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第29話 血の匂いの手紙

 エルム家からの書状は、古城の小会議室へ運ばれた。


 夜の城内は静まり返っている。


 けれど、その静けさの中に、ただならぬ緊張が混じっていた。


 机の上に置かれた封筒。


 濃い緑の封蝋には、エルム家の紋章が押されている。

 蔦と小さな香草を組み合わせた古い紋章。


 リリアは、その紋章を久しぶりに見た。


 王都の屋敷。

 長い廊下。

 母の部屋の前に置かれていた花瓶。

 父の冷たい声。


 胸の奥が、少しだけ重くなる。


 けれど、今リリアの意識を奪っているのは懐かしさではなかった。


 香りだ。


 古い薬草。

 乾いた紙。

 そして、血の匂い。


 焦げた聖香ではない。

 黒蝶の甘い濁りでもない。


 けれど、確かに危険の匂いがする。


「リリア」


 隣に立つノアが言った。


「触らなくていい。必要なら私が開ける」


 リリアは封筒を見つめたまま、ゆっくり息を吸った。


 以前なら、きっと反射的に手を伸ばしていた。


 何が書かれているのか。

 誰が傷ついているのか。

 自分が確かめなければ。


 そう思って、前へ出ていた。


 でも今は違う。


 一歩、下がる。


 声を出す。


 一人で触らない。


「お願いします」


 リリアは小さく言った。


「私は香りを見ます。ノア様が開けてください」


 ノアは一度だけ頷いた。


 ガレスが白露草の布を机の周囲へ置き、アリアが記録用の紙を広げる。


 カイルは扉の前に立ち、ルゥは机の脚元で低く唸っていた。


 エルヴィンとセシリアも同席している。


 セシリアは封蝋の紋章を見た瞬間、顔を青ざめさせた。


「あれは……お父様の封ですわ」


「父の?」


 リリアが聞くと、セシリアは頷く。


「はい。家令や使用人が出す時の簡易封ではありません。お父様ご本人が出す時のものです」


 父が。


 リリアの手が膝の上で小さく震えた。


 父は、リリアへ手紙などほとんど書かなかった。


 神殿へ入ってからも、用件はいつも家令を通して伝えられた。

 体裁のための言葉。

 義務としての連絡。


 娘を心配するような手紙は、記憶にない。


 その父が、至急の書状を送ってきた。


 しかも、血の匂いを伴って。


 ノアが慎重に封を切った。


 その瞬間、古い薬草の香りがふわりと広がる。


 リリアは息を呑んだ。


「これは……母の薬草箱の香りです」


「分かるのか」


「はい。昔、母の部屋にあった箱と同じ香りがします。月桂花と、乾いた白露草と……少しだけ清水に似た香り」


 セシリアが顔を上げた。


「では、屋根裏の木箱……?」


 リリアの心臓が大きく鳴る。


 ノアは便箋を広げた。


 文字は乱れている。


 震える手で書かれたように、ところどころ線が歪んでいた。


 紙の端には、乾いた赤黒い染みがある。


 血だ。


 リリアは喉を鳴らした。


「読み上げるか」


 ノアが問う。


 リリアは少し迷い、それから頷いた。


「お願いします」


 ノアは静かに読み始めた。


「リリアへ。

 この手紙が届くなら、まだ間に合うかもしれない。私は、お前に伝えなければならないことを長く隠していた」


 リリアの胸が締めつけられる。


 父の言葉とは思えないほど、弱い書き出しだった。


「セレナの遺した木箱を、神官長マルドが求めている。今日、大神殿の使者が屋敷に来た。木箱を引き渡せと命じられた」


 セシリアが小さく息を呑む。


 ノアの声は淡々としているが、空気はさらに重くなった。


「私は拒んだ。

 拒むのが、あまりにも遅すぎたことは分かっている」


 リリアは机の端を見つめた。


 父が拒んだ。


 母の木箱を。


 それだけで、胸の中に複雑なものが広がった。


