第21話 白い馬車に這う黒根
黒い根が、白い馬車の影から這い出していた。
細く、濡れた紐のような根。
けれど土に触れるたび、じわりと太くなる。
香り袋から落ちた焦げた香粉を吸い込み、黒い根は脈を打つように震えた。
白い馬車。
金の聖香炉紋章。
王都大神殿の使節。
その清らかに見えるものの下から、呪いが伸びている。
リリアの手首に走る痛みが、鋭くなった。
「ノア様、あれは薬草園の根と同じです。でも……匂いが濃い」
リリアは一歩下がりながら声を出した。
昨日の訓練通りに。
「馬車の下から、焦げた聖香の匂いがします」
「全員、馬車から離れろ!」
ノアの声が城門前に響いた。
騎士たちが即座に動く。
王都の護衛騎士たちは一瞬反応が遅れた。
自分たちの馬車から呪いが出ているなど、理解できなかったのだろう。
「何を――」
護衛の一人が抗議しかけた時、黒い根が地面を跳ねた。
まるで鞭のように、近くにいた馬の脚へ伸びる。
馬が悲鳴を上げた。
「下がれ!」
カイルが飛び込み、鞘ごと根を弾く。
根は地面に叩きつけられたが、切れてはいない。
むしろ、弾かれた箇所から黒い煙のような匂いが立ちのぼる。
リリアは息を呑んだ。
「斬らないでください! 切ると匂いが散ります!」
ノアが剣を構えたまま、すぐに声を飛ばす。
「聞いたな。切断するな。押し返せ」
「了解!」
騎士たちは剣ではなく鞘や盾で根を押さえ始めた。
王都の護衛騎士たちも、ようやく異常を理解したのか馬車から距離を取る。
エルヴィンはセシリアを庇うように立っていた。
だが、その顔は青ざめている。
「馬車の下に、なぜ……」
セシリアは震えながら首を振った。
「知らない……私は何も知りませんわ。神官長様が、この馬車なら辺境の呪いを避けられると……」
「避けるどころか、連れてきておるではないか」
ガレスが吐き捨てるように言った。
黒い根は馬車の車輪に絡みつき、金の装飾をじわじわと黒く染めていく。
白い車体の底から、甘く焦げた聖香の匂いが濃くなった。
リリアは鼻と喉の奥が痛くなるのを感じる。
ただの呪いではない。
これは、何かを運ぶための根だ。
呪いを隠し、守り、ここまで持ち込むための。
「馬車の中に、何かあります」
リリアは言った。
「香りの核のようなものが」
ノアが振り返る。
「位置は」
「車体の中央。座席の下か、床下です。焦げた聖香がそこから出ています」
エルヴィンが険しい顔で馬車を見る。
「我々が乗ってきた馬車だ。中には大神殿の書状と、供物の聖香箱が……」
「聖香箱?」
リリアの胸がざわついた。
セシリアが震える声で言う。
「神官長様が、レーヴェン古城への礼として持たせてくださいました。辺境の呪いを清めるための、特別な聖香だと……」
アリアが冷えた声で呟く。
「礼品に呪いを仕込むとは、王都流のおもてなしは手が込んでいるわね」
ノアはすぐに判断した。
「馬車を城内へ入れるな。ここで封じる」
「はい!」
騎士たちが城門内側に展開する。
リリアは鞄を開いた。
白露草。
銀葉ミント。
月桂花。
それから、地下香炉の灰をほんの少し。
あの黒い根は甘い香りに寄る。
蜜根は使えない。
白露草と銀葉ミントで外側を押し返し、月桂花で馬を落ち着かせる。
地下香炉の灰は、境界を作るために使う。
ただし量は少ない。
無駄にはできない。
「ガレスさん、白露草を布に。できるだけ広く」
「分かった」
「アリアさん、王都の方たちを風上へ避難させてください。吸うと具合が悪くなります」
「任せて」
「カイルさん、馬を落ち着かせてください。月桂花を少し使います」
「了解です!」
言い終えて、リリアは一瞬だけ驚いた。
自分が指示を出している。
神殿では、誰かの後ろで小さく呟くことしかできなかったのに。
でも、今は皆が動いてくれる。
なら、伝えなければ。
「ノア様」
「なんだ」
「私は馬車の近くまで行きます。でも、触りません。香りの膜を張るだけです」
ノアは一瞬だけ眉を寄せた。
止められるかもしれない。
そう思った。
けれど、ノアは短く言った。
「私の後ろにいろ。近づくのは私が先だ」
「はい」
許してくれる。
守りながら、必要な場所へ立たせてくれる。
リリアは胸元の香炉石を握り、ノアの斜め後ろへ立った。
黒い根がこちらへ反応する。
ぞわりと地面を這い、リリアの足元を目指して伸びてくる。
ルゥが間に飛び込んだ。
