第13話 白銀の子狼、番をする
薬草園の土が、ゆっくりと盛り上がった。
黒い根が、木箱の外側まで伸びてきている。
それは植物の根に似ていた。
けれど、生きた薬草の根とはまるで違う。
湿っているのに乾いている。
細いのに重い。
土の中を這うたび、焦げた花のような臭いを残していく。
小さな芽を囲っていた木箱の縁に、黒い根の先が触れた。
じゅ、と嫌な音がする。
「ルゥ!」
リリアが窓辺から叫ぶより早く、白銀の子狼は動いていた。
ルゥは小さな身体を低くし、木箱と黒い根の間に飛び込む。
額に淡い月の紋が浮かび、白い毛並みが朝の光を受けて銀色にきらめいた。
黒い根が、まるで生き物のように先端を持ち上げる。
次の瞬間、ルゥへ向かって跳ねた。
「危ない!」
リリアは応接室を飛び出した。
背後でノアがすぐに続く。
「リリア、走るな!」
「でも、ルゥが!」
「カイル、薬草園へ人を回せ!」
ノアの指示が飛ぶ。
廊下を抜け、庭へ出るまでの数秒が、ひどく長く感じた。
薬草園に駆け込むと、ルゥは黒い根を前に低く唸っていた。
根は何本も土の下から顔を出している。
昨日より多い。
小さな芽を守る木箱の周囲を、じわじわと囲むように伸びている。
まるで、囲いの中の命を奪い返そうとしているみたいだった。
「この根……昨日より強い」
リリアは手首を押さえた。
黒い痕が熱い。
井戸の底のものを少し抑えたことで、逆にこちらへ反応が向いたのかもしれない。
ルゥが一歩踏み出す。
額の月の紋が強く光った。
その光に触れた黒い根が、わずかに縮む。
「ルゥの光を嫌がっている……?」
リリアが呟くと、ガレスが薬箱を抱えて駆けつけた。
「守護獣様の月光は、黒森の呪いを退けると記録にある。だが、まだ幼体じゃ。長くはもたんぞ!」
その言葉通り、ルゥの足元が少しふらついた。
昨日から無理をさせすぎている。
傷もまだ塞がったばかりだ。
このままルゥだけに任せるわけにはいかない。
リリアは深く息を吸った。
土の香り。
黒い根の臭い。
小さな芽のかすかな青い香り。
ルゥの雪のような香り。
それらを順番に探す。
黒い根を倒すことは、まだできない。
なら、昨日と同じだ。
生きているものを守る。
「白露草をください。あと、銀葉ミントと、蜜根を少しだけ」
リリアが言うと、ガレスはすぐに薬草袋を開いた。
「水は?」
「井戸水は使えません。朝に集めた雨水を。もしなければ、西棟の貯水樽から」
「カイル!」
「もう持ってきています!」
カイルが桶を抱えて走ってくる。
いつの間にか、騎士たちも集まっていた。
誰も笑わない。
誰も「そんなことで何ができる」とは言わない。
リリアは木箱の前に膝をついた。
黒い根が、こちらへ向かってゆっくり伸びる。
ノアがすぐ隣に立った。
「近づけば、私が斬る」
「斬ったら跳ねるかもしれません」
「それでも、君に触れさせるよりはいい」
その声は静かだった。
でも、本気だと分かった。
リリアは胸が小さく鳴るのを感じながら、首を横に振った。
「大丈夫です。今は触れさせません」
白露草を雨水に浸す。
銀葉ミントを指先で軽く揉む。
蜜根はほんの少しだけ削る。
甘すぎる香りは、黒いものを誘う。
だから、蜜根は薬草の芽を安心させる程度でいい。
リリアは小さな布に薬草水を染み込ませ、木箱の内側へそっと敷いた。
ふわり、と澄んだ香りが広がる。
小さな芽が、かすかに揺れた。
黒い根が、ぴたりと動きを止める。
「効いてる……?」
カイルが小さく呟いた。
「まだです」
リリアは首を振った。
黒い根は止まったのではない。
様子を見ている。
まるで、次にどこから入り込むか考えているように。
リリアは香炉石を取り出した。
欠けた銀色の石は、手のひらの上で淡く光っている。
ルゥがそれに気づき、リリアの隣へ来た。
そして、香炉石へ鼻先を近づける。
その瞬間、ルゥの月の紋と香炉石の光が、同じ色に重なった。
淡い緑と銀の光。
リリアは息を呑む。
「ルゥ……この石を知っているの?」
ルゥは答えない。
ただ、香炉石に頬をすり寄せた。
懐かしむような仕草だった。
ガレスが目を細める。
「その香炉石、ただの形見ではなさそうじゃな」
「母のものです。古くて、欠けていて、神殿では価値がないと言われました」
「神殿の連中が価値を見抜けんものほど、厄介な力を持っておることが多い」
ガレスはそう言って、黒い根を睨んだ。
「守護獣様が反応するなら、なおさらじゃ」
