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第28話 母の薬草帳に眠る警告

 ――ただし、マルドを信じてはいけない。


 母の薬草帳に浮かんだその一文を、リリアは何度も読み返した。


 白銀の文字は、紙に ink で書かれているわけではない。

 清水の香りに反応して、古い紙の繊維の奥から浮かび上がっている。


 だからだろうか。


 その文字は、まるで母の声そのものが紙の上に残っているように見えた。


 リリアは息をするのも忘れて、ページに指を近づける。


 触れる直前で止めた。


 消えてしまいそうで怖かった。


 母が自分に残してくれたかもしれない言葉。


 ずっと、そこにあったのだ。


 白露草の乾燥方法。

 銀葉ミントの保存温度。

 月桂花の採取時期。


 何度も何度も読んだページの端に、母は警告を隠していた。


 リリアが、自分の香りを信じられる日が来たら。


 王都の石を探しなさい。


 ただし、マルドを信じてはいけない。


「……お母さま」


 リリアの声は震えていた。


 懐かしさではない。


 寂しさでもない。


 胸の奥に、ずっと眠っていたものが目を覚ましたような震えだった。


 母は知っていた。


 神官長マルドのことを。

 王都にある香炉石の残りを。

 そして、リリアがいつか自分の香りを信じる日が来ることを。


 リリアは今まで、母の薬草帳をただの形見だと思っていた。


 母が残した知識。

 母が愛した薬草。

 母の手の温度。


 でも、違った。


 これは手紙でもあったのだ。


 未来のリリアへ向けた、長い長い手紙。


「リリア」


 ノアの声がした。


 いつの間にか、彼が隣に立っていた。


 薬草園の夕方の光が、ノアの黒い外套に淡く落ちている。


 彼はページを覗き込もうとはしなかった。

 ただ、リリアの顔色を見ている。


「大丈夫か」


 その問いに、リリアはすぐには答えられなかった。


 大丈夫。


 そう言いそうになって、止める。


 今はたぶん、大丈夫ではない。


 でも、壊れそうというわけでもない。


 リリアは胸元の香炉石を握った。


「……驚いています」


 正直に言う。


「母が、マルド神官長のことを知っていたなんて。王都の石のことも。私に、こんな言葉を残していたなんて」


 ノアは静かに頷いた。


「それだけ重要なことだったのだろう」


「はい。でも、なぜ今まで浮かばなかったのでしょう」


「清水が鍵だったのではないか」


 リリアは薬草帳のページを見る。


 地下水路の清水。


 清水を継ぐ者、セレナ・エルム。


 母の名を抱いた水が、母の文字を起こした。


「母は、私が清水にたどり着くことまで見越していたのでしょうか」


「あるいは、たどり着ける者にだけ読めるようにした」


 その言葉に、リリアは胸がきゅっと締めつけられた。


 自分の香りを信じられる日が来たら。


 母はそう書いた。


 つまり、昔のリリアには読めなかったのだ。


 自分の感覚を疑い、誰かに否定されるたびに黙り込んでいたリリアには。


 でも今は。


 怖いと言える。

 助けを呼べる。

 自分の記録を差し出さず、守れる。

 戻らないと、自分の言葉で言える。


 だから、文字が浮かんだのかもしれない。


 そう思うと、胸の奥に熱いものが広がった。


「ノア様」


「なんだ」


「私……少しは、母に近づけているのでしょうか」


 口にしてから、恥ずかしくなった。


 けれど、ノアは笑わなかった。


 いつものように、真面目に考えてから答えた。


「近づく必要があるのかは分からない」


 リリアは目を瞬かせる。


 ノアは続けた。


「君は母君ではない。だが、母君が残したものを受け取れる場所まで来た。それは、君自身の力だと思う」


 リリアは言葉を失った。


 母に近づきたい。


 母のようになりたい。


 ずっと、そう思っていたのかもしれない。


 でも、ノアはリリア自身の力だと言ってくれる。


 母の影ではなく。


 誰かの代わりでもなく。


 リリアとして。


「……ありがとうございます」


「礼か」


「はい。言いたいので」


 ノアの目元が、ほんの少しだけ和らいだ。


