第15話 初めての給金
地下広間の奥で、重い扉が開いた。
ごおん、と。
石と石が擦れる低い音が、胸の奥まで響く。
扉の向こうは暗かった。
灯りを向けても、光が奥まで届かない。
まるで闇そのものが、そこに溜まっているようだった。
そして、その闇の中から漂ってくる。
黒く甘い香り。
焦げた花。
腐った水。
濁った聖香。
王都大神殿で嗅いだものと、同じ匂い。
リリアは反射的に胸元を押さえた。
香炉石は、地下香炉にはめ込まれたまま淡く光っている。
だが、その光が扉の向こうへ伸びるたび、黒い香りに押し返されていた。
奥で、誰かが笑った気がした。
「……誰か、いるの?」
リリアが小さく呟いた瞬間、ノアが前に出た。
「近づくな」
声は低く、鋭い。
カイルはすでに剣を抜いていた。
ガレスも薬箱を抱え、いつでも薬草瓶を投げられるよう身構えている。
ルゥはリリアの前に立ち、毛を逆立てていた。
小さな身体からは想像できないほど、強い唸り声が広間に響く。
リリアは扉の奥を見つめた。
怖い。
けれど、ただ怖いだけではない。
あの奥に、何かがある。
黒い根の中心。
井戸の底と繋がるもの。
王都大神殿の聖香を腐らせているもの。
そして、おそらく。
リリアの知らない“香律師”の過去。
「ノア様」
「なんだ」
「今は、入らないほうがいいです」
リリアは自分でも驚くほど、はっきりと言った。
ノアが振り返る。
灰色の瞳が、静かに問いかけていた。
理由は、と。
「この香り、こちらを待っています」
リリアは息を整えながら言葉を探した。
「罠というより……呼んでいる感じがします。私を、香炉石を、ルゥを。今近づけば、こちらの準備が整う前に絡め取られるかもしれません」
ガレスが低く唸った。
「同感じゃ。あの奥の香りは濃すぎる。今の装備で突っ込む場所ではない」
「扉は閉じられるか」
ノアが問う。
リリアは地下香炉を見る。
香炉の側面には、先ほど浮かんだ古い文字がまだ残っていた。
――香律師リリアへ。
自分の名前。
百年以上前の封印に、なぜ自分の名が刻まれているのか。
考えれば考えるほど分からない。
けれど今、香炉から伝わってくる感覚は一つだった。
「少しだけなら、押し返せます」
「どうする」
「香炉石を外さずに、白露草と銀葉ミントの香りを焚きます。扉を完全に封じるというより、今日はここまで、と境目を作る感じです」
「必要なものは?」
「地上に戻ればあります。でも……」
リリアは香炉の中を見た。
底に残る古い灰。
そして聖月草らしき白い種。
「この灰を、少しだけ持ち帰ってもいいでしょうか。調べれば、地下香炉に必要な薬草の配合が分かるかもしれません」
ノアは頷いた。
「ガレス」
「任せろ」
ガレスは慎重に灰を小瓶へ移した。
リリアは白い種には触れなかった。
あれはまだ、ここに置いておくべきだと思った。
地下香炉が、最後の灯を守るように抱いているものだから。
ルゥが扉へ向かって短く吠えた。
それに応えるように、扉の奥からまた甘く焦げた香りが濃くなる。
リリアは胸の中で小さく呟いた。
――今日は、行きません。
香炉石が淡く光った。
すると扉の前の空気が、ほんの少し澄む。
白い香りの薄い膜が、闇との境目に張られていく。
扉は完全には閉じなかった。
けれど、黒い香りはそれ以上こちらへ流れ込んでこない。
ノアが短く言う。
「撤収する」
誰も反対しなかった。
地下から地上へ戻る階段は、下りた時よりも長く感じた。
薬草園へ出た瞬間、リリアは大きく息を吸った。
枯れた土。
白露草。
薬草パンの残り香。
遠くで干されている洗濯物。
それらのありふれた香りが、胸にしみた。
地上は、まだ明るい。
それだけで、ひどく救われた気がした。
「リリア」
ノアが声をかける。
「今日はもう休め」
「でも、記録を――」
「記録は座ってできる。地下には戻らない」
「……はい」
先回りされてしまった。
カイルが横で小さく笑う。
「リリアさん、団長に行動読まれてますね」
「カイル」
「はい、黙ります」
リリアは少しだけ笑った。
怖かったはずなのに、こうして地上で誰かが軽口を叩いてくれるだけで、身体のこわばりがほどけていく。
薬草園の小さな芽は、木箱の中で無事だった。
ルゥはすぐにそのそばへ行き、番をするように座る。
まるで、地下から持ち帰った不穏な空気を近づけまいとしているようだった。
「ありがとう、ルゥ」
リリアが頭を撫でると、ルゥは得意げに目を細めた。
その日の午後、リリアは薬草園の作業机で記録をまとめた。
地下香炉。
古い封印紋。
聖月草と思われる種。
黒く甘い香りの扉。
香炉石が鍵として反応したこと。
ルゥの月光と香炉の光が似ていること。
書けば書くほど、分からないことが増えていく。
けれど不思議と、怖さだけではなかった。
