第30話 エルム家の屋根裏へ
翌朝、レーヴェン古城の城門前には、二台の馬車が用意されていた。
一台はノアたちが乗る黒い馬車。
もう一台は護衛と荷を運ぶための馬車。
空は薄曇りだった。
南の方角――王都へ続く道の空だけが、少し重く見える。
リリアは旅装に着替え、胸元の香炉石を確かめた。
母の薬草帳から出てきた白い薄片は、小さな布袋に包んで首から下げている。
香炉石と重ねれば、母の木箱を開く鍵になる。
けれど同時に、黒い根を目覚めさせるかもしれない。
そう考えると、手が少し冷えた。
「リリア」
ノアの声がした。
振り返ると、彼はいつもの黒い外套をまとい、剣を腰に帯びていた。
「準備は」
「できています」
「怖いか」
リリアは一度だけ深く息を吸った。
「はい。怖いです」
それでも、今日は言葉の後に足が止まらなかった。
「でも、行きます」
ノアは頷いた。
「それでいい」
ルゥがリリアの足元に体を擦りつける。
白銀の子狼は当然のように同行するつもりでいた。
昨夜、ルゥを古城に残すかどうか、かなり話し合った。
聖月草の芽を守る力は必要だ。
しかし、王都の石や母の木箱に反応する可能性もある。
結局、聖月草にはガレスが浄化した白い灰と清水を使って香りの膜を厚くし、古城にはカイルの部隊とアリアの手配した護衛を残すことになった。
ルゥは同行。
本人――本人と言っていいのかは分からないが――が強く主張したためだ。
「ルゥ、無理はしないでね」
リリアが言うと、ルゥはふんと鼻を鳴らした。
その態度は、リリアこそ無理をするな、と言っているようだった。
カイルが城門前で敬礼する。
「団長、古城は任せてください。聖月草の周りは交代で見張ります」
「異変があればすぐ早馬を出せ」
「はい!」
ガレスは薬草袋をリリアに押しつけるように渡した。
「白露草、銀葉ミント、月桂花、それから浄化済みの白い灰を少し。使いすぎるでないぞ」
「ありがとうございます」
「あと、疲れたら休め」
「はい」
「本当に分かっておるな?」
「分かっています」
リリアが真面目に答えると、ガレスは満足そうに鼻を鳴らした。
アリアは別の包みを渡してくる。
「これは書類。リリアさんの雇用契約書の写し、証言書の写し、呪香持ち込みに関する記録。王都で揉めた時の盾になるわ」
「盾……」
「剣より効く場面も多いのよ」
アリアはにこりと笑った。
「言葉と紙で殴るのも、大事な戦い方だから」
リリアは思わず少し笑った。
「はい。大切にします」
今回同行するのは、ノア、リリア、ルゥ、エルヴィン、セシリア、そして少数の騎士たちだった。
アリアは古城に残り、証拠書類の複製と商会経由の情報収集を続ける。
ガレスも聖月草と白い灰の管理のため残る。
エルヴィンは神官騎士として王都の動きを読むため。
セシリアはエルム家屋敷の案内のため。
リリアはまだ、セシリアと長く同じ馬車に乗る自信がなかった。
そのため、リリアはノアと同じ馬車に乗り、セシリアとエルヴィンはもう一台の馬車に乗ることになった。
セシリアはそれに不満を言わなかった。
出発前、彼女はリリアの前に立ち、ぎこちなく頭を下げた。
「お姉さま。屋敷に着いたら、私が知っていることはすべて案内します」
「お願いします」
「それから……」
セシリアは少し迷い、胸元を握った。
「お父様は、たぶんお姉さまに会うのが怖いのだと思います」
リリアは目を瞬かせた。
「父が?」
「はい。手紙を書いたのに、来てほしいのか、来てほしくないのか、きっと今も迷っていると思いますわ」
その言葉は、妙に胸に残った。