 その時、薬草園の入口からガレスとアリアが駆け寄ってきた。


 リリアが呼んだのではない。

 けれど、白銀の文字が浮かんだ瞬間、聖月草の香りが揺れたらしく、二人とも異変に気づいたらしい。


「何があった」


 ガレスが薬草帳を覗き込み、すぐに目を見開いた。


「これは……隠し文字か」


「清水に反応して浮かびました」


 リリアが説明すると、アリアが素早く記録板を構える。


「読める内容をそのまま記録するわ。原本はリリアさんのものだから、触らない」


 その一言に、リリアはほっとした。


 以前なら、誰かに見せるだけで奪われるのではないかと怖かった。

 けれどアリアは、当然のように原本を守る前提で動いてくれる。


 リリアは文字を読み上げた。


「“リリアが、自分の香りを信じられる日が来たら。王都の石を探しなさい。ただし、マルドを信じてはいけない”」


 アリアの筆が止まる。


「かなり直接的ね」


 ガレスは腕を組み、苦い顔をした。


「セレナ殿は、マルドが危険だと知っておったわけじゃな」


「ガレスさんは、母を知っているのですか?」


 リリアが尋ねると、ガレスは少し眉を上げた。


「直接は知らん。だが、名前は聞いたことがある」


「母の名前を?」


「ああ。王都で若い頃、薬草師たちの間で噂になっておった。“香りを聞く娘がいる”とな」


 リリアは息を呑んだ。


 香りを聞く娘。


 それは、リリアが今していることと似ている。


「母も、香律を……?」


「おそらくな。ただ、当時は香律師という言葉自体、ほとんど表に出ておらんかった。神殿は聖香師を重んじ、香律師の記録は古いものとして封じかけていた」


「なぜ封じたのでしょう」


 アリアが低く言った。


「香律師がいると、聖香の嘘が分かるからでは?」


 その場が静まる。


 リリアは、王都大神殿の聖香を思い出した。


 華やかで、甘く、貴族たちに好まれる香り。


 けれどその奥には、濁りがあった。


 香律師は、それを嗅ぎ分ける。


 飾った香りの裏にあるものを。


 欲で腐った聖香を。


「母は、それに気づいたのでしょうか」


「可能性はある」


 ノアが言った。


「マルドを信じるなという警告を残すほどだ。母君は彼と何かあったはずだ」


 リリアの胸が重くなる。


 母は、なぜ亡くなったのか。


 リリアが幼い頃、病だったと聞かされた。

 弱って、静かに亡くなったのだと。


 でも本当に、ただの病だったのだろうか。


 リリアはその考えが浮かんだ瞬間、自分でぞっとした。


 怖い。


 母の死にまで、マルドが関わっていたら。


 そう思うだけで、手が冷える。


「リリア」


 ノアの声がすぐに届いた。


 リリアははっと息を吸う。


「怖いです」


 今度はすぐに言えた。


「母のことを知りたいのに、知るのが怖いです」


「それでいい」


 ノアは静かに答えた。


「怖いまま、急がず調べればいい」


 急がず。


 その言葉に、リリアは少し救われた。


 王都へ行かなければならない。

 母の木箱を探さなければならない。

 香炉石の残りを見つけなければならない。


 でも、今すぐ全部に飛び込まなくていい。


 一つずつ。


 香りをほどく時と同じだ。


 その日の夜、古城の会議室に関係者が集まった。


 ノア、リリア、ガレス、アリア、カイル。

 王都側からはエルヴィンとセシリア。


 机の上には、いくつもの記録が並べられている。


 大神殿からの追放通知。

 呪いが仕込まれた書状の記録。

 香り袋の残骸。

 聖香箱と黒い種の記録。

 白い灰の浄化記録。

 地下水路の清水。

 セシリアとエルヴィンの証言書。

 そして、母の薬草帳に浮かんだ警告文の写し。


 リリアはそれらを見て、胸が不思議な感覚に包まれた。


 自分一人の感覚だったものが、記録になっている。


 誰かに笑われて終わるものではなく、証拠として積み上がっている。


 アリアが全員を見回した。


「王都へ向かう前に、目的を整理します」


 商人らしい明瞭な声だった。


「第一に、エルム家の屋敷に残る可能性があるセレナ様の木箱を確認すること。第二に、王都大神殿にある香炉石の残りを探すこと。第三に、神官長マルドによる呪香関与の証拠を押さえること。第四に、大神殿の聖香腐敗が辺境由来ではないと示すこと」


