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第16話 偽聖香師の焦り

 セシリアは、白い調合皿の前で息を止めていた。


 皿の中には、細かく挽いた白露草の粉。

 月桂花の花弁。

 蜜根の削り粉。

 そして、清めたはずの聖水が一滴。


 本来なら、ここで淡く白い香りが立つはずだった。


 祝福式の朝、貴族たちがうっとりと目を細めたような、澄んだ香り。

 神殿の聖香師見習いとして、セシリアの名を高めるはずだった香り。


 けれど、皿の中の香粉は白くならない。


 混ぜれば混ぜるほど、中心からじわじわと灰色に濁っていく。


「……違う」


 セシリアは小さく呟いた。


 匙を持つ指に力が入る。


「違う、違うわ。こんなはずではありませんわ」


 もう一度、聖水を足す。


 白く戻れと願うように、銀の匙で円を描く。


 だが次の瞬間、香粉の表面がぴしりと乾いた音を立てた。


 細い亀裂が走る。


 そこから、焦げた砂糖のような臭いが立ちのぼった。


「っ……!」


 セシリアは思わず皿を遠ざけた。


 喉の奥がつまる。


 この臭いが嫌いだった。


 祝福式で、リリアが「危険です」と叫んだ時から。

 小祈祷室で貴族夫人が顔をしかめて帰った時から。

 聖香庫の瓶が割れるたびに漂う、この甘く焦げた臭い。


 嗅ぐたびに、リリアの声が耳の奥で響く。


 その聖香は危険です。


「うるさい……」


 セシリアは唇を噛んだ。


 ここにはリリアなどいない。


 地味で、目障りで、いつも香りを嗅いでばかりいた義姉は、もう追放した。

 婚約も破棄された。

 大神殿への立ち入りも禁じられた。


 それなのに、なぜ。


 なぜ今も、リリアの影が調合皿の上にちらつくのか。


「セシリア様」


 背後から神官の声がした。


 セシリアはびくりと肩を跳ねさせる。


 振り返ると、若い神官が不安そうに立っていた。


「何ですの」


「その……午後の祈祷に使う聖香の準備は……」


「見て分かりませんの? 今、調整中ですわ」


「も、申し訳ありません」


 神官は慌てて頭を下げる。


 しかし、その視線は調合皿へ向いていた。


 灰色に濁った香粉。

 焦げた臭い。

 セシリアの震える手。


 見られている。


 失敗を。


 セシリアの胸に、冷たい怒りが湧いた。


「何か言いたいことでも?」


「いえ、決して」


「あなたたちが温室の管理を怠るから、薬草の質が落ちたのです。私一人に責任を押しつけるつもりですか?」


「そ、そんなつもりは……」


「なら、黙って白露草を持ってきなさい。今度は黒ずんでいないものを」


 神官は顔を青ざめさせた。


「それが……状態の良い白露草は、もうほとんど……」


「ほとんど?」


 セシリアの声が低くなる。


「大神殿の温室で、白露草がないと言うのですか?」


「昨夜から枯れが広がっておりまして。リリア様が記録していた鉢の並びも、誰も正確には……」


 その名が出た瞬間、セシリアは調合匙を机に叩きつけた。


 かん、と硬い音が響く。


「その名前を出さないで!」


 神官は息を呑んだ。


 セシリア自身も、声を荒げすぎたことに気づいた。


 けれど、もう遅い。


 部屋の外にいた神官たちも、こちらを見ていた。


 皆、怯えている。

 そして、疑っている。


 本当に聖香師としての力があるのか、と。


 セシリアは震える息を吸った。


「……失礼。少し疲れているようですわ」


 取り繕うように微笑む。


 神官たちは慌てて目を伏せた。


 だが、一度崩れた空気は戻らない。


 その時、扉が開いた。


 エルヴィンだった。


 白い神官騎士服の胸元には、大神殿の紋章。

 いつもならセシリアを見つけると柔らかく笑ってくれる彼が、今日は表情を曇らせている。


「セシリア。神官長がお呼びだ」


「神官長様が?」


「ああ。午後の祈祷について確認したいそうだ」


 セシリアは手元の調合皿を見た。


 灰色に濁った香粉。


 とても見せられない。


「すぐに参りますわ。少しだけ、仕上げを――」


 言いかけた時だった。


 調合皿の中の香粉が、ふっと黒く沈んだ。


 まるで皿の底に穴が開き、闇が滲み出したように。


 次の瞬間、細い煙が上がる。


 甘く、焦げた臭い。


 エルヴィンの眉がはっきりと寄った。


「それは……聖香なのか?」


 セシリアの喉が詰まる。


「違います。これは、薬草の質が悪くて……」


「君が調合したのではないのか」


「調合はしましたわ。でも、材料が悪ければ――」


「昨日も、材料のせいだと言っていた」


 その言葉は静かだった。


 だが、セシリアの胸に深く刺さった。


「エルヴィン様……私を疑っていらっしゃるの?」


 セシリアは目に涙を浮かべた。


 いつものように。


 少し傷ついた顔をすれば、エルヴィンはすぐに謝る。

 自分を守ってくれる。

 リリアを責めてくれる。


 そう思っていた。


 だが、エルヴィンはすぐには動かなかった。


 セシリアの涙を見ても、表情は硬いままだ。


「疑っているわけではない」


「では、なぜそんなことをおっしゃるの?」


「事実を確認しているだけだ」


 事実。


 その言葉が、嫌だった。


 リリアもよく、同じような顔をしていた。

 香りが違う、聖水が濁っている、香炉を替えたほうがいい。


 事実だけを見ているような顔で。


 セシリアは唇を震わせた。


「私、頑張っているんです。お姉さまが最後に何をしたかも分からないのに、温室の薬草は枯れて、聖香庫の瓶も割れて……それでも、私が何とかしなければと……」


「分かっている」


「分かっていませんわ!」


 思わず叫んでいた。


 エルヴィンが目を見開く。


 セシリアは慌てて口元を押さえたが、もう止まらなかった。


「皆、お姉さま、お姉さまって……! 昨日までは誰も見向きもしなかったのに! 香り係だって、下働きだって笑っていたのに! どうして今さら、あの人がいないと困るみたいな顔をするんですの!?」


