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第27話 連れ戻されるのではなく

 香炉石の残りが、王都にある。


 その言葉は、薬草園の空気を静かに変えた。


 聖月草の葉の上に浮かんでいた白銀の水滴は、もう消えている。

 けれど、そこに残った香りは確かだった。


 清水。

 聖月草。

 そして、遠い母の気配。


 リリアは胸元の香炉石を握った。


 欠けた石だと思っていた。

 母の形見を、セシリアに落とされて傷つけられたのだと思っていた。


 けれど、違った。


 この香炉石は、最初から分けられていた。


 地下香炉の鍵として。

 古城の清水と、聖月草と、王都大神殿に残された何かを繋ぐものとして。


 ならば、母はなぜそれをリリアに託したのか。


 なぜ王都に残りがあるのか。


 母は、王都大神殿と何の関わりがあったのか。


 考えれば考えるほど、胸の奥がざわつく。


「リリア」


 ノアの声がした。


 リリアははっと顔を上げる。


 自分が黙り込んでいたことに、ようやく気づいた。


「すみません。少し、考えてしまって」


「謝ることではない」


 ノアは静かに言った。


「母君の手がかりだ。動揺して当然だ」


 その言葉に、リリアの胸が少しだけ緩む。


 神殿にいた頃、母の話をすると、たいてい誰かが困った顔をした。


 亡くなった人のことをいつまでも。

 古い形見にこだわって。

 そんな空気を感じて、リリアはいつしか母の話をしなくなった。


 けれどノアは、当然だと言ってくれる。


 リリアが母の手がかりに揺れることを、弱さではなく、人として自然なことだと扱ってくれる。


「王都に……行く必要があるのですね」


 リリアは小さく言った。


 その瞬間、胸の奥が冷たくなる。


 王都。


 大神殿。

 白い廊下。

 祝福式の大広間。

 婚約破棄を告げられた場所。


 あの場所へ戻る。


 考えただけで、喉が詰まりそうになった。


 だが、すぐにノアが言った。


「今すぐではない」


 リリアは彼を見る。


「だが、いずれ必要になる可能性は高い。香炉石の残りが本当に王都大神殿にあるなら、地下香炉を満たすためにも、黒い根の本体を断つためにも、避けられない」


「はい」


「ただし」


 ノアの声が少しだけ低くなる。


「君を連れ戻す形にはしない」


 リリアの指先が震えた。


 連れ戻す。


 その言葉は、これまでずっとリリアを縛っていた。


 神殿へ戻れ。

 罪を認めろ。

 役目を果たせ。

 誰かのために、また香りを整えろ。


 けれどノアは、はっきり否定した。


「君が行くなら、君の意思で行く。レーヴェン古城の香律調査協力者として、必要な準備を整えて行く」


 リリアは胸元の香炉石を握りしめた。


「私の、意思で……」


「ああ」


 ノアは真っ直ぐに頷いた。


「王都大神殿の要求に従うのではない。こちらが調査に向かう」


 その違いが、リリアの中でゆっくり形になった。


 連れ戻されるのではない。


 戻されるのでも、引き渡されるのでも、裁かれに行くのでもない。


 自分で行く。


 母の手がかりを探すために。

 地下香炉を満たすために。

 腐った聖香を正すために。


 怖いことに変わりはない。


 でも、その怖さの中に、小さな芯が生まれた気がした。


「行くなら、準備をしたいです」


 リリアは言った。


 声はまだ少し震えていた。


 けれど、言えた。


「香炉石のこと、母のこと、大神殿の聖香庫のこと。分かるだけ記録を整理してから。それと、聖月草の芽を置いていくなら、守る方法も考えないと」


 ガレスが腕を組んで頷いた。


「そこじゃな。聖月草の芽は、まだ動かせん。黒い根に狙われる以上、古城に残すなら守りを固める必要がある」


「ルゥも、ずっと無理をさせられません」


 リリアが足元を見ると、ルゥは少し不満そうに耳を動かした。


 自分はもっと働ける、と言いたげだ。


「だめよ。あなたが倒れたら、聖月草も子どもたちも困るでしょう?」


 ルゥはしばらくリリアを見上げ、やがて小さく鼻を鳴らした。


 納得したというより、今回は聞いてやる、という態度だった。


 カイルが小声で笑う。


「守護獣様、リリアさんには弱いですね」


「カイル」


「はい、黙ります」


 薬草園に少しだけ柔らかな空気が戻る。


 アリアは記録板を抱え直しながら言った。


「王都へ行くなら、表向きの理由も必要ね。大神殿への抗議と照会、呪香持ち込みの証拠提出、香炉石の所有権確認……いくつか並べられるわ」


「所有権、ですか」


 リリアが聞き返すと、アリアは真剣な顔で頷いた。