ルゥは香炉石に鼻先を当てたまま、低く鳴いた。
すると、光が少し強くなる。
木箱の周囲に敷いた薬草布へ、その光がふわりと移った。
白露草の香りが澄み、銀葉ミントの青さが鋭くなる。
黒い根が、じゅうと音を立てて後退した。
「下がった!」
騎士の一人が声を上げる。
リリアは息を吐きそうになった。
けれど、すぐに気づく。
黒い根は逃げたのではない。
別の方向へ回り込もうとしている。
「右側です!」
リリアが叫ぶ。
ノアが即座に動いた。
黒い根が木箱の右側から伸びるより早く、ノアが剣の鞘で地面を強く打つ。
土が跳ね、根の進路がずれた。
ルゥがそこへ飛び込み、月の光で根を押し返す。
リリアは急いで薬草布を追加した。
今度は蜜根を抜く。
黒い根は甘い香りに寄る。
なら、右側は銀葉ミントを強めにする。
青く澄んだ香りが走る。
黒い根はさらに縮んだ。
「なるほど……」
リリアは小さく呟いた。
「この根は、薬草そのものを嫌っているわけではないんです。弱った香りや、甘く濁った香りに寄ってくる」
「腐りかけたものに集まる虫みたいじゃな」
ガレスが顔をしかめる。
「でも、完全に生きている香りや、澄んだ香りは苦手みたいです」
だから白露草が効く。
銀葉ミントも効く。
そしてルゥの月の光は、その香りを強める。
リリアは木箱の周りに、香りの輪を作った。
白露草を中心に。
銀葉ミントを外側へ。
蜜根は芽の根元に、ごく薄く。
ルゥがその輪の外を歩くたび、月の光が薬草の香りを少しずつ定着させていく。
やがて、黒い根は土の中へ沈んでいった。
完全に消えたわけではない。
でも、木箱からは離れた。
薬草園にいた全員が、ほっと息を吐いた。
「守れた……」
リリアは小さな芽を見つめた。
昨日より、ほんの少し葉が開いている。
本当にわずかだ。
でも、生きている。
リリアは胸がいっぱいになった。
ルゥが得意げにリリアの足元へ寄ってくる。
「ありがとう、ルゥ」
リリアがしゃがんで頭を撫でると、ルゥは当然だと言わんばかりに胸を張った。
その姿に、カイルが笑う。
「守護獣様、めちゃくちゃ誇らしげですね」
「実際、守ってくださったからのう」
ガレスが感心したように言う。
「いや、しかし面白い。リリアの香りと守護獣様の月光が合わさると、根を退けられるのか」
アリアも薬草園の入口で、その光景をじっと見ていた。
商人らしい鋭い目に、驚きと興奮が混じっている。
「……これは、商品どころの話ではないわね」
「アリアさん?」
「リリアさん。あなたの香草茶や薬草パンは確かに売れる。でも、それ以上に、この古城そのものが変わり始めている」
アリアは小さな芽を見た。
「辺境の人間は、黒森の呪いと付き合いながら暮らしているわ。眠れない夜も、枯れる薬草も、魔獣の気配も、ある程度は仕方ないと思ってきた」
彼女の声は、いつもの軽やかさより少し低い。
「でも、あなたが来てから、子どもの悪夢が薄れた。騎士たちが眠った。薬草パンで食堂が明るくなった。小さな芽が守られた」
リリアは戸惑った。
「私は、そんな大きなことは……」
「しているのよ」
アリアははっきり言った。
「自分では分からないかもしれないけれど、辺境ではこういう小さな改善の積み重ねが命を救うの。だから記録を残しましょう。薬草の配合だけじゃなく、どの香りが黒い根を退けたか、どの食事で騎士の疲れが軽くなったか、どの子が眠れるようになったか」
記録。
リリアは母の薬草帳を思い出した。
神殿では、無駄な書き込みだと言われた。
セシリアには、大げさだと笑われた。
でも、ここでは必要とされている。
「……はい」
リリアは頷いた。
「記録します。全部」
ノアが静かに言った。
「必要な紙と筆記具は用意する。古城の正式記録として扱おう」
「正式記録……」
また胸が熱くなる。
自分の感覚が、ただの思い込みではなく、記録として残される。
それはリリアにとって、思っていた以上に大きなことだった。
その日の午後、リリアは薬草園の一角に小さな作業机を置いてもらった。
まだ正式な調香室とは呼べない。
古い木箱を重ねた台に、紙とインクと薬草束を並べただけだ。
それでもリリアには、十分すぎるほど嬉しかった。
母の薬草帳を開き、新しい紙を横に置く。
今日の記録。
黒い根は、白露草と銀葉ミントの澄んだ香りを嫌う。
蜜根の甘さには寄る可能性あり。
ただし、弱った芽の根元にはごく少量なら安定を助ける。
ルゥの月光は香りを定着させ、黒い根を一時的に退ける。
