第31話 母の木箱に眠る香律師の記録
木箱の蓋が、ゆっくりと開いた。
屋根裏に、清水の香りが満ちる。
古い白露草。
乾いた月桂花。
雨に濡れた石。
そして、母の薬草茶の香り。
リリアは息を止めた。
懐かしい。
幼い頃、熱を出した夜。
母が枕元に座り、そっと額を撫でてくれた。
その時に漂っていた香りと、同じだった。
木箱の中には、派手な宝石も金貨も入っていなかった。
入っていたのは、古い布に包まれた数冊の帳面。
小さな白い香炉。
乾燥した薬草の束。
そして、透明な瓶に封じられた一滴の水。
その水は、瓶の中で静かに白銀の光を放っていた。
「……清水」
リリアは呟いた。
地下水路で汲んだ水と、同じ香り。
けれど、もっと濃い。
まるで、母の記憶そのものを閉じ込めたような水だった。
ノアが黒い根を押さえながら言う。
「中身は確認できるか」
「はい。ただ、少し時間が……」
言いかけた瞬間、屋根裏の床板が軋んだ。
黒い根が、床下から一気に伸び上がる。
箱の中の瓶へ向かっている。
「狙いはその水か!」
エルヴィンが盾で根を弾いた。
しかし根は切られず、絡みつくようにまた伸びる。
ルゥが吠え、月光が屋根裏を白く照らした。
黒い根はじゅうと音を立てて後退する。
だが、完全には退かない。
王都の石が反応している。
大神殿の方角から、焦げた聖香の臭いが強く流れ込んでくる。
リリアの手首が熱く痛んだ。
――渡せ。
どこからともなく声がした。
甘く、焦げて、低い声。
地下の黒い扉の奥から聞こえたものと同じだった。
――清水も、石も、香律師も、すべて香炉へ落とせ。
「嫌です」
リリアは思わず答えた。
声は震えていた。
それでも、はっきりと。
「これは母のものです。私が受け取るものです」
黒い根が一斉にリリアへ向く。
ノアがすぐに前へ出た。
「下がれ」
リリアは一歩下がる。
そして声を出す。
「根が左側から来ます!」
ノアの剣が走り、根の進路を弾く。
カイルの代わりに同行している騎士が盾を構え、床板から伸びる根を押さえた。
セシリアは屋根裏の入口付近で、顔を青ざめさせながらも逃げずにいた。
彼女は震える声で言う。
「木箱の中身を、布ごと包めませんの? 箱を持って下がれれば……」
リリアははっとした。
そうだ。
この場で全部読む必要はない。
まず守る。
持ち出す。
安全な場所で確認する。
「白露草の布を!」
リリアが叫ぶと、ノアが腰の袋から布を取り出して投げた。
レーヴェン古城から持ってきた、白露草と銀葉ミントを染み込ませた布。
リリアは木箱に直接触れず、布を広げる。
ルゥが箱の前に立ち、月光を重ねた。
木箱の中の瓶が、淡く光る。
まるで母の清水が、ルゥの月光に応えているようだった。
「これは奪わせません」
リリアは白露草の布で、木箱の中身を一つずつ包んだ。
帳面。
小さな香炉。
薬草束。
清水の瓶。
最後に、箱の底に敷かれていた薄い板を持ち上げる。
その下に、もう一つ隠し compartment があった。
リリアは息を呑む。
中には、半透明の小さな石片が入っていた。
母の香炉石と似ている。
けれど、リリアの胸元の石とは違い、淡い青白さを帯びていた。
「香炉石……?」
リリアが近づけると、胸元の香炉石が強く熱を持った。
白い薄片も反応する。
三つの光が重なり、屋根裏に古い紋様が浮かび上がった。
月。
香炉。
清水。
そして、黒い根を封じる円環。
リリアの頭の中に、母の声が響いた。
――リリア。これは欠けた石ではありません。
木箱の底から、白銀の文字が浮かび上がる。
セレナの文字だ。
リリアは震える声で読み上げた。
「“三つに分けた香炉石は、三つの役目を持つ”」
ノアが根を押さえながら問う。
「読めるか」
「はい」
リリアは目を凝らした。
「“ひとつは香りを聞く者へ。ひとつは清水を継ぐ者の記録へ。ひとつは王都の石を眠らせるために”」
王都の石を眠らせる。
リリアの胸が大きく鳴った。
ガレスがここにいれば、きっと唸っていただろう。
「つまり、王都の石は……起こしてはいけないもの?」
セシリアが怯えた声で言う。
リリアは続きを読む。
「“王都の石は、地下香炉の片割れではない。黒い根の封じ石である”」
空気が凍った。
封じ石。
香炉を満たすための石ではなく、黒い根を封じている石。
それが王都大神殿にある。
そして今、マルドはそれを起こそうとしているのか。
エルヴィンが顔を強張らせた。
「大神殿で祀られている聖香炉の中核石……まさか、それが」
「知っているのですか」
