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第12話 辺境の薬草パン

 大神殿へ返書を送った翌朝、レーヴェン古城の食堂には、いつもと少し違う香りが漂っていた。


 焼きたてのパン。


 といっても、王都の貴族街で売られているような、白く柔らかなパンではない。

 辺境の食堂で出されるのは、黒麦を使ったずっしり重いパンだ。


 固く、酸味があり、腹持ちはいい。

 騎士たちにとっては慣れた味らしいが、リリアが初めて食べた時は、正直に言えば少し飲み込むのに苦労した。


 その黒麦パンの香りが、今日はどこか違う。


 焦げ臭さが少なく、酸味も少し丸い。

 かすかに薬草の青い香りが混じっていた。


「リリアさん、見てください!」


 食堂の奥から、カイルが大きな皿を持って駆けてくる。


 皿の上には、焼き上がったばかりの小さな丸パンが並んでいた。


 表面には香草が練り込まれ、薄く割れた焼き目から湯気が上がっている。


「試作品、焼けました!」


「わあ……!」


 リリアは思わず声を上げた。


 昨日の夜、食堂の料理番から相談されたのだ。


 香草茶は好評だった。

 ならば、食事にも薬草を取り入れられないか、と。


 騎士団は慢性的に疲れている。

 眠りも浅く、胃を悪くしている者も多い。

 ただ薬を飲ませるだけでは続かない。


 だからリリアは、厨房にあった黒麦粉と、残っていた乾燥香草を見て提案した。


 銀葉ミントは香りが強すぎるから、ごく少量。

 白露草は熱に弱いので焼く前ではなく、仕上げに香りを移す。

 蜜根を粉にして少し混ぜれば、黒麦の酸味が丸くなる。


 それを料理番が面白がり、夜のうちに仕込んでくれたのだ。


「本当に焼いてくださったんですね」


「料理長、こういうの好きなんですよ。新しいものを作る時だけ、訓練中の団長より目が怖いです」


 カイルが笑う。


 その背後から、丸太のような腕をした料理長が顔を出した。


「カイル、聞こえてるぞ」


「褒めてます!」


「ならよし」


 料理長は大皿を卓に置き、リリアを見た。


「嬢ちゃん、味を見てくれ。言われた通り、蜜根は粉にして少しだけ。銀葉ミントは刻まずに布袋へ入れて、生地を寝かせる間だけ香りを移した」


「ありがとうございます」


 リリアは小さなパンをひとつ手に取った。


 まだ温かい。


 表面は香ばしく、黒麦特有の重さはある。

 けれど、昨日まで食堂に漂っていた酸っぱいような匂いは薄い。


 リリアは少し割って、香りを確かめた。


 黒麦。

 焼けた皮。

 蜜根のほのかな甘み。

 銀葉ミントの青さ。


 そして、最後に白露草の澄んだ香りが少しだけ残る。


「……いい香りです」


 そう言ってから、リリアはひと口食べた。


 外は少し固い。

 中はしっとりしている。

 黒麦の酸味はあるが、蜜根の甘さがそれを支えていた。


 噛んでいるうちに、鼻へ抜ける香草の香りが胸を軽くする。


 薬ではない。


 でも、疲れた身体が受け取りやすい味だった。


「おいしいです」


 リリアがそう言うと、料理長は満足そうに腕を組んだ。


「なら、騎士どもに食わせてみるか」


 ちょうどその時、朝の訓練を終えた騎士たちが食堂へ入ってきた。


 鎧の金具が鳴り、汗と革と鉄の匂いが広がる。

 けれど今日は、そこに焼きたての薬草パンの香りが混ざった。


「なんだ、今日の匂い」

「パンか?」

「いつもよりうまそうじゃないか」


 騎士たちがざわつく。


 リリアは思わず少し緊張した。


 香草茶は受け入れてもらえた。

 けれど、食事は毎日のものだ。


 辺境の騎士たちにとって、食べ慣れた黒麦パンの味を変えられるのは嫌かもしれない。


 カイルが真っ先にひとつ取り、口に放り込んだ。


「うまっ」