 父はずっと母の話を避けていた。

 香炉石も薬草帳も、古いものだと片づけた。

 リリアが母の香りを追うことを、快く思っていなかった。


 その父が、神官長に対して拒んだ。


「マルドは、セレナの箱に“王都の石”を起こす手がかりがあると言った。

 お前の持つ石と、王都の石が響き合い始めたのなら、もはや隠せないとも」


 リリアは胸元の香炉石を強く握った。


 王都の石。


 やはり、神官長は知っている。


「私は愚かだった。

 セレナが亡くなる前、彼女は私に言った。

 “リリアの香りを否定しないで。あの子はいずれ、自分の香りで選ぶ日が来る”と」


 リリアの目の奥が熱くなった。


 母が。


 そんなことを。


 父に。


 知らなかった。


 ずっと、自分だけが母の記憶にしがみついているのだと思っていた。


「だが私は恐れた。

 セレナが香律に関わったことで命を縮めたのだと思い、お前を同じ道から遠ざけようとした。

 その結果、お前の声を聞かなかった」


 リリアの呼吸が浅くなる。


 母が命を縮めた。


 香律に関わったことで。


 その言葉が、胸の奥に冷たい刃のように刺さった。


 ノアが一度、読み上げを止めた。


「続けるか」


 リリアは少し目を閉じた。


 怖い。


 でも、知りたい。


「……続けてください」


 ノアは頷き、続きを読んだ。


「リリア。

 お前を守るつもりで、私はお前から多くを奪った。

 セレナの話をせず、香炉石の意味を隠し、マルドが危険だと知りながら、神殿へ任せた。

 その罪は、私のものだ」


 セシリアが両手で口元を押さえた。


 エルヴィンも、顔を強張らせている。


 リリアはただ、文字の並ぶ紙を見つめていた。


 父から、こんな言葉を聞く日が来るとは思わなかった。


 謝罪。


 後悔。


 自分を守るつもりだったという言葉。


 受け取っていいのか分からない。


 許すかどうかも分からない。


 でも、父が初めてリリアへ向けて書いた本当の言葉だということだけは、香りで分かった。


 苦い。

 遅い。

 けれど、嘘ではない。


「屋敷の屋根裏にある木箱は、まだ神殿へ渡していない。

 だが、長くは守れない。

 屋敷の床下に黒い根が入り始めている。使用人の一人が倒れた。私も左腕を傷つけた」


 血の匂いは、父のものだったのだ。


 リリアは思わず立ち上がりかけた。


 けれど、机の下でルゥが小さく鳴く。


 はっとして、リリアは座り直した。


 慌てて動かない。


 今は、最後まで聞く。


「来るなと言うべきなのだろう。

 だが、来なければ木箱は奪われる。

 そして来れば、お前はマルドの罠に近づくことになる」


 リリアの手が震える。


 父は迷っている。


 助けを求めたい。

 でも、娘を危険に晒したくない。


 その迷いが、紙に染み込んでいた。


「だから選びなさい。

 お前が来ないことを選ぶなら、私は木箱を燃やす。

 お前が来ることを選ぶなら、エルム家の者としてではなく、セレナの娘として来なさい」


 セレナの娘。


 リリアの胸が大きく鳴った。


「最後に。

 屋根裏の木箱の鍵は、お前の薬草帳の中にある。

 セレナはそう言っていた。

 私はそれを、今まで信じなかった」


 リリアは思わず母の薬草帳へ手を伸ばした。


 薬草帳の中に鍵。


 そんなもの、見たことがない。


 しかし、清水に反応して隠し文字が浮かんだばかりだ。


 まだ見えていない何かがあるのかもしれない。


 ノアは最後の行を読み上げた。


「リリア。

 遅すぎる父で、すまなかった。

 それでも、もしお前が自分の香りで選べるなら、今度こそ、お前の選択を聞きたい」


 部屋に沈黙が落ちた。


 誰もすぐには口を開かなかった。


 書状の紙からは、古い薬草と血の匂いが漂っている。


