第22話 聖香箱の中の黒い種
聖香箱は、古城の東棟にある隔離室へ運ばれた。
東棟は普段ほとんど使われていない。
かつて薬品や危険な魔獣素材を保管していた場所らしく、窓は小さく、壁は厚い。
床には古い封印紋が刻まれていた。
ガレスによれば、薬草由来の毒や呪粉が外へ漏れないようにするためのものだという。
その中央に、白露草の布で包まれた聖香箱が置かれている。
白い箱。
金の聖香炉紋章。
王都大神殿からの“礼品”。
けれど今、その箱からは礼などという言葉に似合わない臭いが漂っていた。
焦げた花。
甘く腐った水。
湿った灰。
それから、誰かの願いが溶けたような、重たい香り。
リリアは隔離室の入口で、一度足を止めた。
怖い。
でも、逃げない。
「リリア」
ノアが隣で声をかける。
「無理なら外で待てる」
リリアは首を横に振った。
「大丈夫です。怖いですが、見ます」
ノアは頷いた。
「なら、私の後ろに」
「はい」
隔離室に入るのは最小限に絞られた。
ノア、リリア、ガレス、アリア。
そして王都側の証人として、エルヴィンとセシリア。
カイルと騎士たちは扉の外で待機している。
ルゥはリリアの足元から離れなかった。
セシリアは隔離室へ入った瞬間、顔を青ざめさせた。
「こんな……こんな臭い、私……」
言いかけて、口を押さえる。
エルヴィンも表情を硬くしていた。
自分たちが持ち込んだ箱から、呪いの臭いがしている。
その現実を、まだ受け止めきれていないのだろう。
アリアは卓の上に書類を広げた。
「では、確認します。これは王都大神殿より、レーヴェン古城への礼品として持ち込まれた聖香箱。運搬責任者は神官騎士エルヴィン様、同行者は聖香師見習いセシリア様。間違いありませんね?」
エルヴィンは重く頷いた。
「間違いない」
セシリアは小さな声で言う。
「……神官長様から、辺境の呪いを清めるための特別な聖香だと伺いました」
「その言葉も記録します」
アリアは素早く筆を走らせる。
リリアはその様子を見て、少しだけ息を整えた。
記録。
ここでは、言葉が流されない。
誰が何を言ったか、何を持ち込んだか、きちんと残してくれる。
それだけで、足元が少し安定する。
ガレスは白露草の布を手に、聖香箱の周囲を確認した。
「外側の根はほぼ枯れておる。ただし、中に核があるのは間違いないな」
「開けると出ますか」
ノアが問う。
「出るじゃろうな。黒蝶か、黒根か、臭いか。あるいは全部じゃ」
セシリアが小さく震える。
「そんなものを、私たちは馬車に……」
「あなた方の馬車にありました」
アリアは淡々と言った。
「知らなかったかどうかは、これから確認することです」
セシリアは唇を噛んだ。
以前なら、ここで涙を浮かべてリリアを見ただろう。
お姉さま、助けて。
お姉さまのせいでは。
お姉さまが何とかして。
けれど今のリリアは、視線を受け止めても背負わなかった。
セシリアの恐怖は、セシリアのものだ。
自分が代わりに罪をかぶる必要はない。
「開けます」
リリアは言った。
「ただし、少しずつ。香りの膜を張りながら」
ノアが頷く。
「手順を言え」
「箱の周囲に白露草。内側から甘い香りが出たら、蜜根は使わず銀葉ミントを強めます。黒蝶が出たら、ルゥの光を重ねてください。黒い根が出たら、切らずに押さえて、地下香炉の灰を混ぜた布で包みます」
「分かった」
ノアは短く答え、箱の前へ立った。
リリアはその斜め後ろに立つ。
昨日なら、きっと自分で箱へ手を伸ばしていた。
でも今は違う。
役割を分ける。
一人で抱えない。
「ルゥ、お願い」
リリアが小声で言うと、ルゥは箱の前に座り、額の月の紋を淡く光らせた。
ガレスが白露草の布を箱の四隅に置く。
アリアは記録用の紙を準備する。
エルヴィンは黙って見つめている。
セシリアは両手を胸の前で握りしめていた。
