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第14話 地下香炉の封印

 翌朝、薬草園の奥に現れた地下への入口には、まだ薄い光が残っていた。


 石板に刻まれた月の紋。

 香炉の紋。

 蔦のように絡み合う古い線。


 その一部が、リリアの胸元にある母の香炉石と同じ形をしている。


 リリアは外套の上から香炉石をそっと押さえた。


 昨夜から、ずっと温かい。


 熱いほどではない。

 けれど、まるで地下の奥にある何かに呼応しているみたいだった。


「緊張しているか」


 隣からノアの声がした。


 黒い騎士服に軽装鎧。

 腰には剣。

 いつものように表情は静かだが、リリアの顔色を確かめる目は真剣だった。


「少し」


 リリアは正直に答えた。


「でも、怖いだけではありません」


「どういう意味だ」


「この奥の香りが……嫌なものだけではないんです」


 リリアは石壁の隙間から流れてくる空気を吸った。


 古い灰。

 冷たい石。

 眠った薬草。

 そして、澄んだ聖香の香り。


 王都大神殿の聖香とは違う。


 あちらは華やかで、整えられすぎていて、時に甘すぎた。

 けれど、この地下から漂う香りは、もっと静かだ。


 雨上がりの土に、朝日が差し込むような香り。


「懐かしいような、落ち着くような香りがします」


 リリアが言うと、ガレスが薬箱を抱えながら頷いた。


「古い聖香というのは、本来そういうものだったのかもしれんな」


「本来……?」


「今の大神殿の聖香は、貴族受けするように華やかさを足しすぎておる。まあ、わしも昔の聖香を嗅いだわけではないがな」


 ガレスは石板の紋様を指でなぞった。


「この封印紋は、少なくとも百年以上前のものじゃ。今の大神殿式とは違う。むしろ、古い香律師の記録に近い」


「香律師……」


 リリアはその言葉を繰り返した。


 まだ聞き慣れない。


 けれど、自分の胸の奥にある何かが、その言葉に反応する。


「本当に、そんな職能があったんですね」


「記録上はな。ただ、失われたとされて久しい。今では神殿の高位神官でも、名前だけ知っていれば良い方じゃろう」


 ガレスはリリアを見る。


「だが、あんたの力は、それに近い」


 リリアはすぐに頷けなかった。


 役立たず。

 香り係。

 下働き。


 そう呼ばれ続けた時間のほうが、まだずっと長い。


 けれど、否定もしなかった。


 昨日、黒い根から小さな芽を守れた。

 ミナの悪夢を薄めた。

 ノアを眠らせた。

 ルゥは、自分を選びかけているらしい。


 何かがある。


 それはもう、認めなければならない気がした。


「まずは調べましょう」


 リリアは言った。


「私が何者かは、まだ分かりません。でも、この奥に薬草園を助ける手がかりがあるなら、見つけたいです」


 ノアは静かに頷いた。


「調査隊は最小限にする。私、カイル、ガレス、リリア、ルゥ。ほか二名は入口待機だ」


「ルゥも行くんですか?」


 リリアが足元を見ると、白銀の子狼は当然という顔で胸を張っていた。


 額の月の紋が、薄く光っている。


「行く気満々じゃな」


 ガレスが笑う。


 リリアはしゃがみ、ルゥの頭を撫でた。


「無理はしないでね。昨日も頑張ったんだから」


 ルゥは鼻を鳴らした。


 まるで、自分は守護獣だから当然だと言っているみたいだった。


 カイルが小声で呟く。


「リリアさん以外の言うことは聞いてくれないんですよねえ」


「カイル」


「はい、黙ります」


 ノアが石壁の隙間を確認し、騎士二人とともに蔦を払った。


 古い石扉は半分だけ開いている。

 隙間からは、人ひとりがようやく通れる程度。


 ノアが先に入り、内側を確かめた。


「階段がある。足元は崩れていないが、湿っている。慎重に」


「はい」


 リリアは灯りを受け取り、石扉をくぐった。


 冷たい空気が頬に触れる。


 薬草園の明るさが背後へ遠ざかり、地下へ続く階段が暗く伸びていた。


 一段、また一段。


 石段を下りるたび、香りが変わっていく。


 地上の枯れた薬草の匂いが薄れ、代わりに古い灰と眠った聖香の香りが濃くなる。


 けれど、不快ではない。


 むしろ、リリアの呼吸は少しずつ楽になった。


「この地下、呪いの匂いが薄いです」


「薬草園の下なのにか?」


 ノアが振り返る。


「はい。黒い根は上に張っていましたが、ここにはまだ届いていないように感じます。いえ……違う」


 リリアは足を止めた。


 壁に手を添える。


 冷たい石の奥に、かすかに何かが流れている。


 香りの道。


 水路ではない。

 魔力の流れに近い。


「ここが、黒い根を押し返していたのかもしれません」


 ガレスが目を細める。


「封印が生きておる、ということか」


「弱っています。でも、まだ完全には壊れていません」