 調香室が静まり返る。


 セシリアの息だけが荒い。


 言ってしまった。


 エルヴィンの顔に、驚きと、わずかな困惑が浮かんでいる。


 その反応が、さらにセシリアを惨めにした。


「……セシリア」


 エルヴィンが声を低くする。


「君は、リリアの仕事をどこまで知っていた」


「何ですの、急に」


「答えてくれ」


「知る必要などありませんでしたわ。あの人は薬草園の下働きですもの」


「聖香の調整は?」


「それは私が――」


 言いかけて、言葉が止まった。


 本当に、自分がしていただろうか。


 セシリアは調合の最後に香炉へ聖香を入れていた。

 貴族の前で祈りを捧げていた。

 神官長に報告していた。


 けれど、その前に。


 リリアが何度も皿を取り替えていた。

 聖水を差し替えていた。

 乾燥薬草を選び直していた。

 「この配合だと少し重いから」と小さく呟いていた。


 セシリアはそれを、うるさいと思っていた。


 細かい人。

 地味な仕事にこだわる人。

 私が注目されるのが悔しい人。


 そう決めつけていた。


「私は……」


 セシリアの声が小さくなる。


 エルヴィンはその沈黙を見逃さなかった。


「セシリア」


「違いますわ」


 セシリアは首を振る。


「違うんです。私は、正式な聖香師見習いです。神官長様にも認められました。エルヴィン様も、私ならできると……」


「ああ。そう思っていた」


 思っていた。


 過去形だった。


 セシリアの心臓が、冷たく沈む。


「今は違うとおっしゃるの?」


「そうではない。だが、状況が変わった。大神殿の聖香が不安定になっている以上、何が原因か調べる必要がある」


「原因はリリアお姉さまですわ!」


「本当にそうなのか?」


 エルヴィンの声は、強くはなかった。


 だからこそ、セシリアは息を呑んだ。


「彼女は、祝福式で聖香の異変を訴えていた。私たちはそれを、妨害だと判断した」


「妨害ですわ!」


「だが今、実際に聖香は腐っている」


 セシリアは何も言えなくなった。


 その時、廊下が騒がしくなった。


 足音。

 慌てた声。

 何かが倒れる音。


 若い神官が調香室へ駆け込んできた。


「エルヴィン様! セシリア様! 大変です!」


「何事だ」


「午後の祈祷を待っていたレーヌ伯爵夫人が、控え室で倒れられました!」


 セシリアの顔から血の気が引いた。


「倒れた……?」


「はい! 控え室に焚いていた待機用の聖香を吸われた直後、息苦しさを訴えられて……!」


 待機用の聖香。


 セシリアが朝に調合したものだ。


 濃すぎる部分を取り除き、まだ使えると思った香粉。


 リリアなら、絶対に止めただろう。


 そんな考えが頭をよぎり、セシリアは強く打ち消した。


「私の聖香のせいではありませんわ」


 声が震える。


「伯爵夫人の体調が悪かっただけです」


 エルヴィンはすでに動いていた。


「治療室へ運べ。癒し手を呼ぶ。香炉はすぐに止めろ」


「は、はい!」


 神官が走り去る。


 エルヴィンも続こうとして、ふとセシリアを振り返った。


「君も来てくれ。調合した聖香の内容を説明する必要がある」


「……私が?」


「当然だ」


 当然。


 その言葉が重くのしかかる。


 セシリアは動けなかった。


 調合内容。


 何を、どれだけ入れたか。


 白露草は黒ずんでいた部分を取り除いた。

 月桂花は香りが薄かったから多めにした。

 蜜根は焦げ臭さを隠すために増やした。

 聖水は、濁っていた気がしたけれど、他に替えがなかったから使った。


 説明できない。


 正しくなかったと、自分で分かってしまう。


「セシリア」