 あまりにも早い反応だった。


 騎士たちが一斉にカイルを見る。


「お前、もう少し味わえ」

「毒見役か?」

「団長に先に出せよ」


「いや、これ本当にうまいですって。黒麦パンなのに、喉に詰まらない」


 その言葉で、騎士たちが次々とパンを手に取った。


 一口。

 二口。


 最初は半信半疑だった表情が、少しずつ変わっていく。


「……食べやすいな」

「酸っぱさが少ない」

「これなら訓練後でも入る」

「香草茶と合うぞ」

「おかわりあるか?」


 食堂に笑い声が広がった。


 リリアは胸を撫で下ろす。


 料理長は無表情を装っていたが、口元が少しだけ上がっている。


 その時、ノアが食堂へ入ってきた。


 黒い騎士服姿で、朝の報告書らしき紙を手にしている。

 相変わらず表情は静かだが、昨日より顔色は少し良い。


「何の騒ぎだ」


「新作です、団長!」


 カイルが薬草パンを差し出す。


「リリアさん監修、料理長製作、辺境薬草パンです」


「勝手に名前をつけるな」


 料理長が言う。


 ノアはパンを受け取り、リリアを見た。


「君が?」


「あ、はい。昨日、料理長さんと少し相談をして……。薬ではなく、普段の食事で少しでも身体が楽になればと思って」


「そうか」


 ノアはパンをひと口食べた。


 リリアはなぜか、騎士たちに試食してもらう時より緊張した。


 ノアは黙って咀嚼する。


 表情はほとんど変わらない。


 失敗だっただろうか。


 そう思った時、ノアが静かに言った。


「食べやすい」


 たったそれだけなのに、周囲の騎士たちが妙にどよめいた。


「団長の褒め言葉が出た」

「これは採用だな」

「食べやすいは、団長語でかなり高評価だぞ」


「お前たちは静かに食べろ」


 ノアが言うと、騎士たちは笑いながら席についた。


 リリアはほっとして、少しだけ笑った。


 その笑顔を見たノアが、一瞬だけ目を細める。


「無理はしていないか」


「今日は大丈夫です」


「今日は、か」


「あ……」


 言い直そうとしたが、ノアは少しだけ口元を緩めた。


「なら、今日は信用する」


 その言葉に、リリアの胸が小さく跳ねた。


 信用する。


 それは、昨日までより少しだけ近い言葉に聞こえた。


 食堂の端では、ミナたち孤児院の子どもたちも薬草パンをもらっていた。


 ミナは小さな手でパンを割り、湯気に顔を近づける。


「いい匂い」


「熱いから気をつけてね」


 リリアが声をかけると、ミナはこくりと頷き、慎重にかじった。


 次の瞬間、目を輝かせる。


「おいしい!」


 他の子どもたちも次々に食べ始める。


「甘い」

「草の匂いするけど、変じゃない」

「ルゥも食べる?」


 ルゥは食堂の中央で、当然のように特等席を占拠していた。


 子どもたちに囲まれ、騎士たちからも遠巻きに見守られ、完全に古城の人気者になりつつある。


 だが、パンを差し出されると、ルゥは一度匂いを嗅ぎ、ぷいと顔を背けた。


「嫌なの?」


 ミナがしょんぼりする。


 ルゥは少し考えるように耳を動かし、それからリリアの方を見た。


 リリアは苦笑する。


「ルゥには、あとで別に薬草を入れないものを作ってもらいましょうか」


 その瞬間、ルゥの尻尾が一度だけ揺れた。


 分かりやすい。


 食堂にまた笑いが起こった。


 リリアはその光景を見つめた。


 昨日までは、どこか張りつめていた古城の空気。

 今日は、焼きたてのパンと香草茶と、子どもたちの声で少しだけ柔らかくなっている。


 大きなことは、まだ何も解決していない。


 井戸の底には黒いものが残っている。

 薬草園の下には黒い根が張っている。

 王都大神殿からは、リリアを連れ戻そうとする動きがある。


 でも、今この食堂では、皆が温かいものを食べて笑っている。