父が怖がっている。
リリアを傷つけた父が。
母のことを隠していた父が。
今、リリアと会うことを怖がっている。
それをどう受け止めればいいのか、まだ分からない。
「……分かりました」
リリアはそう答えるのが精一杯だった。
馬車が動き出す。
レーヴェン古城が少しずつ遠ざかっていく。
城壁の上から、カイルが大きく手を振っていた。
薬草園の方角では、白銀の膜が朝の光を受けて淡く輝いている。
リリアは窓越しにそれを見つめた。
自分の居場所。
帰る場所。
王都へ向かうのに、そう思える場所がある。
それだけで、昔とはまるで違った。
王都へ続く道は、かつてリリアが追放されて通った道でもあった。
あの時は、雨が降っていた。
荷物は少なく、心は空っぽだった。
自分には価値がないのだと、半分信じかけていた。
今は違う。
隣にはノアがいる。
足元にはルゥがいる。
鞄の中には薬草帳と記録と、母の鍵がある。
リリアは窓の外を見ながら、小さく呟いた。
「同じ道なのに、匂いが違います」
ノアが視線を向ける。
「どう違う」
「あの時は、雨と泥と、怖さの匂いしか分かりませんでした。でも今は……遠くに黒い根の匂いもありますが、白露草の香りも、古城の香りも一緒にあります」
「古城の香り?」
「はい。薬草園と、朝の厨房と、ルゥの雪の香りと……ノア様の香草茶の香りです」
言ってから、リリアは少し恥ずかしくなった。
ノアはしばらく黙っていた。
そして、静かに言った。
「それなら、持っていけ」
「え?」
「怖くなったら、その香りを思い出せ。君が戻る場所の香りだ」
リリアは胸が温かくなるのを感じた。
「はい」
王都に近づくにつれ、空気は少しずつ変わっていった。
人の気配が増える。
石畳の乾いた匂い。
商人の荷車から漂う香辛料。
遠くの神殿区から流れてくる、甘い聖香。
そして、その奥に混じる焦げた花の臭い。
リリアは膝の上で手を握った。
王都大神殿の聖香は、以前より明らかに濁っている。
街全体へ薄く広がっているほどだ。
「ノア様」
「分かるか」
「はい。大神殿の香りが、かなり悪くなっています」
エルヴィンが別の馬車から降りてきた時、リリアはそのことを伝えた。
彼の顔は強張った。
「ここまで届いているのか」
「はい。以前より、甘さが強くて……その奥が焦げています」
エルヴィンは王都の空を見上げた。
彼にとっても、王都大神殿は守るべき場所だったはずだ。
その聖香が腐っていると認めることは、簡単ではないだろう。
だが彼は目を逸らさなかった。
「急ごう。エルム家は神殿区の外れだ」
エルム家の屋敷は、王都の北東にあった。
貴族街の中心からは少し外れた、古い屋敷が並ぶ区画。
リリアが幼い頃に過ごした場所。
鉄柵の門。
蔦の絡む外壁。
母が育てていた小さな薬草花壇。
懐かしいはずなのに、リリアの胸は落ち着かなかった。
屋敷の香りが、変わっている。
昔はもっと乾いた薬草と木の香りがした。
今はその奥に、湿った土と黒い根の臭いがある。
門の前には、エルム家の使用人が待っていた。
顔色が悪い。
リリアを見ると、驚きと安堵が混じった表情を浮かべた。
「リリアお嬢様……」
その呼び方に、リリアは一瞬だけ胸が痛んだ。
神殿へ入る前、そう呼ばれていた時期があった。
けれど、今の自分はただのエルム家の娘として戻ったわけではない。
「父は?」
リリアが尋ねると、使用人は慌てて頭を下げる。
「旦那様は書斎に。左腕のお怪我で熱が出ておりますが、意識はございます」
「黒い根は」
ノアが問うと、使用人はびくりとした。
