第19話 黒羽の朝
窓の外で、黒い羽が一枚、月明かりの中を舞っていた。
音もなく。
けれど確かに、そこにある。
リリアはベッドの上で息を止めた。
夢の中で聞いた声が、まだ耳に残っている。
――見つけた。
黒蝶の甘く焦げた声。
窓の向こうの羽は、まるでその言葉の続きのように、ゆっくりと落ちていく。
以前のリリアなら、きっと窓へ駆け寄っていた。
何の香りか確かめなければ。
危険かどうか、自分で見なければ。
そう思って、手を伸ばしていた。
けれど今、リリアの頭の中にノアの声が響いた。
危険を感じたら、一歩下がる。
声を出す。
一人で触るな。
リリアは震える息を吸った。
窓へ近づきかけた足を止める。
一歩、下がる。
そして、扉の方へ向かって声を出した。
「誰か、来てください!」
声は少し震えた。
でも、出せた。
廊下にいた夜番の騎士がすぐに反応する。
「リリアさん?」
「窓の外に黒い羽があります。触らないでください。嫌な香りがします」
言い終えた瞬間、自分で少し驚いた。
伝えられた。
曖昧な感覚を、曖昧なまま、助けを求める言葉にできた。
騎士の表情が一気に引き締まる。
「団長を呼びます」
その返事が、こんなにも頼もしいものだと知らなかった。
リリアは扉のそばで香炉石を握り、窓から距離を取ったまま待つ。
黒い羽は窓枠の外に引っかかっていた。
部屋の中へ入ってきてはいない。
だが、窓に張った白露草の香りの膜が、そこだけ薄く黒ずんでいる。
ぱた。
かすかな羽音がした気がした。
リリアの手首の呪痕が、じくりと痛む。
怖い。
そう思った。
だから、今度はちゃんと口にした。
「怖いです」
小さな声だった。
けれど、自分の耳には確かに届いた。
怖いと言ってもいい。
昨日、ノアがそう言ってくれた。
その言葉にしがみつくように、リリアは香炉石を握りしめる。
間もなく、廊下の足音が近づいてきた。
「リリア」
ノアだった。
黒い外套を羽織り、剣を帯びている。
眠っていたはずなのに、すでに目は完全に覚めていた。
その後ろにはカイルとガレス、そして小さく唸るルゥもいる。
ルゥは孤児院から駆けつけてきたのだろう。
額の月の紋が淡く光っていた。
「無事か」
「はい。触っていません。窓の外です」
リリアが答えると、ノアはわずかに頷いた。
「よく呼んだ」
その一言で、胸の奥の緊張が少しだけほどけた。
ノアは窓へ近づいた。
しかし、すぐには開けない。
「どんな香りだ」
問われて、リリアは距離を取ったまま慎重に息を吸った。
白露草の膜越しに、薄く流れ込む臭い。
焦げた花。
濁った聖香。
そして、湿った紙のような匂い。
「王都大神殿の書状に仕込まれていた黒蝶と似ています。でも、少し違います。これは……伝言のような感じです」
「伝言?」
「はい。誰かの意志が残っています。中へ入るためというより、こちらに見せるために置かれたような」
ガレスが唸る。
「嫌な置き土産じゃな」
ノアは窓の外を見た。
黒い羽は、月明かりを吸い込むように暗い。
ルゥが低く吠えた。
その声に羽が震える。
羽の表面に、一瞬だけ王都大神殿の聖香炉紋章が浮かんだ。
カイルが息を呑む。
「また神殿の紋章……」
「ガレス、封じられるか」
「できる。ただし、直接触るな。白露草の布で包む」
「リリア、香りの膜を厚くできるか」
「はい」
リリアは鞄から白露草と銀葉ミントを取り出した。
昨日の訓練通り、窓へ近づきすぎない。
ノアの斜め後ろに立つ。
手元を確認しながら、香りを広げる。
白露草の澄んだ朝。
銀葉ミントの青い風。
黒い羽の周囲で、薄く黒ずんでいた香りの膜が白く戻っていく。
ガレスが白露草を染み込ませた布を長い鉗子で挟み、窓の外から羽を包んだ。
その瞬間、羽が震えた。
ぱた、ぱた、と小さく羽ばたく。
布の中から、甘く焦げた声が漏れた。
――香律師リリア。
リリアの肩が震えた。
ノアがすぐに前へ出る。
「耳を貸すな」
その声に、リリアは頷いた。
黒い羽は布の中でさらに震える。
――聖なる香りは、願いで腐る。
リリアは息を呑んだ。
夢で聞いた言葉と同じ。
最も腐りやすい香りは、人の願い。
羽の声は続く。
――欲しい。認められたい。奪いたい。選ばれたい。愛されたい。
声が重なっていく。
セシリアの声。
エルヴィンの声。
神官長マルドの声。
知らない貴族たちの声。
いくつもの願いが、甘く濁って混ざっている。
リリアは胸が苦しくなった。
願い。
それ自体は悪いものではないはずだ。
誰かに認められたい。
愛されたい。
選ばれたい。