 リリアは壁に刻まれた細い紋様を見た。


 月。

 香炉。

 薬草。

 そして、人の手のような模様。


 その線は、奥へ奥へと続いている。


 ルゥが先へ進みたがるように、小さく鳴いた。


「この先ね」


 一行はさらに地下へ下りた。


 やがて階段が終わり、広い空間へ出る。


 そこは、地下礼拝堂のような場所だった。


 天井は低くない。

 むしろ、地上の小礼拝堂より広いかもしれない。


 丸い広間の中央には、巨大な香炉が置かれていた。


 銀でも金でもない。

 白い石のような、月光を固めたような材質。


 表面には無数の紋様が刻まれている。


 香炉の周りには、枯れた薬草束が円を描くように置かれていた。

 その一部は黒ずんでいたが、完全に腐ってはいない。


 長い年月を経ても、まだ静かに香りを保っている。


 リリアは思わず息を呑んだ。


「きれい……」


 口からこぼれた言葉は、広間の中に小さく響いた。


 中央の香炉からは、微かな香りが立ちのぼっている。


 火は入っていない。

 煙もない。


 それなのに、香っている。


 白露草。

 銀葉ミント。

 月桂花。

 それから、リリアの知らない薬草。


 いくつもの香りが、完璧な均衡で重なり合っている。


 華やかではない。

 強くもない。


 ただ、整っている。


 あまりにも自然で、あまりにも静かで、リリアは胸が詰まりそうになった。


「これが……本当の聖香?」


 ガレスが小さく呟いた。


「おそらくな。いや、聖香というより、土地そのものを整えるための香炉じゃ」


 ノアは広間を見回す。


「古城の記録には、この地下礼拝堂のことはほとんど残っていない。三十年前の崩落で失われたとだけ」


「三十年前……古城の呪いが始まった頃ですね」


「ああ」


 リリアは香炉へ近づこうとした。


 その瞬間、ノアが腕で制する。


「待て」


 リリアは足を止めた。


「罠があるかもしれない」


「はい。すみません」


「謝らなくていい。君は香りに引かれやすい」


 ノアの言い方があまりにも真面目で、リリアは少しだけ頬を赤くした。


「気をつけます」


「頼む」


 カイルが床を調べ、ガレスが周囲の薬草束を確認する。


 しばらくして、カイルが顔を上げた。


「罠らしいものはありません。ただ、床の紋様が全部中央の香炉に向かっています」


 ガレスも頷く。


「薬草束は古いが、まだ香りが残っておる。驚くほど保存状態がいい。これも封印の力かもしれん」


 ノアはリリアを見る。


「近づけるか」


「はい」


 リリアはゆっくり、香炉へ近づいた。


 一歩ごとに、胸元の香炉石が温かくなる。


 香炉の前に立つと、リリアの中で何かが静かに震えた。


 懐かしい。


 初めて見る場所なのに、懐かしい。


 母の薬草帳。

 母の手。

 幼い頃に嗅いだ薬草茶の香り。


 記憶の奥で、誰かが歌うように香りを整えていた。


 リリアは震える手で、胸元の香炉石を取り出した。


 欠けた銀色の石。


 それが、中央の白い香炉に近づくほど強く光る。


 そして、香炉の側面に刻まれた小さなくぼみと、香炉石の形が重なった。


「……これ」


 リリアは息を呑んだ。


 香炉石は、欠けているのではない。


 もともと、この香炉にはめ込まれていたものの一部なのだ。


 ガレスが低く声を出す。


「鍵か」


 ノアの表情が引き締まる。


「リリア、無理にはめるな」


「はい」


 リリアは香炉石を握ったまま、くぼみに近づけた。


 触れさせる直前で止める。


 香りを確かめる。


 拒絶ではない。

 危険でもない。


 ただ、待っている。


 長い時間、ずっと。


「……入れてほしいみたいです」


 リリアが言うと、ノアは数秒だけ黙った。


「危険を感じたらすぐ離せ」


「はい」


 リリアは香炉石を、くぼみへそっとはめた。


 かちり、と小さな音がした。


 瞬間。


 広間全体に光が走った。


 床の紋様。

 壁の月と薬草。

 天井の古い星図。


 すべてが淡い緑と銀の光に包まれる。


 ルゥが高く鳴いた。


 その声に応えるように、中央の香炉から白い香りが立ち上る。


 煙ではない。

 光を帯びた香り。


 リリアの髪がふわりと揺れた。


 そして、耳元で声が聞こえた。


 ――香りを、ほどいてはいけない。


 リリアは目を見開いた。


 女性の声だった。


 優しく、けれど切実な声。


 母の声に似ている気がした。


「お母さま……?」


 返事はない。


 代わりに、白い香りの中に景色が浮かぶ。


 古城。

 緑に満ちた薬草園。

 眠る子どもたち。

 月の光を浴びる白銀の神獣。

 そして、この地下香炉の前に立つ一人の女性。


 顔はぼやけている。


 でも、リリアはなぜか分かった。