分からないなら、調べればいい。
記録し、香りを確かめ、少しずつ整えていけばいい。
それは、リリアがずっと続けてきたことだった。
神殿では認められなかったけれど、ここでは必要とされている。
「リリアさん」
声をかけられて顔を上げると、マーサが立っていた。
その手には、布に包まれた小さな袋がある。
「ノア様がお呼びです。執務室へ来てほしいと」
「ノア様が?」
「ええ。怖い話ではありませんよ」
マーサはそう言って、なぜか少し楽しそうに微笑んだ。
執務室は古城の西棟にあった。
重厚な扉を叩くと、中からノアの声がする。
「入れ」
「失礼します」
リリアが入ると、ノアは机の前に立っていた。
机の上には数枚の書類と、小さな革袋が置かれている。
ガレスとアリアも同席していた。
「急に呼び出してすまない」
「いえ。何か、地下のことで追加確認でしょうか」
「それもあるが、先に別件だ」
ノアは机の上の書類を一枚手に取った。
「リリア・エルム。今日付で、君をレーヴェン古城の薬草園管理補佐、および香律調査協力者として正式に雇用する」
リリアは瞬きをした。
「雇用……?」
「ああ」
ノアは淡々と続ける。
「客人として保護するだけでは、君の立場が曖昧になる。大神殿からの不当な要求に対抗するためにも、君がこの城に必要な職務を持つ者だと明確にしておく」
「職務……」
リリアは小さく繰り返した。
薬草園管理補佐。
香律調査協力者。
自分に、正式な役目が与えられた。
下働きではなく。
香り係と笑われるだけの立場ではなく。
「もちろん、無理に受ける必要はない」
ノアが言う。
「君が望むなら、客人のまま滞在してもいい」
また、選ばせてくれる。
リリアは胸の前で手を重ねた。
「受けたいです」
声は自然に出た。
「薬草園も、地下香炉も、井戸も、まだ何も分かっていません。でも、ここで調べたいです。私にできることを、仕事としてやらせてください」
ノアは静かに頷いた。
「では、契約成立だ」
アリアがにこりと笑い、机の上の革袋をリリアの方へ押した。
「そして、これが初回分」
「初回分?」
「給金よ」
リリアは言葉を失った。
革袋を見つめる。
給金。
その響きが、すぐには理解できなかった。
「私に……ですか?」
アリアが目を丸くする。
「他に誰が受け取るの?」
「でも、私はまだ来たばかりで……」
「守護獣を助けた。団長を眠らせた。孤児院の悪夢を薄めた。井戸の異変を見つけた。薬草パンと香草茶の試作もした。地下香炉の発見にも関わった」
アリアは指折り数えながら言った。
「十分すぎるくらい働いているわ」
「それは、皆さんが手伝ってくださったからで……」
「共同作業でも、あなたの仕事はあなたの仕事よ」
リリアは革袋へ手を伸ばせなかった。
神殿では、衣食住を与えられているのだからと、正式な給金はほとんどなかった。
必要なものは申請し、認められれば支給される。
リリア自身の仕事に値段がついたことなど、なかった。
香炉を磨いても。
薬草を守っても。
聖香を整えても。
それは、誰かにとって当然の下働きだった。
「……受け取って、いいのでしょうか」
自分でも情けない声だと思った。
けれど本当に、分からなかった。
ノアが机の向こうから静かに言う。
「受け取ってほしい」
「ノア様」
「これは施しではない。君の働きへの対価だ」
対価。
その言葉が、胸の奥に深く落ちた。
「君の仕事には価値がある」
リリアの喉が詰まった。
そんなことを、誰かに正面から言われたのは初めてだった。
役立たず。
下働き。
感覚だけの娘。
聖香師ではない者。
そう言われ続けた。
けれど、目の前の人たちは違うと言っている。
価値がある、と。
リリアは震える手で革袋を受け取った。
思ったより、重い。
中で硬貨が触れ合い、小さな音を立てる。
その音を聞いた瞬間、目の奥が熱くなった。
「……ありがとうございます」
声が震えた。
リリアは慌てて俯く。
泣くつもりはなかった。
ここは執務室で、仕事の話をしている場所だ。
泣くようなことではない。
それなのに、涙がこぼれた。
一粒、革袋を握る手の甲に落ちる。
「す、すみません」
リリアは急いで拭おうとした。
しかし、ノアが机の上から清潔な布を差し出した。
「謝るな」
その声があまりに優しくて、余計に涙が出そうになった。
リリアは布を受け取り、目元を押さえる。
「私……ずっと、働いているつもりでした」
小さな声がこぼれた。
「でも、それが仕事だと思ってもらえたことが、あまりなくて。誰かの役に立てたと思っても、それは当然で……失敗だけが私のものになって……」
言葉がうまく続かない。
それでも、誰も急かさなかった。
ノアも、ガレスも、アリアも。
ただ静かに聞いてくれている。