リリアにも、そう願ったことはある。
神殿で、ただ一度でいいから自分の言葉を信じてほしいと思った。
エルヴィンに、婚約者として見てほしいと思った。
義妹の陰に隠れず、自分の仕事を認めてほしいと思った。
それも、腐るのだろうか。
リリアの表情を見て、ノアが静かに言った。
「リリア」
「はい」
「願うことと、奪うことは違う」
リリアは目を見開いた。
ノアは黒い羽から目を離さないまま続ける。
「願いがあるから腐るのではない。願いのために、他人を踏みつける時に腐る」
その言葉は、胸の中にまっすぐ落ちた。
リリアは香炉石を握る手に力を込める。
「……はい」
怖さが少し、形を変えた。
自分の願いまで黒くなるわけではない。
そう思えた。
黒い羽は最後に、一段低い声を発した。
――王都が、来る。
布の中で羽が崩れた。
黒い灰になり、白露草の布に染み込んでいく。
それきり、声は消えた。
部屋に残ったのは、白露草と銀葉ミントの香り。
そして、わずかな焦げた聖香の臭いだけだった。
「王都が来る……」
カイルが呟く。
ノアは表情を変えなかった。
「来るだろうな」
「団長、どうしますか」
「準備する」
短い返事だった。
けれど、その場にいた全員の背筋が伸びた。
リリアは布に包まれた黒い灰を見つめる。
王都が来る。
大神殿が、セシリアが、エルヴィンが。
その可能性を考えただけで、胸がざわつく。
でも、以前のように身体がすくんで動けなくなることはなかった。
怖い。
けれど、一人ではない。
リリアは小さく息を吸った。
「私も、準備します」
ノアがリリアを見る。
「何をする」
「記録をまとめます。大神殿からの書状、黒蝶、黒い羽、井戸、薬草園、地下香炉。全部繋がっているなら、私の感覚も含めて整理しておいた方がいいと思います」
「無理はするな」
「座ってします」
「眠れ」
「朝になったら、します」
リリアがそう言うと、ノアは数秒だけ黙った。
「分かった。朝になったらだ」
きちんと釘を刺され、リリアは少しだけ笑った。
「はい」
その後、リリアの部屋には追加の護りが張られた。
白露草と銀葉ミントに、ルゥの月光を重ねる。
ルゥは窓辺で一度だけ高く鳴き、黒い羽が引っかかっていた場所へ鼻を近づけた。
そして、ぷいと顔を背ける。
どうやら相当嫌な匂いだったらしい。
「ルゥ、ありがとう」
リリアが頭を撫でると、ルゥは当然という顔で胸を張った。
ノアは扉の前に立ち、静かに言った。
「夜番を増やす。何かあれば、すぐ呼べ」
「はい」
「怖ければ、それも言え」
リリアは少しだけ目を伏せた。
「……今も少し怖いです」
ノアの表情が柔らかくなる。
「分かった」
それだけだった。
けれど、リリアには十分だった。
怖いと言った。
受け止めてもらえた。
その事実が、眠るための香草茶よりも心を落ち着かせてくれる。
その夜、リリアはもう夢を見なかった。
朝。
レーヴェン古城の食堂には、いつもより少し緊張した空気が流れていた。
騎士たちは普段通り朝食を取っているが、声が低い。
城門の見張りが増え、伝令が何度も出入りしている。
それでも、厨房からは薬草パンの香りが漂っていた。
香ばしい黒麦。
蜜根の甘さ。
銀葉ミントの清涼感。
不安な朝でも、食事は必要だ。
リリアはその香りに少し救われながら、食堂の隅で薬草帳を開いていた。
隣にはガレス。
向かいにはアリア。
ノアは少し離れた卓でカイルと騎士団の配置を確認している。
「黒羽が残した言葉は、夢の中の声と一致しているのね」
アリアが確認する。
「はい。“聖なる香りは、人の欲で腐る”と、“最も腐りやすい香りは、人の願い”。少し言い回しは違いますが、同じ意味だと思います」
「欲と願い、か」
アリアは腕を組む。
「商売でもよく見るわ。欲があるから商いは動く。でも、欲だけになるとすぐ腐る」
「商売も、ですか」
「ええ。高く売りたい、認められたい、大きくしたい。それ自体は悪くない。でも、嘘を混ぜたり、人を騙したり、誰かの成果を奪ったりすれば、商売は腐る」
リリアはペンを止めた。
誰かの成果を奪う。
セシリアの顔が浮かぶ。
聖香師見習いとして褒められていた義妹。
その陰で、リリアはずっと香りを整えていた。
セシリアの願いは、最初から腐っていたのだろうか。
それとも、どこかで腐ってしまったのだろうか。
「リリアさん」
アリアが穏やかに言う。
「あなたが全部背負うことではないわよ」
リリアははっと顔を上げた。
どうして分かったのだろう。
アリアは少し笑う。
「顔に出ていたわ」