 あれは、かつての香律師だ。


 女性は香炉に手を置き、必死に何かを封じている。


 その足元から、黒い根が伸びていた。


 今、薬草園の下にあるものと同じ。


 黒い根は香炉へ絡みつき、女性の腕へも巻きつこうとしている。


 それでも女性は、逃げなかった。


 白銀の大きな神獣が、彼女の隣で吠える。


 月の光が広がる。


 香炉が輝く。


 黒い根が、地下のさらに奥へ押し戻されていく。


 ――封じた。けれど、滅ぼせてはいない。


 声が響く。


 ――香りを継ぐ者よ。黒い香りが甘くなった時、気をつけなさい。


 リリアの胸が震える。


 甘く濁った聖香。


 王都大神殿で嗅いだ、あの匂い。


 ――聖なる香りは、人の欲で腐る。


 白い景色が揺らぐ。


 女性の姿が遠ざかる。


 リリアは思わず手を伸ばした。


「待ってください! あなたは誰なんですか? この黒い根は何なんですか?」


 答えはなかった。


 ただ、最後に女性の声が静かに落ちた。


 ――香炉を、再び満たして。


 光が弾けた。


「リリア!」


 ノアの声が聞こえた。


 気づけば、リリアは香炉の前で膝をついていた。


 ノアが肩を支えている。

 カイルもガレスも、心配そうに覗き込んでいた。


 ルゥはリリアの膝に前足をかけ、青い瞳でじっと見上げている。


「大丈夫か」


 ノアの声には、隠しきれない焦りがあった。


 リリアは数度瞬きをした。


 地下広間の光は、もう落ち着いている。

 中央の香炉には、リリアの香炉石がはめ込まれたまま淡く輝いていた。


「……見えました」


「何が」


「昔の香律師だと思います。この香炉で、黒い根を封じていました。でも、完全には消せていないと……」


 ガレスが息を呑む。


「記憶を見たのか」


「たぶん。香りの記憶、みたいなものです」


 リリアは香炉を見上げた。


「この香炉を、再び満たして、と言われました」


「満たす?」


 ノアが問う。


「はい。でも、何で満たすのかまでは……」


 その時、香炉の内側で小さな音がした。


 からん、と。


 リリアはそっと中を覗き込む。


 香炉の底に、古い薬草の灰が少し残っていた。

 その灰の中心に、白い小さな種のようなものがある。


 リリアが手を伸ばす前に、ルゥが鼻先で軽く触れた。


 種が淡く光る。


 ガレスが目を見開いた。


「これは……聖月草の種かもしれん」


「聖月草?」


「古い記録にしかない薬草じゃ。月光と神獣の気配で育つ、失われた薬草。聖香の核に使われたとされる」


 リリアの胸が高鳴った。


 聖月草。


 この香炉を満たすために必要な薬草。


 もしかすると、黒い根を封じ直す手がかり。


 リリアはそっと種を見つめた。


「育てられるでしょうか」


 ガレスは苦い顔をした。


「普通なら無理じゃ。土も水も、条件も分からん」


「でも、薬草園には小さな芽があります」


 リリアは思い出す。


 黒い根に狙われていた、あの小さな芽。


 もしかして。


「あの芽が、聖月草かもしれない……?」


 広間に沈黙が落ちた。


 ノアが静かに言う。


「なら、黒い根が狙う理由になる」


 リリアは頷いた。


 生きている芽。

 黒い根が奪おうとした命。

 ルゥが守った小さな青。


 あれが、この香炉を再び満たす鍵なのだとしたら。


「守らなきゃ」


 リリアは思わず呟いた。


 今度はただの小さな芽ではない。


 古城の呪いを押し返す、希望の芽だ。


 ノアはリリアの肩から手を離さず、静かに言った。


「守る。君一人に背負わせはしない」


 その言葉に、リリアは顔を上げた。


 ノアの灰色の瞳は、まっすぐだった。


「この古城の問題だ。騎士団も、ガレスも、アリアたちも、全員で守る」


 リリアの胸に、温かいものが広がる。


 神殿では、見えない仕事を一人で抱えていた。


 でもここでは違う。


 一人で背負わなくていい。


「はい」


 リリアは小さく頷いた。


「みんなで、守りたいです」


 ルゥが高く鳴いた。


 その声に応えるように、中央の香炉がもう一度淡く光る。


 そして香炉の側面に、新たな文字が浮かび上がった。


 古い文字だった。


 リリアには読めない。


 しかし、ガレスが震える声で読み上げた。


「……香律師リリアへ」


 リリアは息を呑んだ。


「私の、名前……?」


 百年以上前のはずの香炉に。


 なぜ、自分の名前が。


 次の瞬間、地下広間の奥で、重い扉がひとつ、音を立てて開いた。


 ごおん、と。


 その奥から流れてきたのは、澄んだ聖香ではなかった。


 黒く甘い、王都大神殿と同じ香り。


 そして暗闇の奥で、誰かが笑った気がした。

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