「地下倉庫と北棟の床下に。昨夜から屋根裏の方でも音が……」
リリアは香りを読んだ。
黒い根は、屋敷の下から屋根裏へ向かっている。
まるで、母の木箱を探しているように。
「急ぎましょう」
屋敷に入ると、懐かしい廊下がリリアを迎えた。
壁に掛けられた古い絵。
磨かれた階段の手すり。
母の部屋へ続く廊下。
けれど、すべてが少しずつ黒い匂いに侵されている。
リリアは足を止めそうになった。
ここには、たくさんの記憶がある。
母が笑った記憶。
父が黙り込んだ記憶。
セシリアが泣き、リリアが責められた記憶。
その全部が、廊下の香りと一緒に戻ってくる。
ノアが半歩前を歩きながら言った。
「必要なら止まる」
「大丈夫です」
リリアは言ってから、すぐに付け足した。
「いえ……少し怖いです。でも、歩けます」
「分かった」
それだけでよかった。
無理に励まされるよりも、怖さをそのまま認めてもらえる方が、ずっと歩きやすかった。
書斎の扉の前で、セシリアが立ち止まった。
「お父様は、この中です」
彼女の声も震えている。
リリアは一度だけ息を吸い、扉を叩いた。
「入ります」
返事はなかった。
しかし中から、かすかに声がした。
「……リリアか」
父の声だった。
昔より弱く、掠れている。
ノアが扉を開ける。
書斎の中には、薬草と血の匂いが充満していた。
机のそばの椅子に、父――オルド・エルムが座っていた。
左腕には包帯が巻かれ、そこに黒い染みが滲んでいる。
顔色は悪く、目の下には深い影があった。
それでも、リリアを見ると、彼は立ち上がろうとした。
「リリア……」
「立たないでください」
リリアはすぐに言った。
父は動きを止める。
その顔に、苦いものが浮かんだ。
「そうか。お前は、もうそう言えるのだな」
リリアは胸が詰まった。
昔なら、父が立とうとすれば支えに走っただろう。
自分の痛みや怖さを押し込めて。
今は違う。
必要なことを言える。
「手紙を読みました」
リリアは言った。
父は目を伏せる。
「あれでも、足りぬほどだ」
「はい」
リリアがそう答えると、父の肩がわずかに震えた。
優しい言葉を期待していたのかもしれない。
あるいは、罵倒されると思っていたのかもしれない。
でもリリアは、どちらも選ばなかった。
「足りません。母のことも、香炉石のことも、マルド神官長のことも、私は何も知らされていませんでした」
「……ああ」
「私は神殿で、何度も自分の香りを否定されました。屋敷でも、母の薬草帳を大切にすることを、よく思われませんでした」
「すまなかった」
父の声は低い。
「私は、セレナを失ってから、香律に関わるすべてが恐ろしかった。お前が同じ道を行けば、また失うのではないかと」
「だから、私の声を聞かなかったのですか」
「そうだ」
父は目を閉じた。
「守るつもりで、閉じ込めた。だが、それは守ることではなかった」
リリアは父を見た。
怒りがないわけではない。
悲しみが消えたわけでもない。
けれど、今はそれをすべてぶつける時ではない。
黒い根が屋敷に入っている。
母の木箱が狙われている。
話すべきことは山ほどある。
でも、まずは守らなければならないものがある。
「父上」
リリアは久しぶりにそう呼んだ。
父の目が揺れる。
「母の木箱は、まだ屋根裏にありますか」
「ああ。北棟の屋根裏だ。昨夜から、箱の周りで黒い根が蠢いている」
「案内してください」
父は立ち上がろうとした。
しかし痛みで顔を歪める。
ノアが静かに言った。
「無理をするな。場所はセシリアに案内させる」
父はノアを見た。