ノアが箱の留め金に手をかける。
「開ける」
かちり。
小さな音が、隔離室に響いた。
蓋がわずかに開いた瞬間、黒い煙が細く漏れた。
リリアはすぐに香りを読んだ。
「銀葉ミントを強く。甘いです。濁っています」
ガレスが動く。
銀葉ミントの青い香りが、黒い煙に重なる。
煙は一瞬うねり、蝶の形になりかけた。
ルゥが低く吠える。
月光が走り、蝶になる前の煙を押さえた。
「今です」
ノアが蓋をさらに開ける。
箱の中が見えた。
白い香粉が入っているはずだった。
少なくとも、聖香箱ならそうでなければならない。
だが、中にあったのは香粉ではなかった。
黒い綿のようなものに包まれた、小さな種。
指先ほどの大きさ。
表面は黒く、ところどころ白い殻が残っている。
その白い部分だけは、地下香炉で見た聖月草の種に似ていた。
リリアは息を呑む。
「聖月草……?」
ガレスが目を細める。
「いや、違う。似ておるが……これは、腐った種じゃ」
「腐った種……」
「聖月草に近いものを、無理やり呪香で育てようとしたのかもしれん」
その言葉に、リリアの胸がざわついた。
聖月草は、月光と守護獣の気配と澄んだ水を必要とする。
地下香炉の中で、静かに守られていた種。
それを、呪香で。
甘く濁った願いで。
無理やり芽吹かせようとしたのだとしたら。
「だから、黒い根が出たんだ……」
リリアは呟いた。
箱の中の黒い種は、かすかに脈打っている。
生きている。
けれど、正常な命ではない。
生まれたがっているのに、生まれ方を間違えたもの。
聖なる香りを真似て、腐ってしまったもの。
その香りを嗅いだ瞬間、リリアの中にいくつもの声が流れ込んできた。
――選ばれたい。
セシリアの声。
――失敗できない。
エルヴィンの声。
――権威を守らねば。
知らない神官たちの声。
――聖香を、王都のものに。
マルドの声。
リリアは思わずよろめいた。
「リリア!」
ノアがすぐに支える。
今度は無理に踏みとどまらず、リリアはノアの腕を借りた。
「すみません。声が……願いの声が混ざっています」
「続けられるか」
「少しだけ」
リリアは深く息を吸った。
「この種には、たくさんの願いが染み込んでいます。選ばれたい、認められたい、守りたい、奪いたい……それが混ざって、腐っている」
セシリアの顔が真っ白になる。
「選ばれたい……」
リリアは彼女を見た。
責めたいわけではなかった。
けれど、隠してはいけない。
「セシリアの香りもあります」
隔離室が静まった。
セシリアは息を止める。
「私の……?」
「はい。でも、あなたが作ったというより、あなたの願いが餌にされたような感じです」
「餌……」
セシリアはふらりと後ずさった。
エルヴィンが支えようとするが、彼女はその手を避けるように肩を縮める。
「そんな……神官長様は、私を聖香師として選んでくださったのに。特別だと、私には才能があると……」
アリアが低く言う。
「才能を褒めながら、願いを吸い上げていたのかもしれませんね」
「違いますわ!」
セシリアは叫んだ。
だが、その声には自信がなかった。
「だって、私は……私は、本当に選ばれたかっただけで……」
言葉が震える。
「お姉さまばかり、昔から何でもできて……お母様の形見も持っていて……お父様も、亡くなったお母様の話をする時だけ優しくて……私は、私だけを見てほしかっただけで……」
リリアは目を見開いた。
初めて聞く言葉だった。
セシリアはいつも、すべてを持っているように見えた。
父の関心。
屋敷での立場。
神殿での称賛。
エルヴィンの庇護。
それでも彼女は、何かを欲しがっていたのか。
自分が持っていないと思い込んでいた何かを。
けれど、リリアは思った。
それは奪っていい理由にはならない。
リリアの母の記憶も。
薬草帳も。
仕事も。
言葉も。
セシリアの空白を埋めるためのものではない。
