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第24話 白い灰と、戻らない言葉

 黒蝶の群れが消えた薬草園には、しばらく誰も声を出せなかった。


 風だけが、白露草の葉を揺らしている。


 木箱の中の聖月草の芽は、淡い白銀の光を帯びていた。


 ほんの少しだけ、葉が開いている。


 先ほどまで黒蝶に食われかけていたとは思えないほど、静かで、清らかな香りを放っていた。


 雨に濡れた石。

 月光を含んだ水。

 夜明け前の白い花。


 リリアはその香りを胸いっぱいに吸い込み、ようやく息を吐いた。


「守れた……」


 呟いた瞬間、足元が少し揺れた。


 倒れるほどではない。


 けれど、身体の奥から一気に力が抜けていく。


 ルゥがすぐにリリアの脚へ身体を押しつけた。


 白銀の小さな身体が、まるで支えになるようにぴたりと寄り添う。


「ありがとう、ルゥ」


 リリアが撫でると、ルゥは疲れた顔をしながらも得意げに鼻を鳴らした。


 額の月の紋は、まだ薄く光っている。


 無理をさせた。


 そのことに胸が痛む。


「ルゥも休まないと」


 リリアが言うと、ガレスがうんうんと頷いた。


「守護獣様もリリアも、今日は働きすぎじゃ。二人まとめて休ませたいくらいじゃな」


「私はまだ、隔離室の白い灰を確認しないと……」


「ほら出た」


 カイルが呆れたように言った。


「団長、リリアさんがまた休まない方向に走ってます」


 ノアが静かにリリアを見る。


 その視線だけで、リリアは少し肩を縮めた。


「……確認だけです」


「座って確認する」


「はい」


「時間を区切る」


「……はい」


「終わったら休む」


「はい」


 あまりにも手際よく決められて、カイルが小さく笑った。


「団長、リリアさんの扱いに慣れてきましたね」


「夜番を増やすか」


「失礼しました」


 薬草園に、少しだけ笑いが戻る。


 その笑い声を聞いた瞬間、リリアの胸も少し軽くなった。


 戦いは終わっていない。


 王都大神殿の黒い根はまだ残っている。

 地下香炉の奥の扉も、開いたままだ。

 黒い種が砕けた理由も分からない。


 それでも、今ここで笑える人たちがいる。


 それは確かに、守れたものだった。


 隔離室へ戻ると、聖香箱は先ほどとは違う姿になっていた。


 黒い種は砕け、箱の底に白い灰が残っている。


 その灰は、地下香炉から持ち帰った古い灰に似ていた。


 けれど、まったく同じではない。


 地下香炉の灰は、深く眠った聖香の香りがした。

 一方、箱の中の白い灰には、苦い残り香がある。


 焦げて、腐りかけて、それでも最後に何かがほどけたような香り。


 リリアは椅子に座り、慎重に小瓶へ移された灰を見つめた。


 ノアは隣に立っている。

 ガレスは向かい側で薬草帳を開き、アリアは記録用の紙を広げていた。


 エルヴィンとセシリアも、少し離れた椅子に座っている。


 セシリアはまだ顔色が悪い。


 先ほど聖月草を守るために、自分の願いを黒蝶へ渡さず、香りだけを外へ出した。

 その代償なのか、指先が震えている。


 けれど、彼女は逃げていなかった。


 俯いてはいるが、この部屋に残っている。


「リリア、香りはどうじゃ」


 ガレスが問う。


 リリアは白露草をそばに置き、ほんの少しだけ灰の香りを確かめた。


 深く吸いすぎない。

 近づきすぎない。

 嫌な香りを感じたら下がる。


 意識しながら、香りを読む。


「……聖月草に似ています。でも、完全な聖月草ではありません」


「やはりか」


「聖月草の種に、黒い願いを無理やり吸わせたような香りです。育つ前に腐らされた。でも、最後に黒い部分がほどけて、灰だけが残った感じがします」


 アリアが筆を走らせる。


