表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
17/18

第17話 悪夢を食べる黒蝶

 その夜、レーヴェン古城には久しぶりに静かな時間が流れていた。


 食堂では夕食の後、騎士たちが香草茶を飲みながら低い声で笑っていた。

 厨房からは、明日の保存用薬草パンを試作する香ばしい匂いが漂ってくる。


 孤児院の子どもたちは、いつもより早く寝支度を終えていた。


 リリアは小さな木の盆に、薄めの香草茶を並べて廊下を歩いていた。


 白露草をほんの少し。

 銀葉ミントは香りを立てる程度。

 蜜根を爪の先ほど。

 月眠草は使わない。


 今夜は、眠らせるための茶ではない。

 悪夢に沈みすぎないよう、寝る前の呼吸を整えるための香りだ。


「リリアお姉ちゃん、今日は羽音しないよ」


 寝台に座ったミナが、両手で器を包みながら言った。


 昨日より顔色はずっといい。

 まだ目元に疲れはあるが、笑えるくらいには落ち着いていた。


「よかった。でも、怖くなったらすぐに呼んでね」


「うん。ルゥもいるし」


 ミナの視線の先では、白銀の子狼――ルゥが、部屋の入口で丸くなっていた。


 完全に番犬、いや番神獣のつもりらしい。

 子どもたちが寝るまでは、孤児院から動かないと決めたようだった。


 リリアが近づくと、ルゥは片目だけ開ける。


「ありがとう、ルゥ。でも、あなたも無理しないでね」


 ルゥは鼻を鳴らした。


 分かっているのか、分かっていないのか。

 少なくとも、聞く気だけはあるように見える。


 子どもたちに香草茶を配り終えると、部屋には柔らかな香りが満ちた。


 怖がっていた幼い男の子が、器を抱えたままぽつりと言う。


「この匂い、朝みたい」


「うん。朝みたいにしたの」


 リリアは微笑む。


「夜が怖くても、朝はちゃんと来るでしょう? だから、夜の中に少しだけ朝の香りを置いておくの」


「じゃあ、夢の中にも朝が来る?」


「来るわ」


 リリアは、そう答えた。


 確信があったわけではない。


 けれど、そう言ってあげたかった。


 子どもは安心したように頷き、毛布の中へ潜る。


 世話係の女性たちも、ほっとした顔をしていた。


「リリアさんが来てから、子どもたちが寝る前に泣かなくなりました」


 世話係の一人が、小声で言った。


「まだ悪夢は怖いみたいです。でも、怖くなった時に呼べる人がいると思うだけで違うんでしょうね」


「私だけじゃありません。皆さんがそばにいるからです」


「それでも、リリアさんが香りを整えてくれると、部屋の空気が変わります」


 そう言われて、リリアは少しだけ頬を熱くした。


 まだ褒められることに慣れない。


 けれど、以前のようにすぐ否定するのはやめようと思った。


 ここでの仕事には価値がある。

 そう言ってもらったばかりだ。


「ありがとうございます」


 リリアは素直に頭を下げた。


 孤児院を出る頃には、子どもたちの寝息が少しずつ聞こえ始めていた。


 廊下には、香草茶の残り香と、古い木の匂い。

 それから、子どもたちが安心して眠りに落ちる時の、柔らかく温かい香りが漂っている。


 リリアは胸を撫で下ろした。


 完全ではない。


 でも、昨日よりいい。


 それだけで、十分に前へ進んでいる気がした。


 ルゥは孤児院の扉の前に座ったまま動かない。


「ここにいるの?」


 リリアが尋ねると、ルゥは小さく頷くように耳を動かした。


「じゃあ、少しだけお願いね。私は薬草園の記録をまとめてくるから」


 ルゥは任せろと言うように、尻尾で床を一度叩いた。


 リリアは小さく笑い、薬草園へ向かった。


 夜の薬草園は、昼とは違う香りがする。


