第26話 母の名を抱く清水
地上へ戻った時、リリアの手の中には小さな瓶があった。
古城地下の水路で汲んだ、澄んだ清水。
瓶の中で揺れる水は、ただ透明なだけではない。
月光を細く溶かしたように、かすかな白銀の光を宿している。
リリアはそれを胸に抱えたまま、薬草園へ戻った。
足元ではルゥが何度もこちらを振り返る。
心配しているらしい。
先ほど泉の水面に映ったもの。
――清水を継ぐ者、セレナ・エルム。
母の名。
そして、水面に一瞬だけ現れた母の面影。
その光景が、ずっと胸の奥で揺れていた。
「リリア」
ノアの声で、リリアは足を止めた。
薬草園の入口だった。
「無理に作業へ入る必要はない」
「……分かっています」
「本当に分かっている顔ではない」
ノアは静かに言った。
リリアは少しだけ困って、瓶を握る手に力を込めた。
「でも、この水があれば、白い灰の濁りを落とせるかもしれません。聖月草の芽にも必要な水です。早く確認した方が……」
「確認はできる」
ノアはリリアの前に立った。
「だが、君が動揺したまま扱えば、香りも乱れるのではないか」
その言葉に、リリアは息を呑んだ。
反論できなかった。
香りは、心に引っ張られる。
特に今は、母の名を見たばかりだ。
嬉しいのか、怖いのか、寂しいのか、自分でも分からない。
そんな状態で、黒い願いの残った白い灰を扱えば、余計なものを混ぜてしまうかもしれない。
「……はい」
リリアは瓶を胸元で抱いたまま、ゆっくり頷いた。
「少し、落ち着いてからにします」
ノアの目元がわずかに和らぐ。
「それでいい」
ガレスが横から鼻を鳴らした。
「おお、珍しい。自分で止まったな」
「ガレスさんまで……」
「成長じゃ、成長」
カイルも後ろで頷いている。
「リリアさん、だいぶ訓練の成果出てますよ」
リリアは少し恥ずかしくなった。
けれど、嫌な気持ちではなかった。
自分で止まること。
休むこと。
助けを借りること。
それも、ここでは大切な仕事の一部なのだと、少しずつ分かってきた。
薬草園の作業机へ向かうと、アリアがすでに記録用の紙を整えて待っていた。
隣にはエルヴィンとセシリアの証言書も置かれている。
セシリアは少し離れた木椅子に座っていた。
顔色はまだ白いが、昨日よりは目に力が戻っている。
リリアが瓶を置くと、セシリアが小さく息を呑んだ。
「その水……」
「地下の古い水路で汲んできました」
リリアが答えると、セシリアは恐る恐る言った。
「とても、澄んだ香りがしますわ」
リリアは少し驚いた。
「分かるのですか?」
「はっきりではありません。でも、昨日まで身につけていた香り袋とは、全然違うのは分かります」
セシリアは胸元に手を当てた。
もうそこには、呪いの香り袋はない。
「今まで私は、強くて甘い香りほど聖香らしいのだと思っていました。貴族の方々も、その方が喜んでくださるから」
彼女の声は小さい。
「でも、これは……静かなのに、目が覚めるような香りですわ」
リリアは瓶を見つめた。
「私も、そう思います」
王都大神殿の聖香は華やかだった。
人の目を引き、称賛を集めるための香り。
けれど、この清水の香りは違う。
目立たない。
飾らない。
ただ、濁りを流す。
母の香りに、少し似ていた。
リリアは深く息を吸った。
「始めます」
ノアがすぐ隣に立つ。
ガレスは白い灰の小箱を開き、アリアは筆を構えた。
ルゥは作業机の下に座り、額の月の紋を淡く光らせている。
リリアはまず、白露草を一枚、清水に浸した。
葉の上で水が白銀に光る。
そこへ銀葉ミントをほんの少し重ねる。
香りは、すぐに変わった。
白露草だけでは届かなかった深い部分へ、清水の冷たさが通っていく。