額の月の紋が強く光る。
「ルゥ!」
黒い根はルゥの光に触れ、じゅうと音を立てて後退した。
だが、完全には逃げない。
馬車の下にある核から、次々と新しい根が生えてくる。
「多い……」
リリアは白露草を揉み、銀葉ミントを重ねた。
風向きを読む。
城門前は石畳で、土は少ない。
根は土の隙間を好むが、焦げた香粉が落ちた場所には石の上でも伸びている。
つまり、餌があれば進める。
「焦げた香粉を包んでください! 根の餌になります!」
ガレスがすぐに白露草布を投げる。
カイルがそれを盾で押さえ、黒い香粉を覆った。
根の動きが少し鈍る。
リリアはその隙に、白露草の香りを広げた。
「この香りは、あなたの道ではありません」
小さく呟く。
銀葉ミントの青い香りが、石畳の上を薄い膜のように流れる。
黒い根の先が、その膜に触れて止まった。
ルゥが高く吠える。
月光が重なり、膜が白く輝いた。
「押し返せる!」
カイルが声を上げる。
騎士たちは香りの膜の外側から盾で根を押し返した。
黒い根は暴れる。
馬車の車輪が軋む。
白い車体の底から、ぱたぱたと羽音が漏れる。
リリアはぞっとした。
「中に黒蝶もいます」
ノアが馬車の扉へ近づく。
「開ける」
「待ってください」
リリアは息を整えた。
扉の内側から、濃い呪香が漏れている。
いきなり開ければ、蝶が広がる。
「開ける前に、扉の周りを白露草で囲みます。開けた瞬間、ルゥの光を重ねてください」
ルゥが短く鳴いた。
任せろ、と言っているようだった。
ガレスが白露草の布を渡す。
リリアはノアの手元を見ながら、扉の周囲に香りを置いた。
白。
青。
月の光。
「お願いします」
ノアが馬車の扉を開けた。
瞬間、黒い蝶が飛び出した。
だが、扉を囲んでいた白露草の香りに触れ、動きが鈍る。
ルゥが吠えた。
銀の光が弾け、黒蝶の群れが灰になる。
それでも数匹が逃げようとする。
ノアの剣が走った。
刃そのものではなく、剣圧で蝶の進路を変え、香りの膜へ押し戻す。
黒蝶は次々と消えた。
リリアは馬車の中を覗き込む。
座席の下。
白い箱が置かれていた。
金の聖香炉紋章が刻まれた、大神殿の聖香箱。
その箱の蓋の隙間から、黒い根が伸びている。
まるで箱の中で何かが根を張っているようだった。
「これが核です」
リリアの声が震えた。
セシリアが遠くで呟く。
「それは……神官長様が、私に持っていけと……」
エルヴィンの顔が青くなる。
「特別な聖香だと言っていた」
「特別すぎるわね」
アリアの声は冷ややかだった。
ノアが聖香箱へ手を伸ばしかける。
リリアはすぐに言った。
「素手では駄目です」
「どうする」
「箱を開けずに、外側から封じます。中身を見たいですが……今開けるのは危険です」
中には、黒い根の種のようなものがある。
それをリリアは香りで感じていた。
ただし、今この場で暴けば、城門前に呪いが散る。
まず閉じる。
調べるのは、地下香炉か、薬草園の香りの輪の中で。
「地下香炉の灰を使います」
リリアは小瓶を取り出した。
ほんの少しだけ。
灰を白露草布へ落とす。
その瞬間、澄んだ古い聖香が広がった。
王都大神殿の華やかな香りではない。
静かで、深く、土地を整える香り。
黒い根がびくりと震えた。
まるで、恐れている。
「やっぱり、この香りを嫌がっています」
リリアは布をノアへ渡した。
「箱を包んでください。私は香りを保ちます」
「分かった」
ノアは慎重に聖香箱を布で包んだ。
黒い根が暴れ、彼の手首へ伸びる。
リリアは思わず前へ出そうになった。
しかし、ノアの声が飛ぶ。
「下がれ」
リリアははっとして止まる。
そして声を出した。
「右から根が来ます!」
カイルが盾で弾いた。
ルゥが月光で押さえる。
その間に、ノアは聖香箱を完全に包み込んだ。
地下香炉の灰が白く光り、箱から伸びていた黒い根が次々に干からびていく。
ぱきん。
ぱきん。
細い音を立てて、根が石畳の上で砕けた。
馬車に絡んでいた根も力を失い、黒い灰となって崩れていく。
城門前に、ようやく静けさが戻った。
残ったのは、白い馬車の底についた黒い染みと、焦げた聖香の臭い。
リリアは大きく息を吐いた。
膝から力が抜けそうになる。
しかし、倒れる前にルゥが足元へ体を寄せた。
小さな身体なのに、支えてくれているようだった。
「ありがとう、ルゥ」
リリアが撫でると、ルゥは少し得意げに鼻を鳴らした。
