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第23話 聖月草を守る香り

 薬草園の上空に、黒い蝶の群れが集まっていた。


 夕暮れ前の空を覆うように、ぱたぱたと羽音が重なっている。


 一匹一匹は小さい。

 けれど、群れになると空気そのものが黒く濁る。


 焦げた花。

 腐った水。

 甘く濁った聖香。


 その臭いが風に乗り、隔離室の窓の隙間から流れ込んできた。


「聖月草の芽が狙われています!」


 リリアが叫ぶと同時に、ノアが動いた。


「カイル! 薬草園へ全員を回せ! 子どもたちは西棟へ避難!」


 扉の外から即座に返事が響く。


「了解!」


「ガレス、聖香箱は封じたまま隔離。アリア、記録と王都側の証人を頼む」


「分かったわ」


「エルヴィン、セシリア。ここから勝手に動くな」


 ノアの指示は短く、鋭い。


 エルヴィンは一瞬だけ唇を引き結び、それから頷いた。


「協力する。何をすればいい」


 ノアは彼を見た。


「王都の護衛騎士を統制しろ。混乱させるな。古城の指示に従わせる」


「分かった」


 セシリアはまだ床に座り込んでいた。


 黒い種との糸をほどいたばかりで、顔は青白い。

 だが、窓の外の黒蝶を見た瞬間、その瞳が大きく揺れた。


「あれが……私の願いを食べていたもの……?」


 リリアは答えられなかった。


 今は説明している時間がない。


 けれど、セシリアの声には先ほどまでの甘えや怒りではなく、恐怖と理解し始めた痛みが混じっていた。


「リリア」


 ノアが振り返る。


「走れるか」


「はい」


「無理なら言え」


「怖いです。でも、行けます」


 ノアは一度だけ頷いた。


「私の後ろへ」


 リリアは香炉石を握りしめた。


 怖い。


 けれど、身体は動く。


 薬草園には、守らなければならない芽がある。


 地下香炉を再び満たすかもしれない、小さな希望。


 そして、ルゥが守っているはずの場所。


 隔離室を飛び出すと、廊下の向こうからすでに鐘の音が響いていた。


 古城の警戒鐘。


 騎士たちが走る。

 侍女たちが子どもたちを誘導する。

 料理長が厨房の扉を閉めながら、大鍋を抱えている。


「リリアさん!」


 ミナの声がした。


 西棟へ向かう子どもたちの列の中で、ミナが不安そうにこちらを見ている。


「黒い蝶、また来たの?」


「大丈夫。今度は夢じゃなくて、薬草園に来ているの」


 リリアはできるだけ穏やかに言った。


「ミナちゃんは皆と一緒に西棟へ。朝の香りを覚えていて」


 ミナは唇を噛んだが、力強く頷いた。


「うん。リリアお姉ちゃんも、戻ってきてね」


「戻るわ」


 約束して、リリアは薬草園へ向かった。


 外へ出た瞬間、黒蝶の羽音が肌を打った。


 ぱたぱた、ぱたぱた、ぱたぱた。


 耳ではなく、胸の奥で鳴っているような音。


 薬草園の中央。

 木箱で守られた聖月草の芽のそばに、ルゥが立っていた。


 白銀の毛を逆立て、額の月の紋を強く光らせている。


 黒蝶の群れはその周囲を旋回し、何度も急降下を仕掛けていた。


 ルゥが吠えるたび、数匹が灰になって消える。


 だが数が多すぎる。


 空の黒い渦は、まだ薄くならない。


「ルゥ!」


 リリアが叫ぶと、ルゥが一瞬だけこちらを見た。


 その青い瞳に、焦りがあった。


 守れる。

 でも、長くはもたない。


 そう言っているようだった。


 リリアは一歩下がり、状況を見る。


 黒蝶はルゥを避けながら、聖月草の芽へ近づこうとしている。

 直接食らうというより、夢や願いを食べるのと同じように、芽の中にある“育とうとする力”を吸おうとしている。


 小さな芽は、木箱の中で震えていた。


 葉の先が黒くなりかけている。


「白露草を!」


 リリアが叫ぶと、ガレスが薬草袋を投げた。


「使え!」


「ありがとうございます!」


 リリアは白露草を広げ、銀葉ミントを重ねる。


