ただ窓を開ければいいと思っていますの?」
「え、あの……」
「温室の空気は繊細なのですわ。聖香に使う薬草を育てる場所ですのよ?」
若い神官は青ざめる。
「も、申し訳ありません」
セシリアは小さくため息をついた。
本当は、どうすればいいのか分かっていなかった。
リリアは毎朝、何かをしていた。
窓を開ける順番。
水瓶を置く場所。
乾燥棚にかける布の種類。
香炉を磨く布の湿らせ方。
何か細かいことを、ひとりで黙々とやっていた。
だが、セシリアはそれを見ていなかった。
見る必要がないと思っていた。
だって、あれは下働きの仕事だったから。
正式な聖香師見習いであるセシリアが覚えるようなことではなかったから。
「リリアお姉さまは……」
そこまで言って、セシリアは口をつぐんだ。
いない。
あの地味で、目障りで、いつも難しい顔で香りを嗅いでいた義姉は、もういない。
自分たちが追い出した。
正確には、追い出してやった。
祝福式という晴れ舞台で恥をかかされかけたのだ。
婚約破棄も追放も当然だった。
そう思っている。
思っているはずなのに。
温室に満ちるこの臭いが、セシリアの胸をざわつかせた。
「白露草はどうなっていますの」
「こちらです」
神官が案内した先には、祝福式に使うため育てられていた白露草の鉢が並んでいた。
セシリアはそれを見た瞬間、息を呑む。
葉の端が、黒ずんでいた。
昨日までは、まだ青かったはずだ。
少なくとも、遠目には問題なく見えていた。
けれど今は、葉の縁が焦げたように縮れ、茎の根元には灰色の膜が浮いている。
「どういうことですの……」
セシリアは一歩近づき、鉢を覗き込んだ。
途端に、むっとする臭いが鼻を突く。
「っ」
思わず顔を背ける。
若い神官が小声で言った。
「今朝、水をやった時に、少し根元が黒いと報告がありまして……」
「どうしてすぐに私へ言わなかったの!」
「す、すでに報告は……」
「聞いていませんわ!」
セシリアの声が温室に響いた。
神官たちは一斉に黙る。
その沈黙が、セシリアをさらに苛立たせた。
皆、何か言いたそうな顔をしている。
リリアがいれば。
リリアなら。
リリアの薬草帳に。
そんな声が聞こえる気がする。
「リリアお姉さまはもういませんのよ」
セシリアは冷たく言った。
「下働きの一人がいなくなったくらいで、この大神殿の温室が回らなくなるはずありませんわ」
誰も答えなかった。
その沈黙こそが、反論のようだった。
セシリアは唇を噛む。
「白露草は使えません。別の鉢を用意して」
「それが……」
「何ですの」
「状態の良い白露草が、ほとんど残っておりません」
セシリアは耳を疑った。
「ほとんど?」
「はい。今朝確認したところ、乾燥用に回していたものにも黒ずみが出ていて……」
「ありえませんわ」
セシリアは温室の奥へ向かった。
乾燥棚の布を乱暴にめくる。
そこに並んでいた白露草は、確かに黒ずんでいた。
乾いたはずの葉が湿っている。
香りは澄まず、重く濁っている。
これでは聖香に使えない。
いや、使ったらまた異変が起きるかもしれない。
祝福式で黒い煙が立った時の光景が、脳裏をよぎる。
リリアの声。
その聖香は危険です。
セシリアは苛立つように扇を握りしめた。
「違う……あれは、お姉さまの妨害ですわ」
自分に言い聞かせるように呟く。
あの時、聖香は完璧だった。
貴族たちも褒めていた。
黒い煙など、リリアが騒いだからそう見えただけ。
そうでなければ困る。
聖香師見習いとして認められた自分が、失敗したことになってしまう。
「セシリア」
背後から声がした。
振り返ると、エルヴィンが温室の入口に立っていた。
白い神官騎士服をまとい、いつものように整った顔をしている。
だが、その目元には薄い疲れがあった。
祝福式以降、神殿内は妙に慌ただしい。
聖香庫で瓶が割れた。
祈祷室の香炉が黒ずんだ。
薬草園で原因不明の枯れが広がっている。
