第20話 王都使節と辺境の契約書
王都大神殿の馬車は、昼前にレーヴェン古城へ到着した。
白地に金の聖香炉紋章。
磨かれた車輪。
護衛騎士の白い外套。
辺境の黒い石壁と、どこか湿った森の匂いの中で、それはひどく浮いて見えた。
城門の上から見下ろしていたカイルが、低く呟く。
「うわあ……王都感がすごいですね」
「余計なことを言うな」
ノアが短く返す。
「すみません。でも、ほんとに白いですね。眩しいくらいです」
リリアは城門の内側で、胸元の香炉石を握っていた。
白い馬車を見ただけで、身体が少し強張る。
王都の神殿。
白い廊下。
冷たい視線。
祝福式の大広間。
それらが匂いと一緒に蘇る。
甘く整えられた聖香。
その奥に隠された、焦げた花の臭い。
怖い。
けれど、リリアは息を吸った。
感じたら、下がる。
声を出す。
一人で抱えない。
隣にはノアがいる。
後ろにはガレスとアリアがいる。
少し離れた場所には騎士団が控えている。
ルゥはリリアの足元で、白銀の毛を逆立てていた。
「リリア」
ノアが静かに声をかけた。
「無理なら、今からでも下がっていい」
リリアは首を横に振った。
「会います」
声は少し震えた。
でも、ちゃんと出た。
「ただ、怖いです」
「分かった」
ノアは短く頷く。
「怖いまま、ここにいればいい」
その言葉に、リリアの胸が少しだけ落ち着いた。
怖くなくならなくていい。
怖いまま立っていていい。
馬車の扉が開いた。
最初に降りてきたのは、白い神官騎士服のエルヴィンだった。
整った金髪。
真面目そうな青い瞳。
かつて、リリアの婚約者だった人。
彼を見た瞬間、リリアの手が小さく震えた。
けれど、ノアは何も言わず、ただ半歩だけ前に立った。
その後ろから、セシリアが降りてくる。
淡い桃色のドレスに、白い外套。
王都で見た時と同じように美しく装っていたが、顔色は少し悪かった。
それでもセシリアは、リリアを見つけた瞬間、いつものように目を潤ませた。
「リリアお姉さま……!」
その声に、リリアの胸がぎゅっと縮む。
神殿では、その声の後にいつも誰かがリリアを責めた。
お姉さまが怖い。
お姉さまが睨んだ。
お姉さまが私の聖香を妬んでいる。
けれど、ここは大神殿ではない。
レーヴェン古城だ。
セシリアは一歩前に出ようとした。
その瞬間、ルゥが低く唸った。
セシリアの足が止まる。
「きゃ……っ」
エルヴィンが庇うように前へ出た。
「その獣を下げてください。セシリアが怯えています」
ノアの声は冷たかった。
「黒森の守護獣だ。獣呼ばわりは慎め」
エルヴィンの眉が動く。
だが、すぐに姿勢を正した。
「失礼しました。私は王都大神殿所属、神官騎士エルヴィン・ラウエル。本日は大神殿からの正式な命により、リリア・エルムの身柄引き渡しを求めに参りました」
身柄引き渡し。
その言葉に、リリアの手首の呪痕がじくりと痛む。
セシリアが悲しげに続けた。
「お姉さま、どうして逃げてしまわれたの? 皆、心配しているのです。神殿の聖香が乱れてしまって……お姉さまが戻ってくだされば、きっと誤解も解けますわ」
心配。
誤解。
その言葉が、あまりにも白々しく響いた。
リリアは口を開きかけたが、ノアが先に言った。
「リリア・エルムは逃亡者ではない。レーヴェン古城の正式な雇用者だ」
アリアがすっと前へ出る。
その手には、昨日作成されたばかりの契約書があった。
「こちらが雇用契約書です。薬草園管理補佐、および香律調査協力者として、辺境伯家の保護下にあります」
セシリアが目を見開いた。
「雇用……?」
エルヴィンも驚いたようにリリアを見る。
「リリアが、ここで働いている?」
その声音には、信じられないという響きがあった。
リリアの胸に、小さな痛みが走る。
彼にとって、自分はどこまでも神殿の下働きでしかなかったのだろう。
ノアは淡々と言った。
「彼女は黒森の守護獣を救い、古城の呪香被害を軽減し、孤児院の悪夢を退けた。井戸、薬草園、地下香炉の調査にも不可欠だ」