「つまり、呪香で汚染された聖月草の残骸?」


「たぶん、そうです」


 リリアは小瓶を見つめた。


「でも、完全な失敗作ではないと思います」


 ノアが問う。


「使えるのか」


「はい。地下香炉を満たす材料としては、核にはできません。でも、古い香炉の灰と合わせれば、足りない香りを補えるかもしれません」


「危険は?」


「あります」


 リリアは正直に答えた。


「黒い願いの残り香が少しあります。このまま使えば、香炉にも濁りが入ります。だから、白露草と銀葉ミントで何度も洗うように香りをほどく必要があります」


「洗う、とは」


「水ではなく、香りで。澄んだ香りを通して、残った濁りを少しずつ外へ出すんです」


 ガレスが腕を組む。


「手間がかかるのう」


「はい。でも、完全に捨てるのは違う気がします」


 リリアは白い灰を見た。


「これは、腐らされた聖月草の残りです。黒い根に使われてしまったものでも、もとは聖なる香りを持っていたはずです。できるなら……戻してあげたい」


 言ってから、リリアは少し恥ずかしくなった。


 灰を戻してあげたいなんて、変に聞こえただろうか。


 けれど、誰も笑わなかった。


 ノアは静かに言った。


「君らしい判断だ」


 その一言で、リリアは少しだけ息を吐けた。


 セシリアが、小さく口を開いた。


「……私の願いも、その灰の中にあったのですか」


 リリアは彼女を見た。


 以前なら、セシリアの問いには答える前に身構えていただろう。


 責められるのではないか。

 泣かれるのではないか。

 また自分のせいにされるのではないか。


 けれど今のセシリアの声は、ただ怯えていた。


「ありました」


 リリアは静かに答えた。


 セシリアの肩が震える。


「私が……あの黒いものを育てたの?」


「セシリア一人ではありません」


 リリアは首を横に振った。


「神官長様の香りが一番濃かったです。ほかにも神殿の人たちの願いや焦りが混ざっていました。セシリアの願いも、餌にされていたのだと思います」


「でも、私の願いがあったのですね」


「はい」


 セシリアは唇を噛んだ。


 涙が落ちる。


 けれど、リリアは今度も急いで慰めなかった。


 セシリアは、自分で見なければならない。


 自分の願いが何に使われたのかを。


「お姉さま」


 セシリアは震える声で言った。


「私、あなたに謝らなければならないことが、たくさんありますわ」


 リリアの胸がきゅっと痛んだ。


 待っていた言葉のはずだった。


 ずっと。


 神殿で、屋敷で、祝福式で。


 一度でいいから、謝ってほしかった。


 でも、いざ目の前でその言葉が出ようとすると、どう受け取ればいいのか分からなかった。


 セシリアは続ける。


「薬草帳を汚したこと。香炉石を落としたこと。お姉さまの調整した聖香を、自分のもののように扱ったこと。祝福式で、お姉さまが嘘をついているように見せたこと……」


 言葉の一つ一つが、過去の傷に触れる。


 リリアは膝の上の手を握った。


 痛い。


 でも、逃げない。


 ノアがすぐ隣にいる。


 それだけで、呼吸が少しだけ楽だった。


「謝れば済むことではありませんわ」


 セシリアの声は、もう泣き崩れる寸前だった。


「それでも……ごめんなさい、リリアお姉さま」


 隔離室に、静かな時間が落ちた。


 エルヴィンも目を伏せている。


 ガレスも、アリアも、何も言わなかった。


 答えを急かさないでいてくれる。


 リリアはゆっくり息を吸った。


 白露草の香り。

 聖月草のかすかな香り。

 白い灰の苦い残り香。


 そして、セシリアの涙の匂い。


 それはもう、以前のような甘い武器の匂いではなかった。


 でも、だからといって、すぐに許せるわけではない。