「セシリア」
リリアは静かに言った。
「選ばれたいと願うこと自体は、悪いことではないと思います」
セシリアが顔を上げる。
「でも、そのために誰かの仕事を自分のものにしたり、誰かを罪人にしたりしていいことにはなりません」
セシリアの瞳に涙が浮かぶ。
今度の涙は、以前のような武器の匂いではなかった。
もっとぐちゃぐちゃで、苦くて、幼い匂いがした。
「私は……どうしたらよかったの……?」
リリアはすぐには答えられなかった。
答えを与える立場ではないと思ったからだ。
代わりに、アリアが静かに言う。
「少なくとも、これからどうするかは選べるわ。利用され続けるか、見たものを証言するか」
エルヴィンが黒い種を見つめたまま、低く言った。
「私もだ」
その声に、リリアは彼を見る。
エルヴィンの表情は苦い。
「私は、リリアの言葉を聞かなかった。セシリアを信じることと、リリアを疑うことを同じだと思っていた」
リリアの胸が、少しだけ痛んだ。
謝ってほしいと思っていたはずなのに、いざ彼が後悔を口にし始めると、どう受け止めればいいのか分からない。
エルヴィンは続ける。
「だが、今は……自分が何を見落としていたのか、見なければならないと思っている」
ノアが静かに言った。
「なら、証言しろ。神官長マルドから何を命じられ、何を持たされたのか」
エルヴィンは頷いた。
「分かった」
セシリアは泣きながら首を振った。
「そんなことをしたら、私は……王都で……」
「戻れば、また利用される可能性が高い」
ガレスが厳しく言う。
「その香り袋も、聖香箱も、あんたを守るものではなかった。むしろ呪いの餌にしておった」
セシリアは黙り込んだ。
黒い種が、箱の中でまた小さく脈打つ。
リリアは意識を箱へ戻した。
今は感情の話だけではない。
この種をどう封じるかを考えなければならない。
「この種、地下香炉の灰に反応しています」
リリアは言った。
「完全には浄化できませんが、動きを止められています」
「焼くか?」
ノアが問う。
リリアは首を横に振った。
「たぶん、焼くと臭いが広がります。切っても、燃やしても、散る。薬草園の黒い根と同じです」
「では封じるしかないか」
「はい。地下香炉の近くで、古い聖香の膜に包むのが一番安全だと思います。ただ……」
「ただ?」
「この種から、王都への道が伸びています」
リリアは黒い種の香りを確かめる。
細い香りの糸。
一本は、王都大神殿へ。
もう一本は、古城の地下扉へ。
そして、かすかにもう一本。
セシリアへ。
「セシリアに、まだ繋がっています」
セシリアが息を呑む。
ルゥが低く唸った。
「私に……?」
「はい。香り袋を身につけていたせいかもしれません。あなたの願いを餌にして、種と細い糸が繋がっている」
「切れますか」
エルヴィンが問う。
リリアは迷った。
「無理に切ると、セシリアの心や夢に傷が残るかもしれません」
セシリアの顔が歪む。
「では、私はこのままなの?」
「ほどく方がいいと思います」
「ほどく……」
「絡まった香りを、少しずつ分けるんです」
リリアは白露草を手に取った。
セシリアのことは許せない。
簡単に許していいとも思わない。
でも、目の前の呪いをほどけるなら、ほどきたい。
それは甘さではなく、自分の仕事だと思った。
「セシリア」
リリアは彼女を見る。
「あなたが望むなら、香りの糸を薄める手伝いをします。でも、私のせいにするためではなく、あなた自身が何を願っていたのか見る覚悟が必要です」
セシリアは震えていた。
その香りは、怖れと拒絶で乱れている。
けれど、黒蝶に食われかけた甘い匂いの奥に、ごく薄い素の香りがあった。
幼い花のような、まだ腐りきっていない香り。
長い沈黙の後、セシリアはかすれた声で言った。
「……怖いですわ」
リリアは少しだけ目を伏せた。