 冷えた土。

 石壁に残る昼の熱。

 月明かりを浴びた白露草。

 木箱の中で守られている小さな芽。


 リリアは作業机に灯りを置き、薬草帳を開いた。


 昼間の記録の続きだ。


 地下香炉の灰。

 聖月草と思われる種。

 黒い扉から漂った香り。

 そして、王都大神殿側で何が起きているかの推測。


 ペンを走らせながら、リリアは時折、木箱の芽を見る。


 今日も無事だ。


 葉はまだ小さい。

 けれど、昨日よりほんの少しだけ青みが強い。


 ルゥの月光と、白露草の香りの輪が効いているのだろう。


「聖月草……本当にあなたがそうなの?」


 リリアが小さく呟くと、芽が夜風に揺れた。


 返事のようで、リリアは少し笑う。


 その時、背後から足音がした。


 振り返ると、ノアが薬草園へ入ってくるところだった。


「まだ起きていたのか」


「あ……はい。今日の記録を少しだけ」


「少しだけ、で済むのか」


 ノアの声には、どこか呆れた響きがある。


 リリアは視線を薬草帳へ落とした。


 すでに数ページ書いている。


「……少しではなかったかもしれません」


「だろうな」


 ノアは作業机の向かいに立った。


 片手には、小さな包みを持っている。


「マーサからだ。夜食を食べていないだろうと」


「え?」


 包みを開けると、小さな薬草パンと温かいスープの入った器が出てきた。


 湯気がふわりと立ちのぼる。


 蜜根と根菜の優しい香り。


 リリアの胃が、正直に小さく鳴った。


 ノアは何も言わなかった。

 けれど、聞こえなかったふりをしてくれているのが分かる。


 余計に恥ずかしい。


「ありがとうございます……」


「礼はマーサに」


「はい。後で伝えます」


 リリアはスープを一口飲んだ。


 温かい。


 緊張で固まっていた身体に、ゆっくり熱が戻ってくる。


 ノアは木箱の小さな芽を見た。


「状態は?」


「少し良くなっています。黒い根も、今のところ近づいていません」


「ルゥが孤児院にいるから、薬草園の警戒が薄くなるかと思ったが」


「香りの輪が残っていますから。あと、ルゥが昼に何度も周りを歩いてくれたので、月光の気配が土に残っているみたいです」


「月光の気配」


「変な言い方ですよね」


「いや」


 ノアは首を横に振る。


「君がそう感じるなら、それは記録する価値がある」


 リリアはペンを止めた。


 また、胸が温かくなる。


 何気ない言葉なのに、ノアはいつもリリアの感覚を拾ってくれる。


 笑わずに。

 否定せずに。

 使える情報として。


「……ノア様は、不思議ですね」


「私が?」


「はい。私の言うことを、あまり変だと思わないので」


「思っていないわけではない」


「えっ」


 リリアが顔を上げると、ノアは真面目な顔で続けた。


「最初は変わっていると思った。香りで呪縛を解いたと言われた時は、正直、理解できなかった」


「そう、ですよね」


「だが、理解できないことと、価値がないことは違う」


 ノアはリリアを見た。


「君の言葉は結果に繋がっている。なら、聞くべきだ」


 その言い方があまりにもノアらしくて、リリアは少し笑ってしまった。


「合理的なんですね」


「よく言われる」


「でも、優しいです」


 言ってから、リリアは固まった。


 何を言っているのだろう。


 夜の薬草園で、二人きりで、急にそんなことを。


 慌てて視線を落とす。


「す、すみません。変な意味ではなくて、その、私の話をちゃんと聞いてくださるので……」


 ノアはしばらく黙っていた。


 リリアは余計にいたたまれなくなる。


 やがて、ノアが低く言った。