書いているうちに、手が少し震えた。
神殿では、誰にも見られないように書いていた。
怒られないように、笑われないように、帳面の端に小さく。
でも今は違う。
ガレスが横から覗き込み、うんうんと頷いている。
「字もきれいじゃな」
「母に教わりました」
「いい記録じゃ。感覚だけではなく、状況も結果も書いておる」
「神殿では、大げさだと言われました」
「神殿の連中は目が節穴じゃ」
あまりにもあっさり言われて、リリアは思わず笑ってしまった。
その笑い声に、ルゥが机の下から顔を出す。
いつの間にか入り込んでいたらしい。
「ルゥ、そこにいたの?」
ルゥは眠そうにあくびをした。
小さな身体はまだ疲れているのだろう。
けれど、リリアの足元にいると安心するのか、すぐに丸くなった。
リリアはそっとその背を撫でる。
ふわふわの毛並み。
雪のような香り。
モフモフという言葉があるなら、きっとこういうことを言うのだろう。
リリアは少しだけ肩の力を抜いた。
その時、ルゥが急に顔を上げた。
耳を立て、薬草園の奥を見る。
「ルゥ?」
低い唸り声。
さっき黒い根に向けたものとは少し違う。
警戒というより、何かを見つけたような声だった。
ルゥは立ち上がり、薬草園の奥へ歩いていく。
リリアも立ち上がった。
「どこへ行くの?」
ルゥは振り返り、短く鳴いた。
来て。
そう言われた気がした。
リリアが歩き出すと、ガレスも薬箱を持ってついてくる。
「また何か見つけたかもしれん」
薬草園の奥には、古い石壁があった。
蔦に覆われ、半分崩れかけている。
以前は温室か物置があったのかもしれない。
ルゥはその石壁の前で足を止めた。
そして、前足で地面を掻く。
「ここ?」
リリアがしゃがむ。
土を少しどけると、古い石板が出てきた。
薬草園の床石とは違う。
表面には、薄く紋様が刻まれている。
月の形。
香炉。
そして、蔦のように絡む線。
リリアは息を呑んだ。
その紋様の一部が、母の香炉石の欠け目に残る模様と似ていたからだ。
「ガレスさん、これ……」
ガレスも膝をつき、石板を見た。
その顔が、みるみる真剣になる。
「古い封印紋じゃな。しかも、かなり古い。今の神殿式ではない」
ルゥが石板の上に前足を置いた。
額の月の紋が淡く光る。
同時に、リリアの胸元の香炉石も温かくなった。
石板の紋様に、細い光が走る。
そして、薬草園の奥の石壁から、かすかな音がした。
ごとん、と。
何か重いものが、壁の向こうで動いた音。
リリアは立ち上がり、石壁を見つめた。
蔦に覆われた壁の一部に、細い隙間ができている。
そこから流れてきた香りに、リリアは思わず息を止めた。
古い灰。
眠った薬草。
冷たい石。
そして、ほんのかすかな、澄んだ聖香の香り。
黒く濁ったものではない。
王都大神殿で嗅いだものとも違う。
もっと古く、もっと静かで、まっすぐな香り。
「……この奥に、何かあります」
リリアの声に、ノアが駆けつけた。
彼は石壁の隙間を見て、すぐに表情を引き締める。
「ここは古城の地下区画に繋がっているはずだ。三十年前の崩落で塞がれたと聞いていた」
「ルゥが開けたのでしょうか」
「おそらく」
ノアはルゥを見る。
ルゥは得意げに胸を張った。
リリアは石壁の奥から漂う香りをもう一度確かめる。
黒い根の臭いとは違う。
井戸の腐った香りとも違う。
でも、確かにこの薬草園と関係がある。
もしかすると、黒い根を退ける手がかりがあるかもしれない。
ノアがリリアの前に立った。
「今日は入らない」
「……はい」
言われる前に、少しだけ入ってみたいと思ってしまったことを見抜かれた気がして、リリアは素直に頷いた。
ノアは少しだけ目を細める。
「明日、準備を整えて調査する。君も来るなら、必ず私たちの後ろだ」
「私も行っていいのですか?」
「君がいなければ、何の香りか分からない」
その言葉に、リリアは胸の奥がまた温かくなる。
必要とされている。
怖いけれど、逃げたいとは思わなかった。
「分かりました」
リリアは頷く。
「私に分かることを、ちゃんと記録します」
ルゥが満足そうに鳴いた。
その足元で、石板の月の紋が淡く光り続けている。
薬草園の奥に現れた、古い地下への入口。
そこから流れてくる澄んだ聖香の香りは、まるでずっと待っていた誰かの息のようだった。
そしてリリアは、まだ知らなかった。
その地下に眠るものが、王都大神殿が失った本当の聖香の始まりであることを。