 だが、それだけでは足りない。


 黒蝶は空から来る。

 地面に香りの輪を作るだけでは、上から抜けられる。


 必要なのは、香りの天蓋。


 芽の上に、朝の香りをかぶせる。


「ガレスさん、地下香炉の灰を少しだけ!」


「もう残り少ないぞ!」


「少しでいいです!」


 ガレスは小瓶を投げた。


 リリアは受け取り、白露草の上に灰をほんのひとつまみ落とす。


 瞬間、古い聖香がふわりと立ちのぼった。


 静かで、澄んだ、土地を整える香り。


 黒蝶の群れが一斉に揺らいだ。


「効いてる!」


 カイルが声を上げる。


 だが、黒蝶はすぐに渦を巻き直す。


 ただ退けるだけでは駄目だ。


 香りを保つ核が必要だった。


 リリアは胸元の香炉石を握る。


 地下香炉にはめた時の感覚を思い出す。


 香炉を、再び満たして。


 聖月草を守るには、聖月草自身の香りを起こすしかない。


 まだ小さな芽だ。


 無理に引き出せば枯れてしまうかもしれない。


 けれど、黒蝶に食われるよりは。


「リリア、何をする」


 ノアがすぐに気づいた。


「芽の香りを起こします」


「危険か」


「はい。でも、少しだけなら」


「君はどこに立つ」


 その問いに、リリアははっとした。


 以前なら、そのまま木箱へ駆け寄っていただろう。


 でも、今は違う。


「ノア様の後ろ。ルゥの光が届く位置で。私は直接触れません」


 ノアの目元がわずかに和らいだ。


「よし」


 彼は盾を持った騎士たちへ指示を出す。


「リリアの前に壁を作れ。黒蝶を近づけるな」


「了解!」


 騎士たちが半円を作る。


 王都の護衛騎士たちも、エルヴィンの指示で加わった。


「盾を上げろ! 古城騎士団の動きに合わせる!」


 白い外套の騎士たちが、黒い石の城前で盾を構える。


 奇妙な光景だった。


 王都と辺境。

 本来なら睨み合うはずの者たちが、同じ黒蝶を前に並んでいる。


 セシリアは少し離れた場所で、アリアに支えられていた。


 その顔はまだ青い。


 だが、逃げてはいない。


 リリアは一度だけ彼女を見た。


 セシリアは震えながら、自分の胸元を押さえている。


 そこにもう香り袋はない。


 けれど、まだ黒蝶への恐怖が残っているのだろう。


 リリアは視線を戻した。


 今は聖月草だ。


「ルゥ、お願い」


 ルゥが高く吠えた。


 月の光が聖月草の芽を包む。


 リリアは白露草、銀葉ミント、地下香炉の灰を合わせ、香炉石を通して香りを細く伸ばした。


 無理に引き出さない。


 呼びかける。


 眠っている子を起こすように。


「大丈夫」


 リリアは小さく囁いた。


「あなたを食べさせない。だから、少しだけ香りを貸して」


 聖月草の芽が震えた。


 小さな葉の根元から、かすかな香りが立ちのぼる。


 月の光を含んだ水のような香り。

 雨に濡れた石。

 夜明け前の白い花。

 そして、ルゥの雪の香りに似た清らかさ。


 リリアの胸が震えた。


「これが、聖月草の香り……」


 黒蝶の群れが激しく乱れた。


 欲しがっている。


 同時に、恐れている。


 聖月草の香りは、黒蝶にとって餌であり、毒でもあるのだ。


 リリアは香りをただ広げるのではなく、白露草と銀葉ミントで包んだ。


 むき出しにすれば食われる。

 守りながら広げる。


 香りの天蓋が、聖月草の上に少しずつ形を作っていく。


 薄い白銀の膜。


 そこにルゥの月光が重なり、黒蝶が近づけなくなる。


「いける……!」


 カイルが叫んだ。


 しかし、その瞬間。


 隔離室の方角から、黒い種の声が響いた。


 ――足りない。


 リリアの手首に鋭い痛みが走る。


 黒蝶の群れが、一斉に形を変えた。


 ただの蝶ではなく、黒い一本の帯のように集まり、香りの天蓋へ突き刺さろうとする。


「来ます!」


 リリアが叫ぶ。


 ノアが剣を抜いた。


「盾、構え!」


 黒い帯が降ってくる。