 そして、その奥にごく薄く、母の清水の香りがあった。


 リリアは膝の上で手を握りしめた。


 父が傷ついている。

 屋敷に黒い根が入っている。

 母の木箱が奪われようとしている。


 今すぐ行かなければ。


 そう思う。


 けれど同時に、怖い。


 エルム家の屋敷へ戻ることも。

 父と向き合うことも。

 神官長の罠に近づくことも。


 胸の奥で香りが乱れそうになる。


 その時、ノアが静かに言った。


「今すぐ決めなくていい」


 リリアは顔を上げた。


「しかし、時間は多くない」


「はい」


「だから、急がずに早く決める」


 その少し不思議な言い方に、リリアは思わず瞬きをした。


 ノアは真顔だった。


「慌てて決めるのではない。必要な情報を確認し、行くなら準備して行く。だが、先延ばしにはしない」


 アリアが頷く。


「その通りね。手紙の内容から考えると、エルム家屋敷が先。大神殿より優先順位が上がったわ」


 ガレスも低く言う。


「木箱が奪われれば、王都の石も向こうに完全に握られる。そうなれば地下香炉を満たすのがさらに難しくなるじゃろう」


 セシリアが震える声で言った。


「屋根裏の木箱……私、場所を覚えています。屋敷の北側、古い書庫の上です。階段は隠し扉になっていて……」


 彼女はリリアを見た。


「私も行きますわ。案内できます」


 リリアはすぐには答えなかった。


 セシリアを連れて行く。


 エルム家の屋敷へ。


 母の木箱を探しに。


 その想像だけで、胸が複雑に揺れる。


 セシリアは、それを察したように唇を噛んだ。


「……いえ。やはり、私が一緒ではつらいですわね。地図を書きます」


 リリアは彼女を見た。


 以前なら、セシリアは自分が行くと言い張っただろう。

 自分の役目を作り、注目されようとしただろう。


 今は違う。


 少しずつだが、変わろうとしている。


「地図を書いてください」


 リリアは言った。


 セシリアの表情が沈む。


 だが、リリアは続けた。


「それを見て、必要だと判断したら同行をお願いします。今はまだ、決められません」


 セシリアは顔を上げた。


 そして、ゆっくり頷いた。


「はい。書きます」


 エルヴィンが口を開いた。


「私も同行する。エルム家から大神殿へ連絡が入っているなら、神殿騎士が動く可能性がある。王都の騎士の動きは私が読める」


 ノアが冷静に見る。


「同行を許可するかはこちらで決める」


「分かっている」


 エルヴィンはリリアへ視線を向け、それからすぐに伏せた。


 以前のように、当然のようにリリアの隣に立とうとはしない。


 それもまた、変化なのかもしれない。


 リリアは手紙を見つめた。


 父の言葉。


 母の木箱。


 薬草帳の中にある鍵。


 考えるべきことは多い。


「まず、薬草帳を調べます」


 リリアは言った。


「鍵が本当にあるなら、見つけなければいけません」


「一人では調べない」


 ノアが即座に言う。


 リリアは少しだけ笑った。


「はい。一人では調べません」


 小会議室の空気が、少しだけ和らいだ。


 その後、リリアは薬草帳を机の上に置いた。


 母の薬草帳。


 古い革表紙。

 セシリアに汚された染み。

 何度も開いたために柔らかくなった背。


 リリアは清水の小瓶を用意し、白露草を一枚添えた。


 ガレス、アリア、ノアが見守る中、リリアは薬草帳のページを一枚ずつ確認していく。


 白露草。

 銀葉ミント。

 月桂花。

 蜜根。

 聖水の扱い。

 香炉の手入れ。


 隠し文字は、すべてのページにあるわけではなかった。


 清水に反応しても何も出ないページがほとんどだ。


 だが、母の字が濃く残っているページでは、時折白銀の線が浮かんだ。


 ――香りは奪うものではなく、通すもの。

 ――濁りを見つけた時、恐れてもいい。黙ってはいけない。