「地下香炉……?」
エルヴィンが眉をひそめる。
セシリアはそれよりも、別の言葉に反応した。
「香律調査協力者、ですって?」
その声に、かすかな棘が混じる。
「お姉さまが? 香律?」
リリアは胸元の香炉石を握った。
昔なら、ここで俯いていただろう。
言い返せず、セシリアの涙とエルヴィンの視線に押し潰されていた。
でも今は違う。
怖いまま、声を出す。
「私にも、まだ詳しいことは分かりません」
リリアは静かに言った。
「でも、ここでは私の感じた香りを記録し、調査に役立ててくださっています」
セシリアの目が揺れた。
「感じた香り……それは、昔からお姉さまが言っていた思い込みではありませんの?」
ガレスが盛大に鼻を鳴らした。
「思い込みで守護獣の呪縛がほどけるなら、世の医薬師は苦労せんわ」
アリアもにこりと笑う。
「思い込みで騎士団の不眠が軽くなり、香草茶と薬草パンが商品化候補になるなら、ぜひ商会として正式に買い取りたいくらいですわね」
セシリアの頬が引きつった。
「商品化……?」
リリアは、セシリアが自分を見ているのを感じた。
以前のような憐れみではない。
怒りと、焦りと、理解できないものを見る目。
エルヴィンは契約書へ視線を落とした。
「しかし、大神殿はリリアに祝福式妨害と聖香汚染の疑いをかけています。重要参考人として王都へ戻ってもらう必要がある」
「疑い、ですね」
アリアの声が少し鋭くなる。
「証拠は?」
エルヴィンは一瞬詰まった。
「調査中です」
「証拠もなく、辺境伯家の雇用者を連れて行くと?」
「大神殿の命です」
「ここは大神殿の薬草園ではありません。辺境伯領です」
アリアの笑みは消えなかった。
だが、その目は商人というより、交渉人のものだった。
「正式な令状もなく、雇用契約を無視して身柄を要求するのは、王都では普通なのかしら」
エルヴィンの顔が硬くなる。
「我々は争いに来たわけではありません」
「でしたら、まずは“要求”ではなく“説明”から始めるべきですね」
ノアが静かに言った。
「大神殿の書状には呪いが仕込まれていた。黒蝶が発生し、リリアを襲った。こちらには目撃者がいる」
エルヴィンの表情が変わった。
「書状に呪い?」
「知らないのか」
「私は……その件は聞いていません」
エルヴィンはセシリアを見た。
セシリアも首を振る。
「私も知りませんわ。そんなの、お姉さまが――」
「私が何をしたと言うのですか」
リリアの声が、思ったよりはっきり響いた。
全員の視線が、リリアへ向く。
胸が震える。
けれど、もう止まらなかった。
「祝福式の時も、私は言いました。その聖香は危険です、と」
エルヴィンの目が揺れた。
「リリア……」
「あの時、私の言葉を聞いてくださいましたか?」
リリアはエルヴィンを見た。
まっすぐに。
かつて婚約者だった人を。
「私は妨害したかったのではありません。聖香から焦げた花の匂いがして、黒い煙が出る前に止めたかっただけです」
言葉にするたび、胸の奥に溜まっていたものが少しずつ形を持つ。
「でも、誰も聞いてくれませんでした。セシリアは泣いて、エルヴィン様は私を責めて、神官長様は私を黙らせました」
セシリアの顔がこわばる。
「お姉さま、そんな言い方……」
「違いますか?」
リリアはセシリアを見た。
怒鳴らない。
責め立てない。
ただ、確かめるように。
「私は、何度も白露草の黒ずみを記録しました。聖水瓶の濁りも、聖香庫の湿度も、香炉の黒い膜も。私の薬草帳には残っています」
リリアは鞄から薬草帳を取り出した。
古く、角の擦れた帳面。
セシリアが汚した跡も、まだ残っている。
でも今は、それが恥ずかしくなかった。
これはリリアの仕事の記録だ。
「神殿では、大げさだと笑われました。でもここでは、記録として扱っていただいています」
エルヴィンの視線が薬草帳に釘づけになる。
「それを……見せてほしい」