「君にそう言われるのは、悪くない」


 リリアの胸が、どきりと鳴った。


 夜風が白露草を揺らす。


 香りが少しだけ甘くなる。


 何か言わなければと思うのに、言葉が出てこない。


 その沈黙を破ったのは、遠くから響いたルゥの吠え声だった。


 鋭い。


 警戒の声。


 リリアとノアは同時に顔を上げた。


「孤児院です!」


 リリアが立ち上がる。


 ノアはすでに動いていた。


「私の後ろを」


「はい!」


 二人は薬草園を駆け出した。


 古城の廊下は夜の静けさに包まれていたが、孤児院へ近づくにつれて空気が変わっていく。


 冷たい。

 甘い。

 焦げている。


 そして、羽音。


 ぱた。

 ぱた。

 ぱた。


 リリアの手首の呪痕が、ずきりと痛んだ。


 孤児院の扉の前で、ルゥが毛を逆立てていた。


 額の月の紋が光っている。


 だが、その光の前に、小さな黒い影がいくつも舞っていた。


 黒蝶。


 前に井戸の底で見たものより小さい。

 けれど、数が多い。


 蝶たちは扉の隙間へ入り込もうとしている。

 ルゥが吠えるたび、数匹が弾けて消えるが、また廊下の暗がりから湧いてくる。


「ルゥ!」


 リリアが駆け寄ると、ルゥは振り返らずに吠えた。


 来るな、ではない。


 早く、という声に聞こえた。


 ノアが剣を抜く。


「カイルを呼ぶ」


「お願いします!」


 リリアは鞄から白露草を取り出した。


 黒蝶は弱い。

 でも、数で押してくる。


 一匹一匹を払うのでは間に合わない。


 扉の前に、香りの膜を張る必要がある。


 リリアは白露草を指先で揉み、銀葉ミントを重ねた。


 廊下の冷たい空気に、澄んだ青い香りが広がる。


 黒蝶たちが、ふらりと動きを鈍らせた。


 その隙にルゥが吠える。


 月の光が走り、蝶が数匹まとめて灰になった。


 しかし、扉の向こうから子どもの泣き声が聞こえた。


「いや……来ないで……!」


 ミナだ。


 リリアの胸が締めつけられる。


「ミナちゃん!」


 扉を開けようとした瞬間、ノアが腕を伸ばして止めた。


「待て。蝶が中へ流れ込む」


「でも!」


「香りで道を作れるか」


 ノアの問いに、リリアは息を吸った。


 できるかではない。


 やるしかない。


「やります」


 リリアは廊下に膝をついた。


 白露草を扉の下へ。

 銀葉ミントを左右へ。

 蜜根は使わない。

 甘い香りは蝶を引き寄せる。


 代わりに、月桂花をほんの少し。


 花の香りで、子どもたちの意識をこちらへ戻す。


「ミナちゃん、聞こえる?」


 リリアは扉越しに声をかけた。


「リリアお姉ちゃんの声、聞こえる?」


 中から泣き声がする。


「黒い蝶が……夢を食べるの……!」


 夢を食べる。


 リリアは息を呑んだ。


 黒蝶はただ悪夢を見せているのではない。


 子どもたちの夢へ入り込み、怖いものだけを増やし、安心できる記憶を食べている。


 だから、ミナたちは眠ることを怖がるようになったのだ。


「大丈夫。食べさせない」


 リリアは静かに言った。


「あなたの夢は、あなたのものよ」


 香炉石を握る。


 地下香炉から持ち帰った微かな聖香の記憶が、胸の奥で揺れた。


 澄んだ香り。

 土地を整える香り。

 守るための香り。


 リリアは扉の下へ香りを流し込む。


 白露草の朝。

 銀葉ミントの風。

 月桂花のやわらかな花。


「ミナちゃん、朝の香りを探して」


 中で、ミナの泣き声が少し変わる。


「朝……?」


「そう。雨の後の葉っぱの香り。覚えてる?」


「……覚えてる」


「その香りの方へ歩いて。黒い蝶じゃなくて、こっち」