 騎士たちの盾にぶつかり、黒い羽が散る。


 だが、その一部が盾の隙間を抜け、リリアへ向かった。


 リリアは反射的に前へ出そうになった。


 違う。


 下がる。


「左から来ます!」


 声を出す。


 ノアの剣が即座に走った。


 黒蝶の帯が裂かれ、ルゥの月光に触れて灰になる。


 リリアはその隙に、聖月草の香りをもう一度整えた。


 怖い。


 でも、できる。


 一人ではない。


 その時、背後から震える声が聞こえた。


「……私にも、何かできませんの?」


 セシリアだった。


 リリアは振り返る。


 セシリアは顔を青ざめさせながらも、こちらへ数歩近づいていた。


 アリアが止めようとしている。


 しかしセシリアは、震える手で自分の胸元を押さえたまま言った。


「私の願いを餌にしたのなら……まだ、私の香りに反応するのでしょう?」


 リリアは息を呑んだ。


「危険です」


「分かっていますわ」


 セシリアの声は震えていた。


「怖いです。逃げたいです。でも……私のせいで持ち込まれたものなら、何もしないまま見ているのは、もっと怖い」


 初めてだった。


 セシリアが、自分の責任に触れようとしている。


 リリアは迷った。


 セシリアを前に出すのは危険だ。

 けれど、彼女の香りは黒蝶を引きつける。


 それを餌ではなく、誘導に使えれば。


「ノア様」


 リリアはすぐに相談した。


「セシリアの香りで、黒蝶の流れを少しずらせるかもしれません。ただし、本人を守る香りの膜が必要です」


「危険すぎる」


 ノアは即答した。


 セシリアの顔が伏せられる。


 だが、リリアは続けた。


「本人が望むなら、短い時間だけ。私が直接は支えません。ガレスさんとアリアさんに白露草の膜を張ってもらいます。エルヴィン様に護衛を」


 ノアはリリアを見る。


「君が判断するのか」


 リリアはセシリアを見た。


 自分を傷つけた義妹。

 でも、今は震えながら逃げずに立っている。


 許すかどうかではない。


 今、何ができるかだ。


「はい。危険はあります。でも、セシリアが自分で責任を取るために立つなら……使えます」


 ノアは数秒だけ黙った。


 そしてエルヴィンへ視線を向ける。


「守れるか」


 エルヴィンは剣を握り直した。


「守る」


 セシリアが小さく息を呑む。


 リリアは彼女に向けて言った。


「セシリア、黒蝶に願いを渡さないでください」


「どういう意味ですの」


「選ばれたい、認められたい。その気持ちは消さなくていい。でも、黒蝶に差し出さないで。自分の中に持ったまま、ただ香りだけを外へ薄く出します」


「そんなこと……」


「できます。怖いなら、怖いと言って」


 セシリアの唇が震えた。


「……怖いですわ」


「それで大丈夫です」


 リリアは白露草をガレスに渡す。


「セシリアの周囲に膜を。銀葉ミントを強めに。蜜根は使わないでください」


「分かった」


 アリアも動く。


「セシリア様、私の言う位置から動かないで」


「はい……」


 エルヴィンがセシリアの前に立つ。


 かつてリリアを守らなかった人が、今はセシリアを守るため、そして古城を守るために剣を構えている。


 リリアは不思議な痛みを覚えた。


 でも、それを今は横に置く。


「セシリア、少しだけ息を吸って」


 セシリアは震えながら息を吸った。


「自分の願いを、言葉にしなくていいです。ただ、黒蝶へ渡さないで、自分の胸に置いてください」


 セシリアの瞳から涙が落ちた。


 その香りが変わる。


 甘く焦げた匂いではなく、苦く、痛く、けれど生のままの願い。


 黒蝶の帯が、わずかにそちらへ流れた。


「今です!」


 リリアは聖月草の香りを広げる。


 黒蝶の流れがセシリアの方へ引かれた一瞬、ルゥが高く吠えた。


 月光が空へ伸びる。


 聖月草の香りの天蓋が、一気に形を整えた。


 白銀の薄い膜が薬草園全体を覆う。