「すみません」
「謝らない」
アリアはさらりと言った。
「王都の誰かが腐った願いを持っていたとしても、それはその人の責任よ。あなたがもっと早く気づけなかったからではない」
ガレスも鼻を鳴らした。
「そもそも気づいて言っておったのに、聞かんかったのは神殿の連中じゃ」
リリアは薬草帳の端を指で押さえた。
「……はい」
少しずつだ。
何度も言ってもらいながら、少しずつ覚えていく。
自分がすべて悪かったわけではない。
自分が全部直さなければいけないわけでもない。
「それで、地下香炉の灰の分析じゃが」
ガレスは小瓶を取り出した。
昨日、地下香炉から持ち帰った古い灰だ。
「白露草、銀葉ミント、月桂花、聖月草と思われる香り。それにもう一つ、わしには分からん薬草が混じっておる」
「分からない薬草……」
「古い記録を引っ張り出せば何か出るかもしれん。だが、香り自体はリリアが嗅いだ方が早いかもしれん」
リリアは小瓶を受け取った。
慎重に蓋を開け、ほんの少し香りを確かめる。
古い灰。
澄んだ聖香。
月の光のような冷たさ。
そして、奥にあるひとつの香り。
それは薬草というより、雨に濡れた石のようだった。
冷たく、清らかで、深い。
「水に関係する香りです」
「水?」
「はい。でも井戸水ではありません。もっと澄んだ……地下の清水のような」
ノアが卓へ近づいてきた。
「地下清水なら、古城の古い水路に記録がある」
「水路ですか」
「ああ。三十年前の崩落で使われなくなった。薬草園の下を通り、地下礼拝堂のさらに奥へ続いていたらしい」
地下礼拝堂の奥。
黒い扉の向こう。
リリアの手首が、かすかに痛んだ。
「聖月草を育てるには、その水が必要かもしれません」
ガレスが頷く。
「月光、守護獣の気配、澄んだ水。古い薬草らしい面倒な条件じゃな」
アリアはすぐに紙へ書き留める。
「水路調査が必要ね。ただ、今は王都への対応が先かしら」
その言葉とほぼ同時に、食堂の扉が開いた。
城門の騎士が駆け込んでくる。
「団長!」
食堂が静まる。
ノアは振り返った。
「どうした」
「南街道に、王都大神殿の紋章を掲げた馬車を確認しました。護衛騎士を伴っています」
リリアの胸が、どくりと鳴った。
来た。
黒羽の言葉通りに。
騎士は続ける。
「先触れの名は、神官騎士エルヴィン。それから、聖香師見習いセシリア・エルムも同行しているとのことです」
食堂の空気が、冷たく張りつめた。
エルヴィン。
セシリア。
その名を聞いた瞬間、過去の白い神殿の香りがリリアの胸に蘇る。
冷たい視線。
嘲笑。
婚約破棄。
役立たずという言葉。
けれど、リリアは逃げなかった。
膝の上の手を一度握りしめる。
そして、昨日教わった通りに息を吸った。
怖い。
でも、声に出せる。
「……怖いです」
小さく呟くと、隣のガレスがふんと鼻を鳴らした。
「怖くて当然じゃ」
アリアがリリアの手元の薬草帳を軽く叩く。
「でも、あなたには記録があるわ」
ノアがリリアの前へ歩いてきた。
「リリア」
「はい」
「君を引き渡すつもりはない」
短く、揺るぎない声。
リリアは顔を上げた。
ノアの灰色の瞳は、まっすぐだった。
「だが、会うかどうかは君が決めていい。会いたくないなら、私が対応する」
また、選ばせてくれる。
リリアは胸元の香炉石に触れた。
神殿から追い出された自分。
古城で仕事を得た自分。
黒蝶に名を呼ばれた自分。
どれも、同じリリアだ。
もう、誰かの後ろに隠れて消えるだけの香り係ではいたくない。
「会います」
声は震えていた。
でも、はっきり出た。
「ただし、一人では会いません。ノア様と、皆さんに同席していただきたいです」
ノアの目元が、わずかに和らいだ。
「当然だ」
カイルが剣の柄に手を置き、笑った。
「古城総出でお迎えですね」
アリアも微笑む。
「商会代表として、私も見届けるわ。王都の方々に、辺境の契約書というものを見せて差し上げましょう」
ガレスは薬草瓶を鞄へ詰めながら言った。
「わしは医薬師として、聖香汚染の証拠を並べてやる」
リリアは薬草帳を閉じた。
胸はまだ怖い。
手も少し震えている。
それでも、立てる。
声を出せる。
助けを求められる。
ノアが静かに告げた。
「王都大神殿の使節を迎える。リリア・エルムは、レーヴェン古城の正式な雇用者として同席する」
その言葉に、騎士たちが一斉に頷いた。
窓の外では、朝の光が薬草園へ差し込んでいる。
小さな聖月草の芽が、木箱の中で静かに揺れていた。
まるで、リリアの新しい一歩を見守るように。




