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第18話 騎士団の夜間訓練

 黒蝶が消えた後も、リリアはしばらく眠れなかった。


 ――次は、あなたの夢を食べに行く。


 甘く焦げた声が、耳の奥に残っている。


 孤児院の子どもたちは、香りの護りを部屋に張った後、少しずつ眠りに落ちていった。

 ミナも最後までリリアの袖を掴んでいたが、ルゥが枕元で丸くなると、ようやく目を閉じた。


 小さな寝息が聞こえた時、リリアは胸の奥から力が抜けるようだった。


 守れた。


 でも、狙われた。


 子どもたちではなく、今度は自分が。


 部屋を出ると、廊下にはノアが立っていた。


 黒い騎士服のまま、腕を組んで壁に背を預けている。

 まるでリリアが出てくるのを待っていたようだった。


「終わったか」


「はい。朝までは、香りの膜が持つと思います。ルゥもいてくれるので」


 リリアは孤児院の扉をそっと振り返る。


 中からは、子どもたちの穏やかな呼吸が聞こえていた。


 黒蝶の香りは、もうない。


 けれど完全に安心はできない。


「リリア」


 ノアの声が、静かに廊下へ落ちた。


「君の部屋にも護りを張る」


「私の部屋にも、ですか?」


「あの蝶は君を名指しした」


 ノアの表情は硬かった。


「今夜、君を一人で眠らせるのは危険だ」


 その言葉に、リリアの頬がかすかに熱くなる。


 意味は分かっている。

 ノアは純粋に安全の話をしている。


 それなのに、“一人で眠らせるのは危険”という言い方に、少しだけ心臓が変な音を立てた。


「だ、大丈夫です。自分の部屋にも、白露草と銀葉ミントで護りを作ります」


「それだけでは足りないかもしれない」


「でも、ノア様も休まないと」


 リリアがそう言うと、ノアは一瞬だけ目を細めた。


「今、私の心配をしている場合か」


「しています」


 リリアは思ったよりはっきり答えていた。


「ノア様はすぐに自分のことを後回しにします。昨日眠れたからといって、今までの疲れが全部消えたわけではありません」


「君に言われるとは思わなかった」


「私も、自分が言うとは思いませんでした」


 そう返すと、ノアは少しだけ口元を緩めた。


 ほんの一瞬。


 けれど、その笑みを見ると、リリアの胸はなぜか温かくなる。


「なら、互いに無理をしないための提案をする」


「提案?」


「夜間訓練場へ来てほしい」


 リリアは瞬きをした。


「訓練場、ですか?」


「ああ。黒蝶が夢に入り込むなら、眠る前に君自身の護りを強める必要がある。香りだけでなく、危険を感じた時にどう動くかも知っておいた方がいい」


「私が……戦うということですか?」


「剣を持てという意味ではない」


 ノアは首を横に振った。


「逃げ方、呼び方、立ち位置。それだけでも違う。君は危険に気づくのが早い。だが、気づいた後に自分を守る動きが遅い」


 あまりにも的確で、リリアは言葉に詰まった。


 確かにそうだ。


 子狼を助けた時も。

 井戸の前でも。

 孤児院の扉の前でも。


 香りに気づくと、ついそちらへ意識が向いてしまう。

 自分の手首の痛みや、足元の危険は後回しになる。


「……分かりました」


 リリアは小さく頷いた。


「教えてください」


 ノアは少しだけ驚いたようだった。


「嫌がるかと思った」


「怖いです」


 リリアは正直に言った。


「でも、守りたいものが増えました。ミナちゃんたちも、薬草園の芽も、ルゥも。ノア様や騎士団の皆さんにも、何度も助けていただきました」


 胸元で手を握る。


「だから、私も少しは自分を守れるようになりたいです。守られるだけでなく、ちゃんと立っていたいので」


 ノアは黙ってリリアを見ていた。


 灰色の瞳は静かだったが、どこか柔らかい。


「いい答えだ」


 その一言に、リリアの胸がじんわり熱くなった。


 夜間訓練場は、古城の中庭の奥にあった。


 石壁に囲まれた広い場所で、昼間は騎士たちが剣や槍の稽古をしているらしい。

 夜は松明が数本だけ灯り、地面には月明かりが薄く落ちていた。


 すでにカイルと数人の騎士が待っていた。


「リリアさん、本当に来たんですね」


「はい。よろしくお願いします」


「いやあ、団長が誰かに夜間訓練をつけるって聞いて、皆そわそわしてます」


「カイル」


「はい、黙ります」


 ノアが短く言うと、カイルは笑って一歩下がった。


 リリアは少し緊張しながら訓練場の中央へ進む。


 夜の地面は冷たい。

 松明の匂いと、革の匂い。

 騎士たちの汗。

 そして、遠く薬草園から流れてくる白露草の微かな香り。


 ここは戦う場所だ。


 けれど、不思議と怖いだけではなかった。


 ノアがリリアの前に立つ。


「まず、危険を感じたら一歩下がる」


「一歩、ですか」


