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第25話 澄んだ水路の

 翌朝の薬草園は、昨日の騒ぎが嘘のように静かだった。


 空は薄く晴れている。

 黒蝶の群れが覆っていた南の空にも、今は淡い朝の光が差していた。


 けれど、リリアには分かる。


 終わったわけではない。


 土の奥にはまだ黒い根の気配が残っている。

 王都大神殿へ伸びる香りの糸も消えていない。

 そして、古城地下の黒い扉は、まだ閉じきれていない。


 それでも、聖月草の芽は生きていた。


 木箱の中で、小さな葉を二枚開いている。


 昨日までより少しだけ背が伸び、葉の先には白銀の光が薄く宿っていた。


 リリアはその前にしゃがみ、そっと息を吸った。


 月光を含んだ水。

 雨に濡れた白い石。

 夜明けの花。


 澄んだ香りが、胸の奥まで届く。


「おはよう」


 リリアが囁くと、聖月草の芽がかすかに揺れた。


 返事のようだった。


 隣では、ルゥが丸くなっている。


 昨夜からずっと番をしていたらしい。

 目は少し眠そうだが、リリアが来るとすぐに胸を張った。


「ずっと守ってくれていたのね」


 リリアが頭を撫でると、ルゥは得意げに鼻を鳴らした。


 けれど、その尻尾の動きはいつもより少し弱い。


 やはり疲れている。


「今日は無理しないで」


 そう言うと、ルゥは聞こえないふりをした。


「聞こえているでしょう?」


 今度はぷいと顔を背ける。


 分かりやすい。


 リリアが苦笑していると、背後から低い声がした。


「君も同じ顔をする」


 振り返ると、ノアが立っていた。


 黒い騎士服に外套。

 昨夜よりは少し休めたのか、目元の疲れは薄い。


「私も、ですか?」


「休めと言われた時の顔だ」


「……そんな顔をしていますか」


「ああ」


 リリアは少しだけ視線を逸らした。


「気をつけます」


「気をつけるだけではなく、休め」


「はい」


 素直に頷くと、ノアは一瞬だけ驚いたように目を細めた。


「今の返事は信用できそうだ」


「少しずつ練習していますので」


「良い練習だ」


 その何気ないやり取りに、リリアの胸が温かくなる。


 怖いことはまだ多い。


 けれど、朝の薬草園でこんな会話ができることが、今はとても大切に思えた。


 少し遅れて、ガレスとアリアがやって来た。


 ガレスの手には、三重に封じた小箱。

 その中には、黒い種から残った白い灰が入っている。


 アリアは記録用の板と紙束を抱えていた。


「準備はできているわ」


 アリアが言う。


「エルヴィン様とセシリア様の証言書も、ひとまず一通り書き終わった。細部の確認はまだ必要だけれど、神官長マルドから香り袋と聖香箱を渡されたことは明記してもらったわ」