どれも小さな異変だと片づけられているが、数が多すぎた。
「エルヴィン様」
セシリアはすぐに表情を作った。
不安げで、健気で、少しだけ疲れた顔。
「申し訳ありません。温室の者たちが不手際を……」
「温室がまた?」
エルヴィンは眉をひそめ、白露草の鉢を見た。
「これはひどいな」
「昨日までは問題なかったのです。きっと、リリアお姉さまが最後に何か細工を――」
「それはもう神官長が調べている」
エルヴィンの声には、いつもほどの甘さがなかった。
セシリアは一瞬、言葉を止める。
「調べている、とは?」
「リリアの荷物だ。宿舎に残したもの、薬草園の記録、調合帳。何か聖香を汚染する手がかりがないか確認している」
「でも、お姉さまの荷物は昨日、私が返しましたわ」
「ああ。だから、薬草園に残っていた記録を探している」
セシリアは心臓が小さく跳ねるのを感じた。
記録。
リリアは、いつも古い薬草帳に何かを書いていた。
毎日の気温。
湿度。
香りの変化。
薬草の状態。
聖水の瓶の番号。
香炉の傷。
セシリアには、意味のない細かい落書きに見えていた。
だが今になって、急に嫌な予感がする。
もし、そこに何か書かれていたら。
セシリアがリリアの配合を真似ていたこと。
リリアが修正した聖香を、セシリアの功績として提出していたこと。
祝福式前にリリアが異変を指摘していたこと。
そういったものが、記録に残っていたら。
「どうかしたのか」
エルヴィンが問う。
セシリアはすぐに微笑んだ。
「いえ。ただ、お姉さまは昔から大げさな記録をつける癖がありましたから。きっと、あまり当てにはならないと思いまして」
「そうだな」
エルヴィンは頷いた。
だが、すぐに表情を曇らせる。
「ただ、神官長は気にしているようだ」
「神官長様が?」
「ああ。特に、香炉石と薬草帳の所在を」
セシリアの指先が冷えた。
香炉石。
あの古ぼけた母親の形見。
価値などないと思っていた。
だから返してやった。
いや、わざと落として欠けさせた。
その時の乾いた音が、耳の奥で蘇る。
「どうして、あんな古い石を……」
セシリアは思わず呟いた。
エルヴィンが眉を寄せる。
「知っているのか?」
「あ、いえ。お姉さまが大切にしていた古い香炉石があっただけですわ。欠けていて、神殿の道具としては使い物にならないような……」
「それをリリアが持っていったのか」
「ええ。おそらく」
エルヴィンの表情がさらに険しくなる。
「神官長へ伝える」
「待ってください」
セシリアは慌てて声を上げた。
「そんな古い石を気にするより、今は温室の立て直しが先ですわ。今日の午後には、貴族夫人への癒しの祈祷がありますでしょう?」
「そうだ。そのために来た」
エルヴィンは、ようやく本題を思い出したように言った。
「午後の祈祷に使う聖香は用意できているのか」
セシリアの背中に、冷たい汗が滲む。
用意できている。
そう言うべきだった。
聖香師見習いとして、当然だ。
だが、白露草は黒ずみ、乾燥棚の薬草も使えない。
昨日までの聖香瓶は、いくつかが聖香庫で割れた。
残っているものも、香りが安定していない。
「……少し、調整が必要ですわ」
「間に合うのか」
「もちろんです」
セシリアは笑った。
笑うしかなかった。
「私を誰だと思っていらっしゃるの?」
エルヴィンの表情が少しだけ和らぐ。
「そうだな。君ならできる」
その言葉に、セシリアはほっとした。
けれど、同時に胸の奥がきしむ。
君ならできる。
そう言われるたび、セシリアはいつも安心していた。
リリアが裏で整えてくれていたから。
リリアが失敗を先に見つけて直してくれていたから。
リリアが余計な香りを取り除いてくれていたから。
だから、できていた。
でも今は。
セシリアは温室の奥に広がる腐った香りを吸い込んでしまい、思わず咳き込んだ。
「セシリア?」
「大丈夫ですわ。少し、香りが強かっただけです」