「ああ。君は危険な香りを感じると、確認するために前へ出る癖がある」


「……あります」


「それをやめる。感じたら、まず下がる。確認はその後だ」


 言われてみれば、まさにその通りだった。


 神殿では、異変に気づいても誰も信じてくれなかった。

 だから、自分で確認しなければと思っていた。


 前へ出て、香りを嗅ぎ、触れ、確かめる。


 でも今は違う。


 周りに伝えれば、動いてくれる人がいる。


「はい」


 リリアは頷いた。


「感じたら、まず下がる」


「次に、声を出す」


「声」


「君は一人で抱えようとする。黒い根を見つけた時も、井戸の前でも、最初に自分の中で処理しようとしていた」


 リリアは少し俯いた。


「昔から……そうしていたので」


「ここでは変えろ」


 ノアの声は厳しい。


 けれど、責めている響きではない。


「君が異変を感じたら、すぐに言え。分からなくてもいい。“嫌な香りがする”で十分だ」


「そんな曖昧でも?」


「十分だ。君の曖昧は、我々にとって警鐘になる」


 警鐘。


 それは、リリアの感覚を信じてくれている言葉だった。


「分かりました」


「では試す」


 ノアはカイルへ視線を向けた。


 カイルが小さな布袋を取り出す。


「これは?」


「ガレスから預かった薬草袋です。安全なものだけ入ってます。香り当てと、反応訓練用ですね」


 カイルは布袋を三つ、木箱の上に置いた。


 それぞれに違う香りが入っているらしい。


 ノアが言う。


「一つだけ、リリアが“嫌だ”と感じる香りに近い配合にしてある。危険ではないが、焦げた香りを少し混ぜている」


 リリアは木箱の前に立った。


 三つの袋。


 一つ目は白露草と蜜根。

 柔らかく、甘い。


 二つ目は銀葉ミントと月桂花。

 清涼で穏やか。


 三つ目。


 指先で袋に触れる前に、胸の奥がざわついた。


 焦げた花のような、ほんの薄い匂い。


 本物の黒蝶ほど強くはない。

 でも、似ている。


 リリアは反射的に前へ屈みかけた。


「下がれ」


 ノアの声。


 リリアははっとして、一歩下がった。


 それから声を出す。


「三つ目です。焦げた香りがあります」


「よし」


 ノアが頷く。


「今のが基本だ。感じる。下がる。声を出す」


 たったそれだけ。


 けれど、リリアには難しかった。


 何度も練習するうちに、自分が無意識に前へ出ようとしているのが分かる。

 確認しなければ。

 自分で何とかしなければ。


 その癖が、身体に染みついていた。


 ノアはそのたびに短く止める。


「下がれ」

「声」

「一人で触るな」

「周囲を見る」

「リリア、息をしろ」


 最後の一言で、カイルが吹き出しそうになったが、ノアの視線で黙った。


 訓練は厳しかった。


 でも、怖くはなかった。


 失敗しても怒鳴られない。

 馬鹿にされない。

 ただ、もう一度と言われる。


 何度目かの訓練で、リリアは焦げた香りを感じた瞬間、自然に一歩下がれた。


「焦げた香りです。右側、木箱の下」


 声も出た。


 カイルが木箱を開ける。


 中には、焦げ香を少し混ぜた布袋が隠されていた。


「正解です」


 カイルが嬉しそうに言う。


 リリアは思わず息を吐いた。


「できた……」


「ああ」


 ノアが静かに頷く。


「よくできた」


 その言葉に、リリアの胸がぱっと明るくなった。


 よくできた。


 子どものような褒め言葉なのに、どうしてこんなに嬉しいのだろう。


「ありがとうございます」


「礼ではない。評価だ」


「……はい」


 リリアは小さく笑った。


 その後は、実際に逃げる練習になった。


 騎士の一人がゆっくり近づく。

 リリアは香り袋を持ち、危険を感じた想定で下がり、声を出し、ノアの背後へ移動する。


 簡単そうに見えて、動くと難しい。


 外套の裾が足に絡む。

 鞄が揺れる。

 手首の痛みで一瞬動きが鈍る。


 そのたび、ノアは細かく直した。


「鞄は左に」

「外套の紐を短く」

「香炉石はすぐ取れる位置に」

「君は右手を庇う癖がある。痛む時は最初から左で持て」


 リリアは必死に覚えた。


 戦うためではない。


 生き残るために。


 そして、守りたいもののそばへ戻るために。


 訓練が一段落した頃、夜風が強くなった。


 松明の火が揺れる。


 リリアは額の汗を拭った。


 思った以上に身体を動かしたせいで、足が少し震えている。


「今日はここまでだ」


 ノアが言った。


「はい。ありがとうございました」


 リリアが頭を下げようとすると、足元がふらついた。


「あっ」


 倒れるほどではない。

 そう思った瞬間、ノアの手がリリアの腕を支えた。


 近い。


 ノアの手は温かかった。


 リリアは慌てて顔を上げる。


「す、すみません」