「大事よ。王都側は、あなたの香炉石や薬草帳を“神殿のもの”と主張する可能性がある。香炉石の残りが大神殿にあるなら、なおさらね」


 リリアの胸が小さく冷える。


 確かに、セシリアは薬草帳のことを神殿の記録ではないかと言った。


 香炉石も、神殿側が所有物だと主張するかもしれない。


「でも、この石は母の形見です」


「だから証明が必要なの」


 アリアの声は優しいが、内容は厳しい。


「母君がどこでこれを得たのか。誰から受け継いだのか。王都に残りがあるなら、なぜ分けられたのか。可能な限り記録と証言を集めておくべきね」


 リリアは頷いた。


 今なら分かる。


 大切なものほど、ただ大切だと抱えているだけでは守れないことがある。


 記録する。

 証明する。

 味方と共有する。


 それも、守るための香りなのだ。


「セシリアに、母のことを聞いてみます」


 リリアが言うと、周囲が少し静まった。


 セシリアはリリアの義妹だ。

 同じ屋敷で育ったが、母の記憶について話すことはほとんどなかった。


 リリア自身も避けていた。


 母の話をすると、自分だけが別の場所に立っているような気がしたから。


 けれど、屋敷に残っていた物や、父が隠していた話を、セシリアが何か知っているかもしれない。


「無理をしなくていい」


 ノアが言う。


「はい。でも、必要なら聞きます。一人では聞きません」


「なら、同席する」


 即答だった。


 リリアは少し驚き、それから胸が温かくなった。


「ありがとうございます」


「礼ではない」


「言いたいので」


 そう言うと、ノアはほんの少しだけ目元を和らげた。


 午後、リリアは西棟の客室を訪れた。


 ノアとアリアが同席し、部屋の外にはカイルが控えている。


 客室の中で、セシリアは椅子に座っていた。


 机の上には、彼女が書きかけた記録が置かれている。


 聖香庫で割れた瓶の数。

 温室の白露草が黒ずみ始めた時期。

 神官長マルドから香り袋を渡された日。

 祝福式前に、聖香の香りが一度だけ妙に甘くなったこと。


 文字はところどころ震えている。


 それでも、書いていた。


「お姉さま」


 セシリアは立ち上がろうとして、少しふらついた。


「座ったままで大丈夫です」


 リリアが言うと、セシリアは小さく頷く。


 以前の彼女なら、弱った自分を見せる時も美しく見せようとしただろう。

 今は、そうする余裕もないようだった。


 リリアは向かいの椅子に座った。


「聞きたいことがあります」


「はい」


「私の母、セレナ・エルムについてです」


 セシリアの表情が変わった。


 驚き。

 気まずさ。

 そして、少しだけ怯え。


「お母様……いえ、お姉さまのお母様のことですか」


「はい。あなたは何か聞いたことがありますか。屋敷に残っていた物や、父が話していたことでも構いません」


 セシリアは指先を握りしめた。


「私は……あまり聞かされていません。お父様は、その方の話をすると、いつも黙ってしまいましたから」


 やはり、とリリアは思った。


 父は、母の話を避けていた。


 リリアが母の薬草帳を読んでいると、苦い顔をした。

 香炉石を大切にしていると、そんな古いものにこだわるなと言った。


「ただ」


 セシリアが小さく続ける。


「一度だけ、聞いたことがあります」


 リリアは息を止めた。


「何を?」


「お父様が、神官長マルド様とお話ししていた時です。私は廊下にいて……盗み聞きするつもりではありませんでした。ただ、私の名前が出るかと思って」


 セシリアは恥じるように目を伏せた。


 リリアは責めなかった。


「その時、神官長様が言ったのです。“セレナの娘は、まだ香炉石を持っているのか”と」


 リリアの心臓が大きく鳴った。


 ノアの表情も険しくなる。


「マルドが、母の名前を?」


「はい。お父様は、“あれは欠けた石にすぎない。リリアが手放さないだけだ”と答えていました」


 リリアは胸元の香炉石を握った。


 父は知っていた。


 母の香炉石を、神官長が気にしていたことを。


 それでもリリアには何も言わなかった。


「その後、神官長様は?」


「“欠けたままなら構わない。だが、王都の石と響き合うようなら知らせなさい”と」


 王都の石。


 香炉石の残りだ。


 リリアは息を呑んだ。


 アリアがすぐに記録する。


 ノアは低く問う。


「その会話はいつ頃だ」


 セシリアは考え込む。


「祝福式の半年ほど前だったと思います。私が聖香師見習いとして正式に推薦される少し前です」


「その推薦は誰が?」


「神官長様です」


 部屋の空気が重くなる。


 繋がっていく。


 マルドはリリアの香炉石を知っていた。

 セレナの名を知っていた。

 王都に残る石の存在も知っていた。