「セシリアは……大丈夫そうですか」


 リリアが尋ねると、アリアは少しだけ表情を和らげた。


「かなり参っているわ。でも、逃げてはいない。今朝も、自分が知っていることを追加で書くと言っていた」


「そうですか」


 ほっとしたのか、複雑なのか、自分でも分からなかった。


 セシリアをすぐに許すことはできない。


 でも、彼女が黒蝶に飲まれず、自分の言葉を書こうとしていることには、少しだけ救われる気がした。


 ガレスが小箱を作業台に置いた。


「さて、問題はこっちじゃ。白い灰をどう洗うか」


 リリアは頷き、用意していた薬草を並べる。


 白露草。

 銀葉ミント。

 月桂花。

 それから、聖月草の芽の周囲に落ちた朝露を一滴だけ。


 普通の水では足りない。


 昨日、地下香炉の灰を確かめた時に感じた。


 必要なのは、澄んだ水。


 古い水路に通じる、地下清水の香り。


「まずは白露草で、表面の濁りをほどきます」


 リリアは小箱を開けてもらい、白い灰の入った小瓶を見つめた。


 まだ苦い残り香がある。


 黒い願いの名残。

 腐らされた聖月草の痛み。


 それを無理に消すのではなく、外へ逃がしていく。


 リリアは白露草を朝露に浸し、小瓶の口元に近づけた。


 灰そのものに触れない。

 香りだけを通す。


 白露草の澄んだ香りが、小瓶の中へゆっくり流れ込む。


 最初に出てきたのは、焦げた匂いだった。


 セシリアの願いではない。

 もっと強い、もっと古い欲。


 選ばれたい、ではない。


 支配したい。

 失いたくない。

 自分のものにしたい。


 リリアの指先が冷える。


「マルド神官長の香りです」


 リリアが言うと、ノアの表情が険しくなった。


「やはり濃いか」


「はい。この灰に残った黒い部分は、ほとんど神官長様の願いに近いです」


 アリアが素早く記録する。


「内容は?」


「支配。所有。聖香を王都だけのものにしたい、という感じです」


 ガレスが鼻を鳴らす。


「聖香を独占しようとして、聖香を腐らせたわけか。皮肉じゃな」


 小瓶の中の灰が、かすかに震えた。


 白露草の香りに反応し、黒い靄が少しだけ浮き上がる。


 リリアは銀葉ミントを重ねた。


 青い風の香りが、黒い靄を薄めていく。


 少しずつ。

 本当に少しずつ。


 灰の白さが、先ほどより澄んでいく。


 だが、途中でぴたりと動きが止まった。


「……ここまでです」


 リリアは息を吐いた。


「これ以上は、この水では無理です」


「朝露でも足りんか」


「はい。地下香炉の灰にあった水の香りが必要です。古城の古い水路にある清水だと思います」


 ノアが頷く。


「古い水路の入口は、地下香炉の奥へ向かう通路の手前にあるはずだ」


 リリアは思わず顔を上げた。


「昨日の黒い扉の方ですか?」


「黒い扉そのものへは入らない。水路へ繋がる横道があると記録にあった」


「記録が残っているのですか?」


「断片だけだ。三十年前の崩落で失われた区画として、古城の古図に記されている」


 ガレスが腕を組む。


「行くしかないのう。聖月草を育てるにも、灰を洗うにも、その水が必要なら」


 ノアはすぐにリリアを見た。


「同行は必要か」


 リリアは深く息を吸った。


 怖い。


 地下へ降りるのは怖い。


 黒い扉の奥から聞こえた声を、まだ覚えている。


 けれど、香りを読める者がいなければ、清水を見つけることは難しい。


「必要だと思います」


「では、準備して行く。今日の目的は水路の確認だけだ。黒い扉には近づかない」


「はい」


「疲れたら言う」


「はい」


「怖い時も」


 リリアは少しだけ微笑んだ。


「はい。言います」


 古城の地下へ降りる準備は、昼前に整った。


 同行者は、ノア、リリア、ガレス、カイル、ルゥ。


 エルヴィンは王都護衛騎士たちの監督と証言書の整理のため、地上に残ることになった。


 セシリアは体力が戻っておらず、客室で休んでいる。


 出発前、彼女は廊下でリリアを待っていた。


 顔色はまだ悪い。

 けれど、昨日より香りが少しだけ落ち着いている。


「お姉さま」


 リリアは足を止めた。


「何でしょうか」


 セシリアは両手を胸の前で握る。


「水路へ行くと聞きましたわ」


「はい」


「……気をつけてくださいませ」