 ――聖なる香りほど、人は名前をつけて所有したがる。


 母の言葉が、少しずつ現れる。


 リリアは読みながら、胸が熱くなっていった。


 母は、まるで今のリリアに向けて書いているようだった。


 いや。


 本当に、いつかのリリアに向けて書いたのだろう。


 自分の香りを信じられる日が来たら、読めるように。


 ページをめくる手が震える。


 やがて、最後の方にある空白の多いページで、清水が強く反応した。


 白銀の文字ではない。


 ページの中央に、細い線が浮かぶ。


 月。

 香炉。

 清水。

 そして、蔦のように絡む紋様。


 リリアは息を呑んだ。


「これ……地下香炉の紋様と同じです」


 ガレスが身を乗り出す。


「いや、少し違う。これは鍵紋じゃ」


「鍵紋?」


「隠し箱や封印扉を開く時に使う紋様じゃな。昔の香律師は、物理的な鍵より香りの鍵を使ったと聞く」


 アリアが興味深そうに言う。


「つまり、金属の鍵ではなく、この紋様と香りが鍵?」


「たぶん、そうです」


 リリアはページに浮かんだ紋様を見つめた。


 その中央に、小さなくぼみのような形がある。


 香炉石と似た形。


 しかし、完全には一致しない。


「香炉石だけでは足りない……?」


 リリアが呟いた瞬間、胸元の香炉石が温かくなった。


 ページの紋様が淡く光る。


 そして、薬草帳の背表紙から、かちりと小さな音がした。


「音が」


 カイルが声を上げる。


 リリアは慎重に薬草帳を持ち上げた。


 背表紙の内側。


 革と紙の間に、細い隙間ができている。


 ノアがすぐに言う。


「無理に開くな」


「はい」


 リリアは香りを確かめた。


 危険な匂いはない。


 古い薬草と、母の手の匂い。


 そして、清水。


「大丈夫そうです」


 ガレスが細い道具で隙間を開く。


 中から、小さな薄い板が滑り出した。


 銀でも木でもない。


 白い石のような、月光を固めたような薄片。


 表面には、母の香炉石と同じ紋様が刻まれている。


 リリアは息を止めた。


「これは……」


 薄片は、香炉石の欠けた部分にぴたりと重なる形をしていた。


 だが、完全に埋めるものではない。


 香炉石に重ねることで、別の紋様が浮かぶようになっている。


 リリアが震える手で香炉石に近づけると、二つは淡く光を放った。


 薬草帳のページに、新たな文字が浮かぶ。


 ――木箱を開く時、石を重ねなさい。

 ――ただし、王都の石が近くにある時、黒い根もまた目覚める。


 リリアは息を呑んだ。


 木箱を開く鍵は、確かに薬草帳の中にあった。


 だが、それは同時に警告でもある。


 王都の石に近づけば、黒い根も目覚める。


 エルム家の屋敷へ行くことは、やはり罠に近づくことでもあるのだ。


 ノアが静かに言った。


「行く準備をする」


 リリアは香炉石と薄片を見つめた。


 怖い。


 でも、もう逃げる選択はなかった。


 父が木箱を守っている。

 母の鍵が見つかった。

 王都の石が呼んでいる。


 そして何より、リリア自身が知りたい。


「行きます」


 リリアは言った。


「エルム家へ。母の木箱を開けに」


 ノアは頷いた。


「明朝出発する。今夜は休め」


「はい」


 今度は迷わず頷いた。


 行くために、休む。


 それも準備の一つだと、今なら分かる。


 その夜。


 王都にあるエルム家の屋敷では、床下を這う黒い根がまた一本、太くなっていた。


 屋根裏の古い木箱の周りで、月と香炉の紋様が淡く光る。


 その箱の中から、誰にも聞こえないほど小さな香りが漏れた。


 清水と、白露草と、母の祈りの香り。


 まるで、娘が来るのを待っているように。

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