 エルヴィンが名を呼ぶ。


 昔なら、その声は甘かった。


 今は、義務のようだった。


「……はい」


 セシリアは震える足で歩き出した。


 治療室へ向かう廊下には、焦げた聖香の臭いが漂っていた。


 途中、神官たちが道を開ける。


 誰もセシリアを責めない。


 だが、視線が痛い。


 あれが聖香師見習いなのか。

 リリアを追い出したからではないのか。

 祝福式で、リリアの言葉を聞いていれば。


 そんな声が、香りのない言葉として肌に突き刺さる。


 治療室の前では、神官長マルドが待っていた。


 穏やかな顔。


 けれど、目だけが冷たい。


「レーヌ伯爵夫人は?」


 エルヴィンが問う。


「命に別状はない。だが、しばらく大神殿の聖香は避けたいとのことだ」


 大神殿の聖香を避けたい。


 それは、王都の貴族社会にとって大きな意味を持つ。


 聖香が信頼されなくなれば、大神殿の権威が揺らぐ。


 セシリアは喉を鳴らした。


「神官長様、私は……」


「セシリア」


 マルドは優しく名を呼んだ。


 その優しさが、今は怖い。


「君を責めている時間はない」


「では――」


「リリアを戻す」


 はっきりとした声だった。


 エルヴィンが眉を寄せる。


「神官長。辺境伯家は送還要求を拒否しています」


「だから、要求ではなく命令に変える」


「命令?」


「リリア・エルムは、大神殿の聖香を汚染した疑いのある重要参考人だ。王都で取り調べる必要がある」


 セシリアの胸が、わずかに軽くなった。


 そうだ。


 リリアを罪人として戻せばいい。


 彼女のせいにすれば、セシリアの失敗ではなくなる。


 だが、エルヴィンはすぐには頷かなかった。


「ですが、実際に汚染した証拠はありません」


「証拠は作るものではない。見つけるものだよ、エルヴィン」


 マルドは微笑んだ。


「そして、見つけるためには本人が必要だ」


 エルヴィンの表情が曇る。


 セシリアはその横顔を見た。


 なぜ迷うの。


 あの人は、あなたに恥をかかせたのに。

 私を傷つけたのに。

 神殿を追い出された罪人なのに。


 それなのに、なぜ今さら。


「エルヴィン様」


 セシリアは彼の袖を掴んだ。


「私、怖いです。このままでは大神殿が……私たちが、リリアお姉さまのせいで……」


 エルヴィンはセシリアを見た。


 その目には、以前のような無条件の庇護はなかった。


 けれど、まだ完全に離れたわけでもない。


 セシリアは涙をこぼした。


「どうか、助けてください」


 エルヴィンは目を伏せた。


 しばらくして、静かに言う。


「……分かった。辺境へ向かう使節団に、私も同行する」


 セシリアは息を吐いた。


 マルドは満足そうに頷く。


「よろしい」


 その時、治療室の中からレーヌ伯爵夫人の咳き込む声が聞こえた。


 セシリアはびくりと震える。


 扉の隙間から、焦げた香りが流れてくる。


 もう、華やかな聖香の香りではない。


 大神殿全体が、少しずつ腐っている。


 そしてセシリアは、初めてはっきりと理解し始めていた。


 リリアがいないと、自分は聖香を整えられない。


 だが、それを認めるくらいなら。


 リリアを罪人として連れ戻したほうが、ずっとましだった。


 その夜。


 大神殿の温室で、残っていた白露草が一斉に黒く萎れた。


 聖香庫では、瓶の割れる音が止まらない。


 そして地下の封印室で、黒い根がまた一本、石床の隙間から伸びた。


 その根は、王都の方角ではなく。


 北の辺境へ向かうように、静かに身をくねらせていた。

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