 ぱたぱたと羽音が強くなる。


 黒蝶たちがリリアへ向きを変えた。


 リリアの背筋に冷たいものが走る。


 今、蝶たちは気づいた。


 夢ではなく、現実にいるリリアへ。


 ノアが一歩前に出る。


「リリア、後ろへ」


「まだです」


 黒蝶が一斉に飛ぶ。


 ノアの剣が銀の軌跡を描いた。


 蝶は刃に触れる直前で散り、また形を戻そうとする。


 普通の剣では完全には斬れない。


 だが、ノアの剣が作った一瞬の空白に、ルゥの月光が走った。


 蝶が灰になる。


 その灰の中を、リリアの香りが扉の奥へ進む。


 中から、小さな声がした。


「……リリアお姉ちゃん」


「ここよ」


「見えた……白い道」


「そこを歩いて」


 数秒後。


 扉の向こうで、ミナが大きく息を吸う音がした。


 泣き声が止まる。


 同時に、廊下を舞っていた黒蝶たちの動きが乱れた。


 リリアは今だと思った。


「ルゥ!」


 ルゥが高く吠える。


 リリアは白露草と銀葉ミントの香りを一気に広げた。


 ノアが剣で廊下の空気を裂くように振る。


 月光と香りと剣圧が重なり、黒蝶の群れを押し潰した。


 ぱん、と乾いた音がいくつも響く。


 黒蝶は灰となり、床へ落ちる前に消えていった。


 廊下に静けさが戻る。


 リリアは肩で息をした。


 手首が熱い。


 頭も少しぼんやりする。


 けれど、扉の向こうからミナの声が聞こえた。


「リリアお姉ちゃん……?」


 リリアはすぐに扉を開けた。


 部屋の中では、子どもたちがベッドの上で震えていた。

 世話係たちも青ざめている。


 ミナは涙で濡れた顔を上げ、リリアを見るなり寝台から飛び降りた。


「リリアお姉ちゃん!」


 リリアはミナを抱きとめた。


 小さな身体が震えている。


「怖かったね」


「黒い蝶がね、楽しかった夢を食べたの。お母さんの夢も、花畑の夢も、全部黒くしようとしたの」


「うん」


「でも、リリアお姉ちゃんの香りが来た」


 ミナはリリアの胸元に顔を押しつける。


「朝の匂いがしたから、戻ってこられた」


 リリアはミナの背を撫でながら、目を閉じた。


 よかった。


 本当に、よかった。


 ノアが部屋の入口に立ち、全員の無事を確認している。

 ルゥは部屋へ入り、子どもたちのベッドの間を歩いた。


 不思議なことに、ルゥが近づくと子どもたちの震えが少しずつ収まっていく。


 額の月の紋はまだ淡く光っていた。


「今夜は、孤児院の前に騎士を置く」


 ノアが言った。


「部屋にも香りの護りを作れるか」


「はい。強いものではありませんが、朝までなら」


「頼む」


 リリアは頷いた。


 その時だった。


 ミナがリリアの袖を引いた。


「リリアお姉ちゃん」


「なあに?」


「黒い蝶が、最後に言ってた」


 リリアの背筋に、冷たいものが走る。


「何を?」


 ミナは震えながら、けれどはっきりと言った。


「リリアを見つけた、って」


 部屋の空気が凍った。


 リリアの手首の呪痕が、鋭く痛む。


 ノアがすぐにリリアを見る。


 その瞬間、部屋の隅に残っていた黒い灰が、ひとりでに舞い上がった。


 灰は小さな蝶の形になり、空中で一度だけ羽ばたく。


 そして、リリアの耳元で囁いた。


 ――香律師リリア。


 甘く焦げた声。


 王都大神殿の地下で聞こえたような、古い闇の声。


 ――次は、あなたの夢を食べに行く。


 黒蝶は、白露草の香りに触れて消えた。


 けれどその声だけは、リリアの胸の奥にいつまでも残った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