 その言葉は、とてもぎこちなかった。


 何かを頼むでもなく、泣くでもなく、ただ心配している。


 そんな言葉を、セシリアから聞いたのは初めてかもしれない。


 リリアは少し驚き、それから小さく頷いた。


「ありがとうございます」


 セシリアの目が揺れる。


「私、まだ何を言えばいいのか分かりませんわ。謝っても、心配しても、全部今さらのようで……」


「今さらだと思います」


 リリアが正直に言うと、セシリアは少しだけ息を呑んだ。


 だが、リリアは続けた。


「でも、今さらでも、言わないよりはいいと思います」


 セシリアは唇を噛み、ゆっくり頷いた。


「……はい」


 リリアはそれ以上言わず、ノアたちのもとへ向かった。


 背後でセシリアの香りが、少しだけ苦く、でも焦げずに揺れた。


 地下香炉の広間は、昨日と同じく静かだった。


 中央の白い香炉には、リリアの香炉石がはめ込まれている。


 側面に浮かんだ古い文字――香律師リリアへ――は、今も淡く光っていた。


 リリアはその文字を見るたび、胸がざわつく。


 なぜ自分の名があるのか。


 まだ分からない。


 けれど、今日はそこに立ち止まらない。


「水の香りは?」


 ノアが問う。


 リリアは広間の空気を確かめた。


 古い灰。

 眠った薬草。

 白い香炉。

 黒い扉の奥から漂う甘い闇。


 そして、その闇の横を細く流れる澄んだ香り。


「あちらです」


 リリアは黒い扉の正面ではなく、左奥の壁を指した。


 そこには、崩れかけた石柱と薬草紋の彫られた壁がある。


 カイルが灯りを近づける。


「あ、ここ、隙間があります」


 蔦の根のような古い石の線を押すと、壁の一部がわずかに動いた。


 重い音を立てて、細い通路が現れる。


 中から冷たい空気が流れた。


 リリアは目を閉じる。


 水。


 確かに、水の香りがする。


 ただし、完全に澄んではいない。


 奥の方で、何かに塞がれている。


「黒い根もあります。でも、まだ水を飲み込んではいません」


「進めるか」


「はい。慎重に」


 通路は狭く、湿っていた。


 壁には水路の跡があり、昔は清水がここを流れていたのだと分かる。


 しかし今、水はほとんどない。


 床の溝には、ほんの少し湿り気が残るだけ。


 その代わり、壁の隙間から黒い根が細く伸びている。


「枯れた水路……」


 カイルが呟く。


 ガレスが顔をしかめた。


「三十年前に止まったのかもしれん」


 リリアはしゃがみ込み、溝の底に指を近づけた。


 触らない。


 香りだけを読む。


 石の奥には、まだ水がいる。


 流れたがっている。

 けれど、どこかで詰まっている。


「この水路は死んでいません」


 リリアは言った。


「薬草園と同じです。息ができないだけ」


 ノアが頷く。


「詰まりを探す」


 一行はさらに奥へ進んだ。


 通路の途中、壁に古い文字が刻まれていた。


 リリアには読めない。


 ガレスが灯りを近づける。


「古い香律師の記録じゃな。ええと……“清水は香を運び、香は地を鎮める”」


「清水が香りを運ぶ……」


 リリアはその言葉を繰り返した。


 地下香炉を満たすには、ただ薬草を焚くだけでは足りないのかもしれない。


 聖月草の香りを、水が運ぶ。

 古城の土地へ。

 薬草園へ。

 井戸へ。


 だから水路が必要なのだ。


 さらに奥へ進むと、急に空気が冷たくなった。


 通路の先に、小さな泉があった。


 石に囲まれた円形の泉。


 天井から水が一滴、また一滴と落ちている。


 その水は、リリアが今まで嗅いだどの水よりも澄んだ香りを持っていた。


 冷たい。

 清らか。

 雨に濡れた白い石。


「これです……」


 リリアの声が震える。


 地下香炉の灰に残っていた、あの水の香り。


 聖月草を育てるための水。


 白い灰を洗うための水。


 けれど、泉の奥は黒い根で塞がれていた。


 水が湧き出る穴に、黒い根が絡みついている。


 完全には塞いでいない。

 だから今も一滴ずつ落ちている。


 でも、このままでは流れない。


「根が水を止めています」


 リリアが言うと、ルゥが低く唸った。


 額の月の紋が光る。


 黒い根が、その光を嫌うようにわずかに蠢いた。


 ノアが剣を構える。