銀葉ミントの青い香りが、その流れを整える。
リリアは白い灰の小瓶を開けた。
苦い残り香が、わずかに立ちのぼる。
神官長マルドの願い。
支配したい。
所有したい。
聖香を王都のものにしたい。
その黒い濁りが、まだ灰の奥にこびりついている。
リリアは清水を含んだ白露草を、小瓶の口元へ近づけた。
「流れて」
小さく囁く。
水の香りが、灰の中へ細く入っていく。
すると、白い灰の表面に残っていた薄い黒ずみが、ふわりと浮いた。
煙ではない。
香りの澱だ。
それはしばらく小瓶の中で渦を巻き、やがて銀葉ミントの香りに触れて薄れていく。
リリアは急がなかった。
無理に引き剥がさない。
強く消そうとしない。
ただ、流す。
母が薬草を洗っていた時の手つきを思い出す。
幼い頃、リリアはよく母の隣に座っていた。
母は摘んできた薬草を清水で洗いながら、こう言っていた。
――強くこすったら、葉が傷むわ。汚れはね、流れる場所を作ってあげるの。
今になって、その言葉の意味が分かる気がした。
「お母さま……」
リリアの口から、小さく声が漏れた。
その瞬間、清水がふわりと光った。
白い灰の中に残っていた黒い澱が、また少しほどける。
ガレスが息を呑んだ。
「水が反応した……」
アリアも筆を止めずに言う。
「母君の名を呼んだ瞬間ですね」
リリアは瓶の水を見つめた。
ただの水ではない。
清水を継ぐ者、セレナ・エルム。
母がこの水路と関係していたのなら。
この水は、母の記憶を少しだけ抱いているのかもしれない。
「リリア」
ノアの声が静かに響く。
「続けられるか」
リリアは目元に少し熱を感じながらも、頷いた。
「はい。今は、大丈夫です」
今度は本当に大丈夫だった。
悲しい。
知りたい。
でも、香りは乱れていない。
むしろ、落ち着いている。
清水は白い灰をゆっくり洗い続けた。
ひと筋ずつ、黒い願いの残り香が抜けていく。
完全に消えるわけではない。
けれど、灰は少しずつ澄んだ白へ戻っていった。
やがて、灰の中から別の香りが立ち上がった。
聖月草の香り。
まだ弱い。
けれど、確かにある。
黒く腐らされた種の奥に、最後まで残っていた本来の香り。
リリアは胸が詰まりそうになった。
「戻ってきた……」
白い灰は、もう苦いだけではなかった。
雨に濡れた石。
淡い月光。
夜明け前の白い花。
聖月草の芽と同じ香りが、ほんの少しだけ蘇っている。
ガレスが感心したように唸った。
「これは使えるぞ。核にはならんが、地下香炉を満たす時に、香りを支える灰になる」
「どれくらい必要でしょうか」
「今ある量では足りん。だが、聖月草の芽が育てば補えるかもしれん。それと……この清水じゃ」
ガレスは清水の瓶を見た。
「水路をもっと流せれば、香炉の準備はかなり進む」
ノアが頷く。
「水路調査を継続する。ただし、少しずつだ」
リリアはすぐに返事をした。
「はい。今日の水路は、あれ以上進めると危険でした」
自分からそう言えた。
ノアの目元が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「その判断を続けろ」
「はい」
作業が一段落した頃、セシリアが静かに立ち上がった。
「リリアお姉さま」
リリアは顔を上げる。
セシリアは迷うように指先を握り、それから言った。
「私にも、何か記録を手伝わせてくださいませんか」
周囲が少し静かになった。
セシリアはすぐに言葉を重ねる。
「もちろん、薬草帳には触れませんわ。原本はお姉さまのものです。ただ、写しを作るとか、私が大神殿で見た聖香庫の状態を書き出すとか……そういうことなら、できるかもしれません」