「謝るな」


 いつもの言葉。


 けれど、今夜は距離が近すぎて、妙に胸が落ち着かない。


 ノアはリリアの腕を支えたまま、静かに言った。


「疲れたら言え」


「はい」


「痛む時も言え」


「はい」


「怖い時もだ」


 リリアは少しだけ言葉に詰まった。


 怖い時。


 そんなものまで、言っていいのだろうか。


 ノアはまっすぐリリアを見ていた。


「君が怖いと言えば、対処できる。黙っていれば、守るのが遅れる」


「……怖いと、言ってもいいのですか」


 自分の声が、思ったより幼く聞こえた。


 ノアの表情がわずかに変わる。


「当たり前だ」


 短い言葉。


 それなのに、リリアの胸の奥に深く沈んでいた何かが、少しだけほどけた。


 怖いと言ってもいい。


 助けてと言ってもいい。


 自分だけで抱えなくていい。


「……怖いです」


 リリアは小さく言った。


 ノアは黙って聞いていた。


「黒蝶が、私の夢を食べに来ると言いました。王都大神殿とも、地下の扉とも、全部繋がっている気がします。私の名前が、古い香炉に出た理由も分かりません」


 言葉にすると、胸が震えた。


「怖いです。でも、逃げたくはありません」


 ノアの手が、リリアの腕からそっと離れた。


 代わりに、彼は自分の手をリリアの前に差し出した。


 握れ、ということだろうか。


 リリアは少し迷った。


 けれど、ゆっくりとその手に自分の手を重ねる。


 大きく、硬い手だった。


 剣を握り続けてきた人の手。


 でも、リリアの手を包む力は、とても慎重だった。


「逃げなくていい」


 ノアは静かに言った。


「だが、一人で立とうとしすぎるな。君が倒れれば、守りたいものも守れない」


「はい」


「怖いなら、怖いと言え。私が聞く」


 リリアはノアを見上げた。


 松明の光が、彼の灰色の瞳に揺れている。


 胸の奥が、痛いくらい温かい。


「……ありがとうございます」


「また礼か」


「言いたいので」


 そう返すと、ノアはほんの少しだけ笑った。


 今度は、リリアにもはっきり分かる笑みだった。


 その瞬間、訓練場の入口でカイルがわざとらしく咳払いをした。


「えー、団長。そろそろ夜番交代の時間です」


 リリアは慌てて手を離した。


 ノアはいつもの無表情に戻り、カイルを見る。


「見ていたのか」


「いえ、月を見ていました」


「そうか」


「はい。今夜の月は大変きれいで」


「夜番を倍にする」


「すみませんでした」


 リリアは頬を赤くしたまま、思わず笑ってしまった。


 その笑い声に、ノアも少しだけ目元を和らげる。


 夜間訓練は終わった。


 けれどリリアの中には、新しい感覚が残っていた。


 危険を感じたら下がる。

 声を出す。

 一人で抱えない。

 怖いと言っていい。


 それは、香りの調合よりずっと難しい。


 でも、必要なことだった。


 自室へ戻る前、リリアは孤児院へ寄った。


 子どもたちは眠っている。

 ルゥは入口で丸くなり、リリアを見ると片目を開けた。


「大丈夫?」


 リリアが小声で尋ねると、ルゥは静かに尻尾を一度だけ動かした。


 問題ない、ということらしい。


 リリアは扉の前に白露草を一枚追加で置き、そっと香りを整えた。


「おやすみ、ルゥ。みんなをお願いね」


 ルゥは得意げに鼻を鳴らした。


 自室へ戻ったリリアは、自分の扉にも香りの膜を張った。


 白露草。

 銀葉ミント。

 月桂花をほんの少し。


 そして、香炉石を枕元に置く。


 ベッドに入ると、身体は疲れていた。

 けれど心は、昨夜より少しだけ落ち着いている。


 怖い。


 それは変わらない。


 でも、怖いと言ってもいいのだと知った。


 その夜、リリアは夢を見た。


 白い薬草園。


 月の光。


 大きな白銀の神獣。


 そして、地下香炉の前に立つ、顔の見えない女性。


 女性はリリアに背を向けたまま、静かに言った。


 ――香律師は、香りを整える者。


 声は優しい。


 けれど、その奥に深い悲しみがあった。


 ――けれど、決して忘れてはいけない。


 白い薬草園の端に、黒い蝶が一匹止まる。


 女性は振り返らないまま、続けた。


 ――最も腐りやすい香りは、人の願い。


 黒蝶の羽が、ゆっくり開いた。


 その羽に、王都大神殿の紋章が浮かんでいる。


 リリアは夢の中で息を呑んだ。


 蝶がこちらを見た。


 そして、甘く焦げた声で囁いた。


 ――見つけた。


 リリアは目を覚ました。


 枕元の香炉石が、淡く光っている。


 扉に張った香りの膜は破れていない。


 けれど窓の外。


 月明かりの下、黒い羽が一枚、音もなく舞い落ちた。

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