 そして、セシリアを聖香師見習いに推薦した。


 リリアではなく、セシリアを。


「神官長様は、私に言いました」


 セシリアの声が震える。


「“君は表に立つ香りを持っている。リリアは裏で香りを整えればいい”と」


 リリアの胸が冷えた。


 裏で整えればいい。


 セシリアは表。

 リリアは裏。


 神官長は最初から、そう配置していたのか。


 リリアの力を表に出さず、セシリアの名で使うために。


「私は、その言葉が嬉しかったのです」


 セシリアは涙を浮かべた。


「やっと私が選ばれたと思いました。お姉さまが何か言っても、神官長様は私を見てくださると……」


「セシリア」


 リリアは静かに呼んだ。


 セシリアがびくりとする。


「それは、あなたが悪かった部分もあります。でも、神官長様に利用された部分もあると思います」


 セシリアの瞳が揺れる。


「私は、あなたをすぐには許せません。でも、何がどう利用されたのかは、はっきりさせたいです」


「……はい」


 セシリアは小さく頷いた。


「私も、知りたいです。自分が何を信じていたのか」


 その言葉は弱々しかったが、嘘の匂いではなかった。


 リリアは少しだけ息を吐く。


「もう一つ、聞きます。屋敷に、母の持ち物は残っていますか?」


 セシリアは考え込んだ。


「ほとんど処分されたと聞いています。でも……」


「でも?」


「屋根裏に、古い木箱がありました。お父様が触るなと言っていた箱です。中身は見たことがありません。でも、蓋に月と香炉の模様がありました」


 リリアは立ち上がりそうになった。


 すぐに自分で止まる。


 一歩下がる必要はない。

 けれど、勢いで動かない。


 息を吸う。


「その木箱は、まだ屋敷に?」


「分かりません。ただ、私が神殿へ入る前にはありました」


 アリアが言った。


「王都へ行く前に、エルム家の屋敷も調べる必要がありそうね」


 ノアが頷く。


「大神殿へ直接入る前に、母君の遺品を確認する方がいいかもしれない」


 リリアは胸元の香炉石を握った。


 母の木箱。


 月と香炉の模様。


 もしそこに、母の記録が残っているなら。


 香炉石のことも、清水のことも、王都の石のことも、分かるかもしれない。


「王都へ行く前に、やることが増えました」


 リリアは言った。


 怖さよりも、知りたい気持ちが少しだけ強くなっている。


 それに気づいて、自分でも驚いた。


 ノアは静かに言う。


「準備を整える。急がないが、止まらない」


「はい」


 セシリアが小さく口を開いた。


「あの……お姉さま」


「何でしょう」


「もし屋敷へ行くなら、私も……」


 言いかけて、彼女は自分で首を横に振った。


「いえ。今の私が言えることではありませんわね」


 リリアは少し考えた。


 セシリアを連れて行けば、父との話や屋敷の案内に役立つかもしれない。

 けれど、リリアの心がまだ追いつかない。


 今は無理をしない。


「必要になったら、お願いします」


 リリアはそう答えた。


 セシリアは一瞬だけ目を見開き、それから小さく頷いた。


「……はい」


 夕方。


 リリアは薬草園で、母の薬草帳を開いた。


 清水のこと。

 白い灰の浄化。

 セシリアの証言。

 父と神官長の会話。

 屋根裏の木箱。


 記録することは山ほどあった。


 ペンを走らせながら、リリアはふと思う。


 母も、こうして記録していたのだろうか。


 誰にも言えないことを。

 守らなければならない香りを。

 いつか娘が読むかもしれない手がかりを。


 そう思うと、胸が熱くなる。


 その時、母の薬草帳の古いページが、風もないのに一枚めくれた。


 リリアは息を呑む。


 開いたのは、幼い頃に何度も見たはずのページだった。


 白露草の乾燥方法。

 銀葉ミントの保存温度。

 月桂花の採取時期。


 だが、ページの端に、今まで見えなかった文字が浮かんでいた。


 清水の光に反応したのだろうか。


 薄い白銀の文字。


 リリアは震える声で読み上げた。


「……リリアが、自分の香りを信じられる日が来たら」


 文字は続いていた。


 ――王都の石を探しなさい。


 リリアの胸が大きく鳴る。


 母の薬草帳に、隠されていた言葉。


 その下に、さらに短い一文が浮かび上がる。


 ――ただし、マルドを信じてはいけない。


 薬草園の空気が、一瞬で冷えた。


 リリアはページを見つめたまま、動けなかった。


 母は知っていた。


 神官長マルドを。


 そして、彼を信じてはいけない理由を。


 その答えはきっと、王都にある。

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