「謝罪は、受け取ります」


 リリアは静かに言った。


 セシリアが顔を上げる。


「でも、今すぐ許せるわけではありません」


 セシリアの瞳が揺れた。


 リリアは続ける。


「私は、たくさん傷つきました。あなたの言葉で、態度で、奪われたものもあります。謝ってもらえたからといって、それが全部なかったことにはなりません」


「……はい」


「でも、あなたが黒蝶に食べられてほしいとも思いません」


 リリアは白い灰へ視線を落とした。


「だから、助けることと、許すことは分けます」


 その言葉は、自分でも驚くほど自然に出た。


 セシリアを助けた。

 けれど、すべてを許したわけではない。


 その二つは、同じでなくていい。


 セシリアは両手で顔を覆い、静かに泣いた。


「……はい」


 小さな返事だった。


「それで、十分ですわ」


 十分かどうかは、まだ分からない。


 でも、リリアはそれ以上言わなかった。


 今は、それでいいと思った。


 エルヴィンが立ち上がった。


「リリア」


 その声に、リリアは少し身構えた。


 かつて婚約破棄を告げた声。


 祝福式で、リリアを責めた声。


 それでも、リリアは逃げずに顔を上げた。


 エルヴィンは深く頭を下げた。


「私も謝罪する。君の言葉を信じなかった。婚約者でありながら、君を守らなかった。それどころか、公の場で君を傷つけた」


 リリアの胸が、また痛んだ。


 婚約者。


 その言葉が、どこか遠いものに聞こえる。


 ついこの前まで、彼の一言でリリアの人生は決まっていたはずなのに。


 今はもう、彼の言葉だけで自分が崩れることはない。


「君が祝福式を妨害したのではないと、今なら分かる」


 エルヴィンは苦しげに続けた。


「遅すぎるが……すまなかった」


 リリアは彼を見た。


 金髪の神官騎士。


 昔、少しだけ優しくされた日もあった。

 婚約者として、いつか分かり合えるかもしれないと思ったこともあった。


 でも、その期待はもう戻らない。


 割れた香炉石と同じだ。


 修復はできても、割れる前には戻らない。


「謝罪は、受け取ります」


 リリアはセシリアに言った時と同じように答えた。


「でも、エルヴィン様との婚約に戻ることはありません」


 エルヴィンの顔が、わずかに強張った。


 彼は何かを言いかけ、けれど口を閉じた。


 リリアは続ける。


「私はもう、王都大神殿のリリアではありません。レーヴェン古城で働くと決めました」


 ノアが少しだけリリアを見る。


 その視線が、静かに支えてくれる。


「私の居場所は、今ここです」


 エルヴィンは長い沈黙の後、深く頷いた。


「……分かった」


 その声には、後悔が滲んでいた。


 けれど、リリアはそれを背負わなかった。


 後悔は、彼のものだ。


 リリアのものではない。


 アリアが静かに紙を整えた。


「では、話を進めましょう。謝罪も重要ですが、王都大神殿の件は証言が必要です」


 彼女はセシリアとエルヴィンへ視線を向ける。


「お二人には、神官長マルドから香り袋と聖香箱を渡された経緯、リリアさんの送還を命じられた経緯、大神殿で聖香の異常が発生していた事実を書面にしていただきます」


 エルヴィンは頷いた。


「書く」


 セシリアも、震えながら頷いた。


「私も……書きますわ。私が知っていることを」


「それから」


 ガレスが白い灰の小瓶を持ち上げる。


「この灰は地下香炉へ運ぶ。だが、今すぐ香炉を満たすのは危険じゃ。まずは濁りを抜く必要がある」


「どれくらいかかりますか」


 ノアが問う。


「リリア次第じゃな」


 ガレスが言うと、ノアの視線がすぐに厳しくなる。


「負担が大きいなら、日を分ける」


「もちろんじゃ。わしも年寄りじゃが、そこまで鬼ではない」