 カイルが小さく口笛を吹きそうになり、ノアの視線でやめた。


「かなり大仕事ですね」


「大仕事だ」


 ノアは淡々と答える。


「だから準備が要る」


 エルヴィンが低く言った。


「王都に入るなら、私が案内できる。大神殿の門も、神官騎士としてなら通れる場所がある」


 ノアの目が鋭くなる。


「信用していいのか」


 エルヴィンは沈黙した。


 その問いを受け止めるように、しばらく目を伏せる。


「すぐに信用されるとは思っていない」


 彼は言った。


「だが、私自身も確かめたい。神官長が何をしていたのか。大神殿の聖香がなぜ腐ったのか。そして……私がどれだけ見誤っていたのか」


 リリアはエルヴィンを見た。


 その言葉に嘘の匂いは少ない。


 だが、まだ揺れている。


 後悔。

 責任感。

 それから、リリアへの未練に似たもの。


 その香りを嗅いでも、もう胸が大きく乱れることはなかった。


 リリアは静かに言った。


「案内はお願いするかもしれません。でも、私はあなたの判断だけに頼るつもりはありません」


 エルヴィンは痛みを堪えるように目を伏せた。


「分かっている」


 セシリアも小さく手を上げた。


「あの……私も、屋敷の中なら案内できます。屋根裏の木箱の場所も、たぶん覚えています」


 リリアは彼女を見る。


 セシリアの香りはまだ不安定だ。


 だが、昨日までの甘く焦げた濁りは薄い。


「ただし」


 セシリアは自分で続けた。


「私が一緒に行くことで、お姉さまがつらくなるなら、行きませんわ。場所だけ書きます」


 その言葉に、リリアは少し驚いた。


 セシリアが、リリアのつらさを先に考えた。


 それは小さな変化かもしれない。


 でも、確かに変化だった。


 リリアは少し考えた。


「今は、場所を書いてください。同行するかは後で決めます」


 セシリアは小さく頷いた。


「はい」


 アリアが満足そうに記録へ書き加える。


「では、王都行きの前段階として、エルム家屋敷の情報収集を優先。セシリア様から屋敷内の図を作成してもらう。エルヴィン様には大神殿内の動線と、聖香庫の位置関係を記録していただく」


 ガレスが白い灰の小瓶を手に言った。


「わしは聖月草の世話と灰の浄化を進める。王都へ行くまでに、香炉を満たす材料を少しでも整えておく必要がある」


「ルゥは古城に残すべきでしょうか」


 リリアが尋ねると、足元で丸くなっていたルゥがばっと顔を上げた。


 絶対に嫌だ、という顔だった。


 カイルが笑いをこらえる。


「守護獣様、同行希望のようです」


「でも、聖月草の芽を守る役目もあります」


 リリアは真剣に言った。


 ルゥは不満そうに耳を伏せる。


 ノアが少し考える。


「王都へ行く人数は絞る。ルゥの力が王都の石に反応する可能性もあるが、聖月草の護りが手薄になるのも危険だ」


「では、出発直前まで様子を見ましょう」


 リリアが言うと、ルゥは渋々といった様子で鼻を鳴らした。


 会議が終わる頃には、外はすっかり夜になっていた。


 廊下を歩きながら、リリアは薬草帳の写しを胸に抱いていた。


 ノアが隣を歩いている。


「疲れたか」


「少し。でも、今日は大丈夫です」


 そう言ってから、リリアは自分で付け足した。


「本当に」


 ノアの目元が少しだけ和らぐ。


「ならいい」


 リリアは窓の外を見た。


 薬草園には、聖月草を守る白銀の膜が薄く光っている。

 そのそばで、ルゥが丸くなっていた。


 古城の夜は、もう以前のようにただ重くはない。


 まだ呪いはある。

 黒い根も残っている。


 けれど、そこに白い光がある。


 リリアは静かに言った。


「王都へ行くのが、怖いです」


「ああ」


「でも、行きたいです」


 ノアは足を止め、リリアを見る。


「母のことを知りたい。香炉石の残りを探したい。大神殿の聖香が腐っているなら、止めたいです」


 言葉にすると、怖さの中にある芯が少し強くなった。


「連れ戻されるのではなく、自分で行きます」


 ノアは静かに頷いた。


「その時は、私も行く」


 リリアは目を瞬かせた。


「ノア様も?」


「当然だ」


「でも、古城は……」


「古城の守りは整える。私が行くべき案件だ」


 ノアは迷いなく言った。


「君を王都へ一人で行かせるつもりはない」


 胸が、どきりと鳴った。


 守るための言葉。


 それは分かっている。


 でも、そこに宿る温かさが、リリアの心を静かに揺らした。


「……心強いです」


「そう思ってくれるならいい」


 二人の間に、静かな時間が流れる。


 夜の廊下に、白露草の香りが微かに漂う。


 その時、遠くで鐘が一度鳴った。


 警戒鐘ではない。


 城門からの来訪を告げる鐘。


 こんな夜に。


 リリアとノアは同時に顔を上げた。


 すぐにカイルが廊下を駆けてくる。


「団長!」


「何だ」


「南街道から、王都の早馬です。ただし大神殿ではありません」


「誰だ」


 カイルは少し戸惑った顔で答えた。


「エルム家からの使者です。リリアさん宛てに、至急の書状を持ってきたと」


 リリアの心臓が大きく鳴った。


 エルム家。


 父の家。


 母の木箱が残っているかもしれない場所。


 ノアの表情が引き締まる。


「書状は」


「封蝋はエルム家のものです。ただ……」


 カイルは言いにくそうに続けた。


「封筒から、焦げた聖香とは違う香りがします。古い薬草と、血のような匂いです」


 リリアの手が、薬草帳を強く握った。


 母の隠し文字が浮かんだ、その夜。


 エルム家から届いた書状。


 偶然とは思えなかった。


 ノアが静かに言う。


「リリア、開けるかどうかは君が決めろ」


 リリアは震える息を吸った。


 怖い。


 でも、逃げない。


「開けます」


 声は小さかった。


 けれど、確かに自分の意思だった。

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