リリアの手が、反射的に帳面を抱きしめた。
神殿の人に見せるのが怖い。
また奪われるかもしれない。
破かれるかもしれない。
都合よく使われるかもしれない。
その瞬間、ノアが静かに言った。
「原本は渡さない。必要なら写しをこちらで作成する」
リリアは息を吐いた。
守ってもらえた。
そして、それを自分からも言わなければと思った。
「この薬草帳は、渡せません」
リリアは言った。
「母の形見で、私の記録です。必要な箇所は写しを作ります。でも、原本は私のものです」
エルヴィンは言葉を失ったようだった。
セシリアの顔には、焦りが浮かんでいる。
「でも、お姉さま。その帳面には神殿での記録があるのでしょう? それなら神殿のものではありませんの?」
その言葉に、ルゥが低く唸った。
リリアはゆっくり首を横に振る。
「違います。私が自分の手で、自分の時間に書いたものです」
「でも、神殿の薬草を――」
「神殿の仕事として必要なら、なぜ今まで誰も正式な記録として扱わなかったのですか?」
セシリアが息を呑む。
「なぜ、私の名前で残さなかったのですか?」
リリアの声は震えていた。
でも、止めなかった。
「なぜ、聖香の異変を指摘した時、妨害だと決めつけたのですか?」
「それは……」
「なぜ、私が調整した聖香が成功した時はセシリアの功績になって、失敗しそうになった時だけ私の責任になるのですか?」
沈黙が落ちた。
城門前に吹く風が、白い馬車の飾り布を揺らす。
セシリアの唇が震える。
「ひどいですわ、お姉さま。私、そんなつもりでは……」
涙が浮かぶ。
けれどリリアは、その涙の匂いを嗅いだ。
悲しみ。
焦り。
怒り。
そして、甘く濁った願い。
選ばれたい。
失いたくない。
認められたい。
その願いが、少し焦げている。
リリアは胸が痛んだ。
セシリアも、ただの悪意だけで動いているわけではないのかもしれない。
でも。
だからといって、リリアから奪っていい理由にはならない。
「セシリア」
リリアは初めて、義妹の名前を呼んだ。
セシリアが涙を浮かべたまま顔を上げる。
「私は、あなたの願いのために戻りません」
セシリアの瞳が大きく揺れた。
「……願い?」
「認められたいのなら、自分の香りを整えてください。私の記録や、私の手や、私の形見を使って整えたふりをしないで」
言い終えた瞬間、リリアの手が震えた。
怖かった。
でも、言えた。
ノアが横で何も言わずに立っている。
その沈黙が支えになった。
エルヴィンは長い間、リリアを見ていた。
その目に、初めて迷いではない何かが浮かぶ。
後悔に似たもの。
「リリア……君は、変わったな」
リリアは静かに答えた。
「ここで、変えていただきました」
エルヴィンの視線がノアへ向く。
ノアは揺るがない。
「彼女はここで働き、対価を受け取っている。大神殿の所有物ではない」
その言葉に、セシリアの顔がさらに青ざめた。
「給金まで……?」
アリアがさらりと言う。
「当然です。働きには対価を払うものですから」
セシリアは何かを言おうとした。
しかしその瞬間、彼女の胸元から小さな香り袋が落ちた。
白い布袋。
金の糸で聖香炉の紋章が刺繍されている。
地面に落ちた瞬間、リリアは息を呑んだ。
「触らないで!」
叫ぶと同時に、一歩下がった。
昨日の訓練通りに。
ノアが即座にセシリアとリリアの間へ入る。
ルゥが唸る。
香り袋から、白い煙が細く漏れていた。
最初は甘い月桂花。
次に、蜜根。
そしてその奥から、焦げた花の臭い。
セシリアは慌てて香り袋を拾おうとする。
「返して! それは神官長様からいただいた護りの聖香ですわ!」
「触るな!」
ノアの声が飛んだ。
セシリアの手が止まる。
香り袋の白い布が、じわじわと黒ずんでいく。
エルヴィンの顔から血の気が引いた。
「セシリア……それを、ずっと身につけていたのか」
「ええ。神官長様が、辺境の呪いから身を守るためにと……」
リリアは香りを確かめた。