「ガレスさん、私は大丈夫です」


 リリアが言うと、三人から同時に見られた。


 ノア。

 ガレス。

 アリア。


 リリアは少し気まずくなり、言い直した。


「……大丈夫かどうかを、確認しながら進めます」


 アリアが満足そうに頷く。


「成長ね」


「はい……」


 素直に認めると、ルゥが足元で誇らしげに鳴いた。


 まるで、自分が育てたと言いたげだった。


 その後、白い灰は三重に封じられた。


 地下香炉の灰を混ぜた布。

 白露草の包み。

 銀葉ミントを編み込んだ小箱。


 聖月草の芽の近くへ持っていくのは、明朝に決まった。


 夜に動かすには、黒蝶の気配がまだ濃すぎる。


 エルヴィンとセシリアは、古城の客室に軟禁という形で滞在することになった。


 武器は預け、王都の護衛騎士たちも古城騎士団の監督下に置かれる。


 セシリアは去り際、リリアを見た。


「お姉さま」


 リリアは振り返る。


「私……まだ、きっとすぐには変われませんわ」


 その声には、少しだけ自嘲が混じっていた。


「また、羨ましいと思うかもしれません。怖くて逃げたくなるかもしれません」


「はい」


 リリアは頷いた。


「でも、黒蝶に渡さないでください」


 セシリアは目を見開いた。


「願いも、怖さも、自分の中に持っていてください。誰かから奪うためではなく、自分で整えるために」


 セシリアは泣きそうに顔を歪めた。


「……難しそうですわね」


「はい。私も練習中です」


 そう言うと、セシリアはほんの少しだけ笑った。


 弱く、ぎこちない笑みだった。


 でも、以前のように作られた笑みではなかった。


 その夜、リリアは自室に戻る前に薬草園へ寄った。


 聖月草の芽は、白銀の薄い膜に包まれている。


 ルゥはそのそばで丸くなり、片目だけ開けてリリアを見た。


「今日は本当にありがとう」


 リリアがしゃがむと、ルゥはふわふわの頭をリリアの膝に乗せた。


 さすがに疲れたらしい。


 リリアはそっと撫でる。


 雪の香り。

 月光の香り。

 守ってくれた小さな神獣の香り。


「明日は、白い灰をここへ持ってくるね」


 聖月草の芽が、かすかに揺れた。


 返事のようだった。


 リリアは胸元の香炉石に触れる。


 香炉を、再び満たして。


 その言葉の意味が、少しずつ形になっていく。


 地下香炉。

 聖月草。

 白い灰。

 澄んだ水路。

 守護獣ルゥ。


 きっと、全部が繋がっている。


 そして王都大神殿の黒い根とも。


 その頃。


 王都大神殿の地下封印室で、神官長マルドは割れた黒い器を見つめていた。


 そこには、本来なら辺境古城で芽吹くはずだった黒い種の反応があった。


 だが今、器は砕けている。


 中身は空。


 マルドの口元から、穏やかな笑みが消えていた。


「……ほどいたか」


 地下の石床に、黒い根が幾筋も這っている。


 聖香庫から、温室へ。

 祈祷室から、地下封印室へ。


 もう隠しきれないほど、黒い根は大神殿の下に広がっていた。


 奥の闇から、甘く焦げた声がする。


 ――香炉を満たされる前に、香律師を砕け。


 マルドはゆっくり目を伏せる。


「まだ早い」


 ――遅い。


 黒い根が石床を軋ませる。


 マルドの足元まで伸びた根が、彼の白い神官衣に触れた。


 その裾が、じわりと黒く染まる。


 マルドは初めて、わずかに眉を動かした。


 闇の声が笑う。


 ――欲で開いた扉は、欲だけでは閉じられぬ。


 地下封印室の奥。


 古い香炉に似た黒い器が、低く脈打った。


 王都大神殿の聖香は、もうほとんど腐りきっていた。

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