ノアは包んだ聖香箱を騎士へ預ける。
「隔離室へ。ガレスとリリアが確認するまで開けるな」
「はい!」
エルヴィンはその光景を呆然と見ていた。
白い馬車。
大神殿の聖香箱。
そこから伸びた黒い根。
言い逃れの余地は、あまりにも少ない。
「我々は……呪いを運ばされていたのか」
その声は、かすれていた。
セシリアはその場に座り込みそうになっていた。
「嘘……神官長様が、私を守るためにって……私が選ばれた聖香師だから、特別にって……」
リリアはセシリアを見た。
彼女の香りが乱れている。
甘く、焦げて、怯えている。
黒蝶が好む匂いだ。
このまま放っておけば、また何かに食われる。
嫌だった。
自分を傷つけた相手でも、目の前で呪いに呑まれるのを見るのは嫌だった。
「セシリア」
リリアは一歩近づいた。
ノアが視線だけで確認する。
大丈夫か、と。
リリアは頷いた。
ただし、距離は取ったまま。
「その香り袋を持たされてから、聖香の調合は乱れましたか?」
セシリアは顔を上げる。
「……分かりませんわ」
「では、いつから神殿の聖香が焦げるようになりましたか」
「祝福式の……少し前から。でも、神官長様は、辺境から流れてくる呪いの影響だと……」
「辺境?」
ノアの声が低くなる。
セシリアは唇を震わせた。
「レーヴェン古城の呪いが、王都の聖香にまで影響しているのだと。だから、お姉さまが辺境へ逃げたのも、呪いに呼ばれたからだと……」
カイルが思わず声を上げた。
「いやいや、逆でしょう。呪い持ってきたの、そっちじゃないですか」
誰も笑わなかった。
セシリアはさらに青ざめる。
エルヴィンは拳を強く握った。
「神官長は、最初から辺境に責任を負わせるつもりだったのか……?」
アリアが静かに言う。
「その可能性は高いわね。呪い入りの聖香箱を古城に持ち込ませる。もし古城で異変が起きれば、辺境の呪いの証拠にできる。リリアさんを連れ戻す理由にもなる」
ガレスが顔をしかめる。
「腐った筋書きじゃな」
リリアは包まれた聖香箱を見つめた。
黒い根は封じた。
でも、これはほんの一部だ。
本体は王都大神殿にある。
そして、地下香炉の奥に繋がっている。
「ノア様」
「なんだ」
「この箱の中身を調べれば、大神殿の呪香と古城の黒い根が繋がっている証拠になるかもしれません」
「ああ」
「でも、王都側にも証人が必要です」
リリアはエルヴィンとセシリアを見た。
二人とも、今はもう敵意より混乱の方が強い。
完全に信用できるわけではない。
けれど、彼らは呪いを運ばされた当事者だ。
「お二人にも、見届けていただきたいです」
セシリアが怯えたように肩を震わせる。
「私も……?」
「はい。あなたが持たされたものが何だったのか、見た方がいいと思います」
セシリアの瞳が揺れる。
リリアを憎む気持ち。
認めたくない気持ち。
神官長を信じたい気持ち。
そのすべてが香りになって乱れている。
けれど、リリアはもう彼女のために黙って背負うつもりはなかった。
「私はあなたの代わりに罪を背負いません。でも、あなたが本当に利用されていたのなら、それを確かめる手伝いはします」
セシリアは何も言えなかった。
エルヴィンが深く息を吐く。
「……頼む。私たちにも、見届けさせてほしい」
ノアはしばらく彼を見ていた。
そして言った。
「武器は預かる。行動は制限する。リリアに近づく時は、私の許可を取れ」
「分かりました」
「セシリア・エルムも同様だ」
セシリアは唇を噛みながらも、小さく頷いた。
その時、ルゥが低く鳴いた。
皆の視線が足元へ向く。
石畳の隙間に残っていた黒い灰。
そこから、一本だけ細い根がまだ動いていた。
リリアが白露草を取り出そうとした瞬間、その根はすっと方向を変えた。
古城の中ではない。
薬草園でもない。
根は南――王都の方角へ向かうように、石畳の隙間へ潜り込んでいった。
リリアの手首が、熱を持つ。
地下香炉の奥で聞いた声が、記憶の中で蘇った。
――香炉を、再び満たして。
リリアは南の空を見た。
王都大神殿。
そこに、黒い根の本体がある。
そしておそらく、神官長マルドはそれを知っている。
ノアが静かに告げた。
「応接室で話を聞く。その後、聖香箱を調べる」
リリアは頷いた。
白い馬車は、もう清らかには見えなかった。
金の聖香炉紋章の下に残る黒い染みが、王都大神殿の腐敗をそのまま映しているようだった。