胸がざわつく。
これは護りではない。
護っているふりをして、何かを隠している。
「その香り袋、セシリアの香りを濁らせています」
リリアは言った。
「たぶん、聖香を整えられない原因の一つです」
セシリアの目が見開かれる。
「嘘……」
「嘘ではありません」
ガレスが近づき、白露草を染み込ませた布で香り袋を包んだ。
布の中で、何かがぱたぱたと動く。
黒蝶。
まだ小さい。
けれど確かに、香り袋の中で羽ばたいている。
カイルが低く呟いた。
「護りどころか、呪いじゃないですか」
エルヴィンはセシリアを見る。
「神官長が、これを?」
「違います……そんなはずありませんわ。神官長様は私を守るために……」
セシリアの声が崩れていく。
リリアは、その香りを嗅いだ。
セシリアの中の願いが、今、恐怖で揺れている。
選ばれたい。
認められたい。
でも、利用されていたかもしれない。
その現実を受け止められず、香りが乱れている。
黒蝶はその乱れに反応し、布の中で激しく羽ばたいた。
ルゥが吠える。
月の光が走り、布の中の羽音が弱まった。
リリアは白露草を取り出し、そっと香りを重ねる。
「ほどけて」
黒蝶は小さな灰となり、布の中で崩れた。
残ったのは、黒く焦げた香粉だけ。
エルヴィンはそれを見つめ、拳を握りしめた。
「……我々は、何を持たされていたんだ」
その声には、動揺が滲んでいた。
セシリアは震えている。
リリアは彼女を見た。
怒りはまだある。
傷ついた記憶も消えない。
けれど同時に、胸の奥が痛んだ。
黒蝶は願いを食べる。
そして、願いを腐らせる。
セシリアも、もしかすると食べられている途中なのかもしれない。
ノアは冷静に告げた。
「王都大神殿の使節が、呪香を持ち込んだ。これは重大な問題だ」
エルヴィンは顔を上げる。
「我々は知らなかった」
「それを証明するのは、あなた方の責任だ」
アリアが契約書を抱えたまま言う。
「少なくとも、この状態でリリアさんの身柄引き渡しなど論外です」
ガレスも頷いた。
「まずはその呪香袋の出所を説明してもらおうかの」
エルヴィンはしばらく黙っていた。
そして、静かに頭を下げた。
「……一度、話し合いの場を設けていただきたい」
セシリアが驚いて彼を見る。
「エルヴィン様!?」
「セシリア、今は強引に連れ戻せる状況ではない」
「でも、リリアお姉さまが戻らなければ、私は……大神殿は……!」
そこで、セシリアは言葉を止めた。
リリアが戻らなければ、私は。
それが本音だった。
リリアは静かに言った。
「私は戻りません」
セシリアの瞳が揺れる。
「でも、神殿の聖香が本当に腐っているなら、原因を調べるための記録は共有します。写しだけですけれど」
「お姉さま……」
「あなたのためだけではありません。聖香で苦しむ人がいるなら、放っておきたくないからです」
それが、リリアの答えだった。
利用されるためには戻らない。
でも、苦しむ人を見捨てたいわけではない。
ノアはリリアを見た。
その目元が、ほんの少し和らぐ。
「では、応接室で話を聞く。武器は預かる。呪香袋の類もすべて提出してもらう」
エルヴィンは頷いた。
「分かりました」
セシリアはまだ震えていた。
ルゥは彼女をじっと見ている。
まるで、黒蝶に食われた願いの匂いを確かめているかのように。
その時、城門の外で白い馬車の一部がきしんだ。
リリアははっと振り返る。
馬車の車輪の下。
乾いた土の隙間から、黒い根が一本、ゆっくりと伸びていた。
その根は、香り袋から落ちた焦げた香粉へ向かっている。
そして、まるでそれを吸い込むように、黒く太くなった。
リリアの手首が鋭く痛む。
「ノア様」
声が震えた。
けれど、すぐに言えた。
「黒い根です。馬車の下に」
ノアの剣が抜かれる。
ルゥが吠える。
黒い根は、白い馬車の影から、レーヴェン古城の門の内側へ向かって這い始めた。
王都から来たものは、使節だけではなかった。