 それは小さな勝利だった。


 朝食の後、リリアは料理長と一緒に厨房へ戻った。


 厨房は食堂以上に熱気がある。


 大きなかまど。

 粉袋。

 乾燥肉。

 根菜。

 壁に吊るされた鍋や包丁。


 王都神殿の清潔で静かな調香室とはまるで違う。

 けれど、ここには生きた香りがあった。


 焼く匂い。

 煮る匂い。

 切った野菜の匂い。

 働く人たちの汗と笑い声。


「嬢ちゃん、次は保存用も試したい」


 料理長が言った。


「保存用ですか?」


「ああ。辺境の巡回隊は三日から五日、外に出ることがある。固い乾パンと干し肉ばかりじゃ、気が滅入る。香草をうまく使えば、腹も少しは楽になるかと思ってな」


「たしかに、銀葉ミントを少し使えば胃の重さは和らぐかもしれません。でも入れすぎると香りが飛びますし、寒い森では身体が冷えるかも……」


 リリアは厨房の棚を見た。


「蜜根と、温める香りのある根菜を合わせたほうがいいかもしれません。あと、乾燥肉の臭みを消すなら月桂花を少し」


「月桂花を肉に?」


 料理長が眉を上げる。


「甘くなりすぎるか?」


「量を間違えなければ、臭みだけ柔らかくなると思います。王都では薬香として使っていましたが、香り自体は肉の脂にも合うはずです」


「面白い」


 料理長の目が光った。


 カイルがひょいと厨房を覗く。


「あ、この顔はまた試作品が増える顔だ」


「お前、昼も食うだろう」


「もちろんです」


「なら文句を言うな」


 リリアは思わず笑った。


 厨房の人々も笑う。


 ここでは、失敗を恐れすぎずに試せる。


 もちろん食材は貴重だ。

 辺境で無駄にしていいものなどない。


 それでも、よくするために考えることを、誰も笑わない。


 リリアは胸の奥が温かくなるのを感じた。


「リリアさん」


 入口から声をかけられた。


 振り返ると、侍女長のマーサが立っていた。

 昨夜、リリアの部屋を用意してくれた年配の女性だ。


「お客様がお見えです」


「私に、ですか?」


「ええ。正確には、料理長とガレス先生にもですが……香草茶と今朝のパンの件を聞きつけたようで」


 リリアは首を傾げた。


「聞きつけた?」


 古城の中の話が、もう外に伝わるほど広がったのだろうか。


 マーサは少し楽しそうに言った。


「辺境市の商会の若女将です。もともと本日、保存食の納入相談で来る予定だったのですが、食堂の香りに引き寄せられたようですね」


「商会の……」


 リリアの胸が少し緊張する。


 神殿では、外部の商会と話すのは上の者の役目だった。

 リリアは薬草を受け取ったり、記録をつけたりするだけ。


 自分が商会の人と話すなど、考えたこともない。


「私も同席してよろしいのでしょうか」


 マーサは微笑んだ。


「むしろ、リリアさんに会いたいそうですよ」


「私に?」


「はい。食堂で配られた香草茶を飲んだ騎士が、城門の商人に話したそうです。『胸が楽になる茶と、喉に詰まらない黒麦パンが出た』と」


 カイルが気まずそうに視線を逸らした。


「……俺ではないですよ?」


 料理長が腕を組む。


「怪しいな」


「本当に俺じゃないです! たぶん門番のロイドです!」


 リリアは少し戸惑いながらも、頷いた。


「分かりました。行きます」


 応接室へ向かう途中、リリアは廊下の窓から薬草園を見た。


 小さな芽は、仮の木箱に守られている。

 ルゥがその近くで丸くなり、番をしていた。


 井戸の周囲には柵が設けられ、騎士が見張っている。


 問題は山積みだ。


 それでも、少しずつ動いている。


 リリアは胸元の香炉石をそっと握った。


 応接室に入ると、鮮やかな栗色の髪をした女性が立ち上がった。


 年齢は二十代半ばほどだろうか。

 動きやすそうな商人服に、上質な肩掛け。