エルヴィンは心配そうに近づいた。
その優しさに縋りたい気持ちと、見られたくない気持ちが同時に湧いた。
「エルヴィン様、午後の祈祷までに整えてみせます。どうか、少しだけお時間を」
「ああ。期待している」
期待。
その言葉が、今日は重かった。
午後。
大神殿の小祈祷室には、王都でも有名な貴族夫人が訪れていた。
夫人は長く不眠に悩まされており、大神殿の聖香による癒しの祈祷を望んでいた。
この祈祷は、本来なら難しいものではない。
リリアがいた頃なら、前日のうちに夫人の体質に合わせて香りを調整していた。
眠りが浅い者には月眠草を控えめに。
胸が詰まる者には銀葉ミントを少し。
甘い香りが苦手な者には蜜根を抜く。
リリアはそんなことを、誰に命じられるでもなくやっていた。
そしてセシリアは、それを自分の聖香として捧げていた。
今日、リリアはいない。
「では、始めますわ」
セシリアは銀の香炉の前に立った。
夫人は期待に満ちた目で見ている。
エルヴィンは警護として壁際に控え、神官たちも静かに見守っていた。
セシリアは自分で調合した聖香を、香炉へ落とす。
火を入れる。
白い煙が立ちのぼった。
最初は、悪くなかった。
甘い月桂花の香り。
白露草の澄んだ香り。
蜜根の柔らかな温かさ。
セシリアは胸を撫で下ろしかけた。
できる。
リリアがいなくても、自分はできる。
そう思った瞬間。
白い煙の奥が、灰色に濁った。
「あ……」
セシリアは声を漏らした。
香りが崩れる。
甘さが重くなり、澄んだはずの白露草が湿った布のように濁る。
月桂花の柔らかさは、焦げた砂糖の臭いへ変わっていく。
貴族夫人が眉をひそめた。
「少し……苦しいわ」
神官たちがざわめく。
エルヴィンが一歩前に出た。
「セシリア?」
「大丈夫です。少し強く出ただけですわ」
セシリアは慌てて香炉の蓋を調整した。
リリアならどうしただろう。
強く出た時は、何を足していた?
銀葉ミント?
それとも聖水を一滴?
分からない。
リリアはいつも、何も言わずに直していた。
セシリアは震える手で聖水瓶を取った。
一滴。
香炉へ落とす。
次の瞬間、煙が黒く弾けた。
「きゃあっ!」
夫人が悲鳴を上げる。
小祈祷室に、焦げた臭いが広がった。
香炉の銀膜が、黒く染まっている。
セシリアは顔を青ざめさせた。
「違う……こんなはずでは……」
夫人は侍女に支えられながら立ち上がる。
「今日は失礼しますわ。体調が悪くなりました」
「お待ちください、夫人。これは何かの――」
「大神殿の聖香は、私には合わなかったようです」
その言葉は丁寧だった。
だが、失望は隠せていない。
夫人が去ると、小祈祷室に重い沈黙が落ちた。
セシリアは香炉の前に立ち尽くしていた。
エルヴィンが低く言う。
「何が起きた」
「分かりません……」
「リリアが何か仕込んだのか?」
その言葉に、セシリアは飛びつきたくなった。
そうだ。
リリアのせいにすればいい。
きっとそうだ。
追放される前に、聖香を汚染したのだ。
温室も、香炉も、薬草も。
全部、リリアが。
「おそらく……」
セシリアがそう言いかけた時だった。
神官長マルドが、小祈祷室の扉の前に立っていた。
「それは難しいな」
穏やかな声。
だが、その目は笑っていなかった。
「リリア・エルムは昨日から大神殿へ入っていない。昨夜封じた新しい聖香庫の瓶も、今朝から黒く濁り始めている」
セシリアの喉が鳴った。
「では、何が原因ですの?」
「それを知るために、あの娘の記録が必要なのだよ」
マルドはエルヴィンへ視線を向けた。
「リリアの薬草帳は?」
「本人が持っていったようです」
「香炉石は?」
「それも、おそらく」
マルドの目が細くなる。
小祈祷室の空気が、急に冷えた。
「セシリア」
「は、はい」
「君は、リリアの帳簿や覚え書きを、どこかに残していないかね」
「私は……お姉さまのような大げさな記録は不要だと思っていましたから」
「不要?」