 黒蝶の群れが、その膜にぶつかり、次々と灰になっていく。


 セシリアの方へ向かった蝶も、ガレスとアリアが張った白露草の膜に触れて動きを鈍らせ、エルヴィンの剣圧で押し戻される。


 最後に、ノアの剣が黒い帯の中心を断った。


 ぱん、と大きな音がした。


 空を覆っていた黒蝶の群れが、灰の雨となって崩れていく。


 だが灰は地面に落ちる前に、聖月草の香りに触れて白くほどけた。


 薬草園に、静けさが戻る。


 リリアはその場に膝をつきそうになった。


 今度はノアではなく、ルゥが先に飛び込んできて体を支えた。


「ルゥ……」


 白銀の子狼は、少し疲れた顔でリリアを見上げた。


 額の月の紋はまだ淡く光っている。


「ありがとう」


 リリアはルゥを抱きしめた。


 ふわりと雪の香りがする。


 その香りに、リリアの緊張が少しずつほどけていく。


 木箱の中の聖月草の芽は、無事だった。


 葉先の黒ずみは消え、代わりに白銀の光を帯びている。


 ほんのわずかだが、葉が開いていた。


 ガレスが震える声で呟く。


「育った……」


 リリアは息を呑む。


 聖月草の芽は、先ほどより確かに大きくなっている。


 黒蝶に狙われたことで、目覚めたのか。

 それとも、皆で守った香りに応えたのか。


 分からない。


 でも、生きている。


 強くなっている。


「守れた……」


 リリアの声は震えた。


 ノアが隣に立つ。


「ああ。君たちが守った」


 君たち。


 その言葉に、リリアはセシリアを見た。


 セシリアはその場に座り込み、泣いていた。


 美しく見せるための涙ではない。


 ただ、怖くて、悔しくて、情けなくて、けれど逃げなかった後の涙。


 エルヴィンがそばに立っているが、何も言えずにいる。


 リリアはゆっくり立ち上がった。


 近づきすぎない距離で、セシリアに声をかける。


「セシリア」


 彼女はびくりと肩を震わせる。


「……私、ちゃんとできましたの?」


 リリアは少しだけ迷い、それから頷いた。


「はい。怖いまま、逃げませんでした」


 セシリアの顔がくしゃりと歪む。


「私……今まで、逃げてばかりでしたわ」


 リリアは何も言わなかった。


 慰める言葉を急いで渡す必要はないと思った。


 セシリア自身が、ようやく見始めたものだから。


 その時、隔離室の方角から鐘が鳴った。


 一度。

 二度。


 警戒の合図ではない。


 異変発生の合図。


 カイルが走ってくる。


「団長! 隔離室の黒い種が、砕けました!」


 リリアは息を呑んだ。


「砕けた……?」


「はい。ただ、消えたわけじゃありません。中から黒い根じゃなくて……白い灰が残っています」


 白い灰。


 地下香炉の灰に似たものだろうか。


 リリアは聖月草の芽を見る。


 芽は淡く光っている。


 まるで、その灰を呼んでいるように。


 ガレスが低く言った。


「黒い種が砕けて、白い灰が残ったなら……呪われた聖月草の残骸かもしれん」


 リリアの胸が高鳴る。


「地下香炉を満たす材料に、使えるかもしれない……?」


 ノアが静かに頷いた。


「調べよう」


 だが、その瞬間。


 聖月草の芽の周囲に張った白銀の膜が、南の方角へ細く伸びた。


 香りの糸だ。


 リリアには分かった。


 糸の先は、王都大神殿。


 そして、そのさらに奥。


 黒い根の本体。


 聖月草は守れた。


 けれど、これで終わりではない。


 むしろ、こちらが香炉を満たす準備を始めたことを、向こうに知らせてしまった。


 南の空に、黒い雲がひと筋だけ浮かぶ。


 その形は、巨大な蝶の羽に似ていた。


 リリアは香炉石を握りしめる。


 怖い。


 でも、もう黙らない。


 レーヴェン古城の薬草園で、聖月草の小さな芽は静かに光っていた。


 王都大神殿の腐った聖香を正すための、最初の光として。

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