「切れないな」


「はい。切ると水に呪いが散ります」


「では、ほどくしかないか」


 リリアは泉の前に膝をついた。


 怖い。


 でも、この水を戻さなければ、香炉は満たせない。


 聖月草も育たない。


「白露草をください。銀葉ミントは少し。地下香炉の灰は使わず、聖月草の朝露を一滴」


 ガレスが薬草を渡す。


 リリアは朝に集めた小瓶を取り出した。


 聖月草の葉先に宿っていた、白銀の朝露。


 それを白露草へ落とす。


 ふわりと澄んだ香りが広がった瞬間、泉の水面が震えた。


 黒い根が反応する。


 嫌がっている。


「ルゥ、月の光を少しだけ」


 ルゥが泉の縁に前足を乗せた。


 月の紋が淡く輝き、白露草の香りと重なる。


 リリアは黒い根へ直接触れず、泉の水面に香りを落とした。


「これは、あなたの水ではありません」


 静かに言う。


「この水は、薬草を育てるためのもの。眠る土地を起こすためのもの。あなたが塞いでいいものではありません」


 黒い根が震える。


 奥から、甘く焦げた声がした。


 ――流せば、香炉が満ちる。


 リリアの手首が痛む。


 ――香炉が満ちれば、扉が閉じる。


 声は笑っていた。


 ――だから、流させない。


 泉の奥の黒い根が、一斉に動いた。


 リリアへ伸びる。


「リリア!」


 ノアの声。


 だが、リリアは下がった。


 昨日の訓練通りに、一歩。


「来ます!」


 声を出す。


 ノアの剣が根の進路を弾き、カイルが盾で押さえる。


 ルゥが吠え、月光が泉の水面に広がる。


 リリアは息を整えた。


 一人で触れない。

 一人で抱えない。


 皆がいる。


「水の香りを、戻して」


 リリアは聖月草の朝露を、泉へ落とした。


 一滴。


 それだけだった。


 けれど、水面に白銀の波紋が広がった。


 泉の奥で、ぽん、と小さな音がする。


 黒い根の一部がほどけた。


 天井から落ちる水滴が、少し増える。


 一滴。

 二滴。

 三滴。


 ちょろり、と細い流れが戻った。


 カイルが声を上げる。


「流れた!」


 ガレスが目を見開く。


「まだ細いが……生き返ったぞ」


 リリアは泉の香りを確かめた。


 完全ではない。


 黒い根はまだ奥に残っている。


 でも、水は動き始めた。


 止まっていた香りが、ほんの少し流れた。


「今日できるのは、ここまでです」


 リリアは自分で言った。


 言ってから、自分で少し驚く。


 以前なら、もっとやらなければと思っただろう。


 今なら分かる。


 ここで無理をすれば、かえって壊す。


 ノアの目元が、わずかに和らいだ。


「いい判断だ」


 リリアは小さく頷いた。


 泉から小瓶に清水を汲む。


 ほんの少しだけ。


 それでも、白い灰を洗うには十分な量だ。


 リリアは小瓶を胸に抱いた。


 その時、泉の縁に刻まれていた文字が、白銀の光を帯びた。


 古い文字。


 今度はリリアにも、なぜか読めた。


 ――清水を継ぐ者、セレナ・エルム。


 リリアの息が止まった。


「エルム……?」


 母の姓。


 いや、リリアの家名。


 セレナ。


 リリアの母の名だった。


「お母さま……?」


 泉の水面が揺れる。


 そこに、一瞬だけ女性の姿が映った。


 優しい手。

 淡い髪。

 薬草の香り。


 幼いリリアの記憶に残る、母の面影。


 水面の女性は、唇だけを動かした。


 ――リリア。


 声は聞こえなかった。


 けれど、確かに呼ばれた。


 次の瞬間、水面が黒く揺らぐ。


 奥から黒い根が再び蠢き、映像は消えた。


 ノアがすぐにリリアの前へ出る。


「撤収する」


 リリアは小瓶を握りしめたまま頷いた。


 胸が震えている。


 古い水路。

 清水。

 香炉石。

 そして母の名。


 母は、ただの薬草好きではなかったのかもしれない。


 香律師の血筋。


 清水を継ぐ者。


 その手がかりが、古城の地下に眠っていた。


 地上へ戻る階段を上りながら、リリアは小瓶の中の澄んだ水を見つめた。


 水は静かに揺れている。


 まるで、遠い母の声をまだ抱いているようだった。

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