「あなたは……」
「ノア・レーヴェン。リリアの雇用主であり、今回の調査責任者だ」
雇用主。
調査責任者。
そして、リリアの隣に立つ人。
父はその意味を理解したのか、深く目を伏せた。
「娘を……頼む資格は、私にはないのだろうな」
リリアは胸が痛んだ。
それでも、すぐに慰めなかった。
ノアも答えなかった。
代わりに、リリアが言った。
「私は、私の意思でここへ来ました」
父が顔を上げる。
「連れ戻されたのではありません。誰かに命じられたからでもありません。母の木箱を開けるために、自分で来ました」
父の目が、わずかに潤んだ。
「……そうか」
それだけを言って、彼は深く頷いた。
北棟の屋根裏へ続く隠し階段は、古い書庫の奥にあった。
セシリアが震える手で本棚の一部を押すと、壁が鈍い音を立てて動いた。
狭い階段が現れる。
上から、古い木と薬草の香りが降りてきた。
そして、その奥に黒い根の臭い。
「近いです」
リリアは言った。
ルゥが低く唸る。
ノアが剣を抜いた。
「リリアは私の後ろ。セシリアはエルヴィンの後ろに」
「はい」
階段を上るたび、黒い根の匂いは濃くなる。
だが同時に、母の香りも強くなった。
白露草。
月桂花。
清水。
そして、幼い頃リリアが眠る前に嗅いだ、優しい薬草茶の香り。
屋根裏の扉を開けると、そこには古い木箱があった。
月と香炉の紋様が刻まれた、深い茶色の箱。
その周囲に、黒い根が絡みついている。
だが、完全には触れられていない。
箱の周りに薄い白銀の膜があり、黒い根を押し返しているのだ。
母の守り。
リリアはそう感じた。
「お母さま……」
黒い根が、リリアの声に反応した。
床板の隙間から、何本も伸びる。
「来ます!」
リリアが叫ぶ。
ノアの剣が根を弾き、エルヴィンがセシリアの前で盾を構える。
ルゥが吠え、月光が屋根裏を照らす。
根は切らず、押し返す。
リリアは白露草と銀葉ミントを取り出した。
木箱を開けるには、香炉石と薄片を重ねなければならない。
だが、その瞬間に王都の石と響き合い、黒い根も目覚める。
今、すでに根は動いている。
迷っている時間はない。
「ノア様、箱の周りに香りの膜を張ります」
「できるか」
「はい。ルゥの光を借りれば」
ルゥが短く鳴いた。
任せろ、と言っている。
リリアは箱に直接触れない距離で膝をつき、白露草の香りを広げた。
「これは、母の箱です」
声は震えていた。
でも、はっきり言えた。
「あなたのものではありません」
銀葉ミントの香りが、黒い根の先を押し返す。
ルゥの月光が白銀の膜を厚くする。
根の動きが鈍った。
「今です!」
ノアが根を押さえる。
リリアは胸元の香炉石を取り出し、薬草帳から見つかった白い薄片を重ねた。
かちり。
二つの石が合わさった瞬間、屋根裏に清水の香りが広がった。
木箱の月と香炉の紋様が、淡く光り始める。
同時に、遠く王都大神殿の方角から、焦げた聖香の臭いが強くなった。
王都の石が反応している。
黒い根が一斉に暴れ出す。
「リリア、急げ!」
ノアの声。
リリアは香炉石を木箱の紋様へ近づけた。
ぴたりと、光が重なる。
箱の蓋から、母の声のような香りが立ち上がった。
――リリア。
今度は、はっきり聞こえた気がした。
リリアの目に涙が浮かぶ。
「お母さま。開けます」
木箱の鍵が、静かに外れた。
その瞬間。
王都大神殿の方角で、遠雷のような低い音が響いた。
屋根裏の黒い根が、すべて一方向を向く。
南へ。
王都の中心へ。
リリアの香炉石が熱を持つ。
木箱の蓋が、ゆっくりと開き始めた。