 瞳は明るく、こちらを見る目には好奇心と計算が同居している。


「あなたがリリアさんね」


「はい。リリア・エルムです」


「私はアリア。辺境市で商会を任されているわ」


 アリアはにこりと笑い、卓の上の籠を指した。


 そこには、今朝の薬草パンがいくつか並べられていた。


「これ、いただいたわ。驚いた。辺境の黒麦パンが、こんなに食べやすくなるなんて」


「料理長さんの腕です。私は少し香草の使い方をお伝えしただけで……」


「その“少し”が商売になるのよ」


 アリアの目がきらりと光る。


 リリアは思わず背筋を伸ばした。


「商売、ですか」


「ええ。騎士団の保存食、孤児院の食事、冬越し用の薬草茶。辺境ではどれも切実な問題よ。もし薬草で少しでも保存性や食べやすさが上がるなら、町にも広げられる」


 リリアは言葉を失った。


 町に広げる。


 自分が厨房で少し提案しただけの薬草パンが、古城の外へ。


「でも、まだ試作です。効能も安定していませんし、薬草の量を間違えれば体質に合わない方もいるかもしれません」


「だから、あなたに相談したいの」


 アリアは身を乗り出した。


「リリアさん。あなた、辺境で薬草の商品作りに関わってみる気はない?」


 その瞬間、リリアの頭に神殿での言葉がよぎった。


 役立たず。

 下働き。

 正式な聖香師ではない。


 けれど目の前のアリアは、リリアの仕事に価値を見ている。


 食べやすいパン。

 眠りやすい香草茶。

 子どもたちが安心できる香り。


 それが、誰かの生活を少し良くするかもしれない。


 リリアは胸の奥が震えるのを感じた。


 しかし答える前に、応接室の扉が開いた。


 ノアが入ってくる。


「アリア。話が早すぎる」


「遅いよりいいでしょう、ノア様」


 アリアは悪びれずに笑った。


「それに、この方はただの客人ではないわ。辺境の暮らしを変えるかもしれない人よ」


 リリアは驚いてアリアを見る。


「私が……?」


 アリアはまっすぐ頷いた。


「ええ。少なくとも、今朝この古城の食堂は変わったのでしょう?」


 リリアは答えられなかった。


 その代わり、胸元の香炉石がかすかに温かくなる。


 小さな香草茶。

 小さな薬草パン。

 小さな芽。


 そのどれもが、少しずつ繋がり始めている。


 ノアはリリアを見た。


「無理に決める必要はない」


 その言葉に、リリアはほっとした。


 けれど、すぐに首を横に振る。


「いえ。考えてみたいです」


 リリアはゆっくりと言った。


「私にできることが、古城の外でも誰かの役に立つなら……知りたいです」


 アリアの笑みが深まった。


「決まりね。まずは試作品の記録から始めましょう。配合、焼き時間、食べた人の反応。商売は香りだけじゃなく、数字と記録も大事よ」


 記録。


 その言葉に、リリアは母の薬草帳を思い出した。


 神殿では、大げさな記録だと笑われたもの。

 けれど今、それが必要だと言われている。


「記録なら、得意です」


 リリアがそう言うと、ノアの目元が少しだけ和らいだ。


 アリアは満足そうに手を叩く。


「それは心強いわ」


 その時、応接室の窓の外で、ルゥが短く吠えた。


 リリアははっと振り返る。


 薬草園の方角だ。


 ノアもすぐに窓へ向かう。


 小さな木箱で囲われた芽のそばで、ルゥが井戸の方を睨んでいる。


 その足元の土が、かすかに盛り上がっていた。


 黒い根が、木箱の外側まで伸びてきている。


 リリアの手首が、ずきりと痛んだ。


 応接室に漂っていた焼きたてパンの香りの奥へ、またあの甘く焦げた臭いが混じり始める。


 リリアは窓辺で息を呑んだ。


 薬草園の黒い根は、小さな芽を諦めていない。

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