マルドの声は、静かだった。
けれど、セシリアは背筋が凍るのを感じた。
「君は、リリアが毎朝何をしていたか、分かっているのか」
「そ、それは……薬草園の換気や、香炉の手入れを……」
「順番は?」
「え?」
「聖香を焚く前に、あの娘は聖水瓶を何本確認していた」
「……」
「白露草の乾燥棚を入れ替える時間は?」
「……分かりません」
「銀葉ミントを日陰に移す基準は?」
「……」
セシリアは何も答えられなかった。
マルドは小さく息を吐く。
「困ったな」
それは叱責ではなかった。
けれど、叱られるよりもずっと恐ろしかった。
「我々は、あの娘の手順を誰も知らないらしい」
エルヴィンが眉を寄せる。
「神官長。たかが下働きの手順でしょう」
「その下働きの手順がなければ、聖香が腐っている」
マルドの声が少しだけ低くなった。
エルヴィンが言葉を失う。
セシリアは唇を震わせた。
リリアがいなければ困る。
その事実が、少しずつ輪郭を持ち始めている。
認めたくない。
絶対に認めたくない。
けれど、小祈祷室に残る焦げた臭いは、セシリアの否定を許さなかった。
マルドは黒く染まった香炉を見つめる。
「リリア・エルムを取り戻す必要がある」
「取り戻す……」
セシリアは呆然と呟いた。
追放したばかりなのに。
役立たずとして捨てたばかりなのに。
神官長は、まるでなくした道具を探すような声で言った。
「あの娘は、自分が何をしていたか理解していない。だからこそ扱いやすかった」
その言葉に、セシリアはぞくりとした。
「神官長様……?」
マルドはセシリアを見た。
いつもの穏やかな笑みを浮かべて。
「君も困るだろう、セシリア。あの娘が戻らなければ、君の聖香師としての評価も揺らぐ」
セシリアは何も言えなかった。
評価。
聖香師見習い。
聖女候補。
エルヴィンの隣にふさわしい女。
それらすべてが、リリアの見えない手の上に乗っていたのだとしたら。
そんなこと、絶対に認められない。
「……戻せばいいのですわ」
セシリアは小さく呟いた。
マルドの笑みが深まる。
「そうだ。戻せばいい」
エルヴィンは眉をひそめた。
「ですが、辺境伯家が送還要求を拒否した場合は?」
「拒否させなければいい」
マルドは黒く染まった香炉に指を触れた。
その指先に、焦げた聖香の粉がつく。
「リリア・エルムは祝福式妨害の罪人だ。王都へ戻る理由はいくらでも作れる」
小祈祷室の奥で、黒く染まった香炉が、ぴしりと小さな音を立てた。
セシリアはその音に肩を震わせる。
その時、神官が慌てて駆け込んできた。
「神官長! 聖香庫の瓶が、また三本割れました!」
マルドの表情が、ほんのわずかに歪んだ。
「……早いな」
「え?」
「いや、何でもない」
マルドはすぐに穏やかな顔へ戻る。
「割れた瓶を封じなさい。誰にも中身を触らせないように」
「はい!」
神官が去る。
セシリアは震える手で、自分の胸元を押さえた。
小祈祷室の空気が息苦しい。
リリアがいた頃には、こんな臭いはしなかった。
いつも、どこか澄んでいた。
それが今は、焦げている。
腐っている。
セシリアはその事実から目を逸らすように、エルヴィンの袖を掴んだ。
「エルヴィン様……リリアお姉さまを、連れ戻しましょう。あの方がしたことの責任を、きちんと取らせなくては」
エルヴィンはしばらく黙っていた。
やがて、硬い声で言う。
「ああ。そうだな」
その声に、迷いが混じっていることに、セシリアは気づかないふりをした。
一方、大神殿の地下深く。
聖香庫のさらに奥にある封印室で、誰にも見られず、一枚の黒い羽が床に落ちた。
羽は灰にならず、床の石に染み込んでいく。
そこから、細い黒い根が一本、ゆっくりと伸びた。
根は石の隙間を這い、聖香庫の下へ、温室の下へ、祈祷室の下へと広がっていく。
まるで、ずっと待っていたかのように。
リリアのいない大神殿で、腐敗は静かに息を吹き返していた。