リリアは少し迷った。
セシリアに記録を任せる。
以前なら、とても考えられなかった。
でも、今必要なのは王都大神殿の内側の情報だ。
リリアが見ていない聖香庫。
セシリアが使っていた調合皿。
神官長マルドから渡された香り袋。
祝福式前後の変化。
それは、セシリアにしか書けない。
「分かりました」
リリアはゆっくり頷いた。
「では、セシリアが覚えている大神殿の聖香庫の状態を、別紙に書いてください。日付が曖昧でも構いません。香り、色、割れた瓶の数、神官長様の指示。覚えていることを全部」
セシリアの目が揺れる。
「私の記録を、使ってくださいますの?」
「必要な情報なら」
リリアは静かに言った。
「ただし、嘘は書かないでください。分からないことは、分からないと書いてください」
セシリアは一瞬だけ泣きそうな顔になった。
「……はい。分かりましたわ」
アリアがすぐに紙と筆を差し出した。
「では、こちらへ。書いた内容は後で確認します」
セシリアはぎこちなく頷き、机の端で筆を取った。
その姿を、エルヴィンが少し離れた場所から見ていた。
彼はリリアに何か言いたそうだったが、結局口を開かなかった。
リリアも、何も言わなかった。
謝罪は受け取った。
でも、戻らない。
それでいい。
昼過ぎ、白い灰の浄化は一旦終わった。
清水は半分ほど残しておく。
聖月草の芽に、ほんの一滴だけ与えるためだ。
リリアは小瓶を持って、木箱の前にしゃがんだ。
「少しだけね」
聖月草の芽の根元へ、清水を一滴落とす。
土が白銀に光った。
芽がふるりと震え、葉を少し広げる。
香りが立つ。
先ほどより、わずかに強い聖月草の香り。
ルゥが嬉しそうに尻尾を振った。
「好きな香りなの?」
リリアが尋ねると、ルゥは当然というように鼻を鳴らした。
その様子に、リリアは笑った。
だが次の瞬間、聖月草の葉に小さな水滴が浮かんだ。
朝露とは違う。
白銀の滴。
その中に、一瞬だけ文字が浮かんだ。
古い文字。
けれど今度も、リリアには読めた。
――セレナの娘へ。
リリアの心臓が大きく鳴った。
「セレナの……娘……」
水滴の中で、文字が続く。
――香炉石は、欠けたのではない。分けられた。
リリアは息を止めた。
香炉石。
母の形見。
神殿で価値がないと言われ、セシリアに落とされ、欠けたと思っていたもの。
それが、もともと分けられたもの。
地下香炉の鍵として。
いや、もしかすると、もっと別の何かとして。
水滴の文字は、さらに揺れる。
――残りは、王都にある。
リリアは声を失った。
王都。
大神殿。
黒い根の本体がある場所。
そこに、香炉石の残りがある。
つまり、母の形見は最初から一つではなかった。
地下香炉に繋がる鍵の一部が、王都大神殿に残されている。
ノアがすぐにリリアの隣へ来た。
「何が見えた」
リリアは震える声で答えた。
「香炉石の残りが……王都にあると」
周囲の空気が一気に張りつめる。
ガレスが低く呟いた。
「香炉を満たすには、そちらも必要かもしれんな」
アリアが真剣な顔になる。
「王都大神殿へ行く理由が、また増えたわね」
ノアはリリアを見た。
「今すぐ決める必要はない」
「はい」
リリアは胸元の香炉石を握った。
王都へ戻る。
その言葉を考えるだけで、まだ怖い。
けれど、以前のような“連れ戻される”恐怖とは違った。
もし行くのなら。
今度は、自分の意思で行く。
母の手がかりを探すために。
地下香炉を満たすために。
腐った聖香を正すために。
聖月草の葉の上で、水滴が静かに消えた。
残ったのは、澄んだ清水の香り。
そして、遠い母の声のような温かさだった。