「だから、こんなふうに……私の仕事に価値があるって言ってもらえるのが、うれしくて」
言い終えた後、リリアは顔を上げられなかった。
沈黙が落ちる。
やがて、ガレスが鼻を鳴らした。
「大神殿の連中は、ずいぶん高いものをただで使っとったわけじゃな」
アリアが腕を組んで頷く。
「しかも価値を知らずに追い出した。商人としては最悪の損切りね。いや、損切りですらないわ。金貨の袋を泥だと思って捨てたようなものよ」
リリアは思わず小さく笑ってしまった。
涙が残ったままの、変な笑いだった。
ノアは静かに言った。
「ここでは、そうはしない」
リリアは布を握ったまま、ノアを見た。
「君の働きは記録する。評価する。対価を払う。必要なら休ませる」
「休ませる、まで入るのですね」
「重要だ」
ノアは真顔だった。
アリアがくすりと笑う。
「リリアさん、あなたが一番覚えるべき項目かもしれないわね」
「……努力します」
「努力して休むって、少し変だけどな」
ガレスが笑った。
執務室の空気が柔らかくなる。
リリアは革袋を胸に抱いた。
重い。
けれど、それは怖い重さではなかった。
自分がここで働いていいという証のような重さだった。
その後、雇用契約の簡単な説明を受けた。
薬草園管理補佐としての基本給。
香律調査に関する危険手当。
薬草茶や薬草パンの商品化に関わった場合の追加報酬。
休養日。
治療費は古城持ち。
聞き慣れない言葉ばかりで、リリアは何度も聞き返した。
そのたびアリアが分かりやすく説明し、ガレスが「これは高いぞ」「これは安すぎる」と横から口を出した。
ノアは最終的に、危険手当を少し上乗せした。
「そんなにいただけません」
リリアが慌てると、ノアは即答した。
「地下香炉へ同行する者に払う額としては妥当だ」
「でも……」
「危険を軽く扱うな」
その言葉に、リリアは口を閉じた。
自分の危険を軽く見ないこと。
それも、ここで覚えなければならないことなのかもしれない。
執務室を出る頃には、夕方になっていた。
リリアは革袋を鞄の奥へ丁寧にしまい、薬草園へ向かった。
小さな芽は、今日も木箱の中で生きている。
ルゥはそのそばで丸くなっていたが、リリアに気づくと顔を上げた。
「ルゥ」
リリアが呼ぶと、ルゥは尻尾を振って寄ってくる。
リリアはしゃがみ込み、ルゥの首にそっと腕を回した。
「私、お給金をもらったの」
ルゥは首を傾げる。
「お仕事として、認めてもらえたの」
言葉の意味が分かっているのかは分からない。
けれどルゥは、リリアの頬に鼻先を寄せた。
慰めるように。
祝うように。
リリアは笑った。
「まずは、何に使おうかな」
母の薬草帳を直す革。
欠けた香炉石を包む布。
薬草園用の手袋。
ミナたちに甘い薬草菓子を作る材料。
考えるだけで、胸が温かくなる。
自分で得たお金で、何かを選べる。
それは小さな自由だった。
その夜。
リリアは自室で母の薬草帳を開いた。
黒い染みのついた表紙を撫で、今日の記録を書き加える。
地下香炉の発見。
黒い扉。
聖月草の種。
初めての給金。
最後の項目を書いた時、少し迷ってから、ページの隅に小さく一文を添えた。
――私の仕事には、価値があると言ってもらえた。
書いた瞬間、また涙が出そうになった。
リリアは窓を開けた。
夜の薬草園から、冷たい風が入ってくる。
そこに、白露草のかすかな香りと、ルゥの雪のような香りが混じっていた。
遠くで、騎士たちの笑い声が聞こえる。
ここにいる。
そう思えた。
まだ怖いことはたくさんある。
王都大神殿はリリアを連れ戻そうとしている。
地下の奥には黒く甘い香りが待っている。
香炉に浮かんだ自分の名前の意味も分からない。
それでも今夜は、胸の奥に小さな灯がある。
リリアは薬草帳を閉じ、そっと呟いた。
「明日も、ちゃんと働こう」
その頃。
王都大神殿では、セシリアが震える手で聖香の調合皿を見つめていた。
白い香粉は、混ぜた直後から灰色に濁っていく。
「どうして……」
何度やっても、リリアのようには整わない。
香りは甘すぎ、重すぎ、最後には焦げる。
エルヴィンは部屋の入口で黙っていた。
セシリアの失敗を責める言葉はまだない。
だが、沈黙そのものが、以前よりずっと重い。
神官長マルドが静かに告げる。
「急ぎなさい。あの娘が自分の価値に気づく前に」
セシリアは顔を上げる。
「自分の価値……?」
マルドは黒く濁った香粉を見つめ、薄く笑った。
「人は、自分の値段を知ると、安く買い叩けなくなる」
その言葉の意味を、セシリアはすぐには理解できなかった。
ただ、胸の奥がひどくざわついた。
その夜。
大神殿の聖香庫で、またひとつ瓶が割れた。
白い香粉は黒く腐り、甘く焦げた匂いが床を這う。
リリアのいない神殿で、崩壊は静かに進んでいた。