「私も怖いです」
セシリアが驚いたようにリリアを見る。
リリアは続けた。
「でも、怖いと言ってもいいそうです」
そう言うと、ノアがわずかに目を伏せた。
セシリアはぐしゃりと顔を歪めた。
美しく整えた表情ではなかった。
子どものように、情けなく、泣きそうな顔だった。
「……助けて、お姉さま」
その言葉に、リリアの胸が痛んだ。
昔なら、その一言で全部背負ってしまったかもしれない。
でも今は違う。
「助けます」
リリアは静かに言った。
「でも、あなたの罪や責任は、あなたのものです。私はそれを代わりには持ちません」
セシリアは涙をこぼしながら、何度も頷いた。
リリアは白露草と銀葉ミントを合わせ、セシリアへ近づきすぎない距離で香りを広げる。
黒い種とセシリアの間にある、細い香りの糸。
それは甘く、焦げて、べたついている。
リリアは香炉石を握った。
「これは、あなたの願い。でも、あなたを縛る鎖ではありません」
白露草の香りが、糸に触れる。
セシリアが小さく息を詰めた。
「選ばれたかった」
ぽつりと、彼女は言った。
「お姉さまより、私を見てほしかった。私だけが特別だって、言ってほしかった……」
糸が震える。
黒い種も脈打つ。
ルゥが低く鳴き、月光を重ねた。
リリアは銀葉ミントの香りを細く伸ばす。
「その願いは、あなたのものです。でも、黒い種に食べさせるものではありません」
糸が少しずつ白く薄れていく。
セシリアは泣きながら胸を押さえた。
「苦しい……」
「息をしてください。こちらの香りを探して」
「分からない……」
「朝の香りです。白露草の香り。黒い蝶ではなく、こちらへ」
ミナを呼び戻した時と同じ。
けれど今回は、相手がセシリアだ。
自分を傷つけた義妹。
それでも、リリアの声は震えなかった。
セシリアが大きく息を吸う。
その瞬間、黒い種と彼女を繋いでいた糸が、ぷつりと切れた。
切れたというより、ほどけた。
甘く焦げた匂いが薄れ、隔離室の空気が少しだけ軽くなる。
セシリアはその場に崩れ落ちた。
エルヴィンが慌てて支える。
黒い種は箱の中で激しく震えたが、地下香炉の灰とルゥの月光に押さえ込まれ、やがて静かになった。
リリアは大きく息を吐いた。
ノアがすぐに支える。
「ここまでだ」
「はい……」
今度は素直に頷いた。
頭が少しふらつく。
でも、倒れるほどではない。
セシリアは泣きながら、リリアを見上げた。
「お姉さま……私……」
「今は休んでください」
リリアは静かに言った。
「話は、その後に」
セシリアは何か言いたそうに唇を震わせたが、結局、何も言えなかった。
アリアは記録を取り終え、深く息を吐いた。
「証拠としては十分すぎるわね。聖香箱の中身、黒い種、セシリア様との香りの糸、神官長からの指示」
エルヴィンは顔を上げる。
「私は証言する。神官長マルドがこの箱を持たせたこと、セシリアに香り袋を渡したこと、リリアの送還を強く命じたことを」
ノアは頷いた。
「書面にしてもらう」
「分かった」
黒い種は、箱の中で静かに沈黙している。
だがリリアには分かっていた。
これは終わりではない。
むしろ、王都大神殿と古城の地下を繋ぐ糸が、はっきり見え始めただけだ。
その時、黒い種の表面に細い亀裂が入った。
ぴしり、と。
リリアは息を呑む。
亀裂の奥から、かすかな声が漏れた。
――ひとつ、ほどいたか。
神官長マルドの声ではない。
もっと古く、もっと深い。
地下の黒い扉の奥で聞いた、あの闇の声だった。
――ならば次は、香炉を満たす前に、芽を食べよう。
リリアの手首が鋭く痛んだ。
同時に、遠く薬草園の方角でルゥが吠える。
いや、ここにルゥはいる。
では今の吠え声は。
隔離室の窓の外。
薬草園の上空に、黒い蝶の群れが集まり始めていた。
狙いは、聖月草の芽。
黒い種は、もう次の餌を見つけていた。