リリアが問うと、エルヴィンは苦い顔で頷いた。
「大神殿の地下聖香炉に、代々守られている白い石がある。神殿では“王都の祝福石”と呼ばれている。聖香師でも高位神官しか近づけない」
「それが、黒い根の封じ石……」
リリアは血の気が引くのを感じた。
神殿は封じ石を祝福石として扱っていた。
いや、もしかすると意図的に名を変えたのかもしれない。
聖なるものとして祀り、香りを集め、権威の中心に置いた。
その結果、黒い根を封じる石に、欲が集まり続けたのだとしたら。
「だから腐った……」
リリアの声は掠れた。
聖なる香りは、人の欲で腐る。
地下香炉で見た言葉が蘇る。
封じるための石に、願いと欲を注ぎ続けた。
選ばれたい。
支配したい。
所有したい。
聖香を王都のものにしたい。
それが封じ石を濁らせ、黒い根を目覚めさせた。
木箱の文字は続いた。
「“マルドは石を祝福の源と呼ぶでしょう。ですが信じてはいけません。あれは源ではなく、蓋です”」
蓋。
リリアは胸元の香炉石を握った。
「王都の石を無理に使えば、黒い根が完全に出てくる……」
ノアの声が低くなる。
「マルドはそれを知っているのか」
エルヴィンが答えた。
「知らないとは思えない。高位神官は地下聖香炉の古文書を閲覧できる。神官長ならなおさらだ」
セシリアが震える。
「では、神官長様は……祝福石だと言いながら、黒い根の蓋を利用していたのですか」
リリアは木箱の文字を見た。
最後の一文が、ゆっくり浮かび上がる。
――リリア。王都の石を奪い返してはいけません。
「……え?」
リリアの声がこぼれた。
奪い返してはいけない。
母の警告は続く。
――起こすのではなく、眠らせ直しなさい。
――香炉を満たすとは、石を得ることではありません。
――土地、水、香り、人の願いを、それぞれの場所へ戻すこと。
リリアは言葉を失った。
香炉石の残りを探せと言われた。
王都の石を見つけなければならないと思っていた。
でも、奪い返すのではない。
眠らせ直す。
香炉を満たすとは、集めることではなく、戻すこと。
それは、リリアがずっとしてきたことに似ていた。
呪いを切るのではなく、ほどく。
濁りを消すのではなく、流す。
願いを奪うのではなく、自分の中へ戻す。
香りを整える。
母が残した答えは、そこにあった。
その瞬間、屋根裏の黒い根が激しく震えた。
まるで、その言葉を聞かれたくなかったかのように。
床板が割れ、太い根が木箱へ向かって伸びる。
「箱を持って下がれ!」
ノアが叫ぶ。
リリアは白露草布に包んだ木箱の中身を抱えようとした。
だが、黒い根が先に清水の瓶へ伸びる。
ルゥが飛び込んだ。
月光が弾け、根が焼けるように退く。
しかしルゥの身体がふらついた。
「ルゥ!」
リリアは思わず駆け寄りそうになる。
だが、踏みとどまった。
今は叫ぶ。
「ルゥを下げてください! 月光を使いすぎています!」
ノアがすぐにルゥを抱え上げ、リリアの後ろへ下げる。
ルゥは不満そうに鳴いたが、身体は明らかに疲れていた。
リリアは白い石片を香炉石と薄片に重ねた。
三つの石が淡く響く。
清水の香りが広がり、木箱の周囲に白銀の輪ができた。
「これは、母が残したもの」
リリアは震えながら言った。
「でも、私だけのためではない。水へ、土地へ、香炉へ戻すためのもの」
黒い根が輪に触れ、動きを止める。
リリアは続けた。
「あなたに渡すものではありません」
三つの石が強く光った。
屋根裏に絡んでいた黒い根が、一斉に白く乾いていく。
完全に消えたわけではない。
しかし、木箱へ伸びていた根だけは力を失い、床の隙間へ引いていった。
ノアが短く言う。
「今のうちに出る」
「はい」
リリアは木箱の中身を白露草布に包み、胸に抱えた。
木箱そのものは古く、重い。
すべてを持っていくことはできない。
だが、母の帳面、清水の瓶、小さな香炉、石片は守った。
セシリアが入口で叫ぶ。
「階段の下にも根が!」
エルヴィンが盾を構える。
「私が先に出る。道を作る」
ノアは頷いた。
「切るな。押し返せ」
「分かっている」
かつてリリアの言葉を聞かなかったエルヴィンが、今はその指示を守っている。
リリアは不思議な気持ちでそれを見た。
だが、感傷に浸る時間はない。
一行は屋根裏から階段へ下りた。
黒い根は、屋敷の床下へ引きながらも、完全には退いていない。
むしろ南――大神殿の方角へ、何かを伝えているようだった。
書斎へ戻ると、父が椅子から半ば立ち上がっていた。
顔色はさらに悪い。
「リリア、箱は……」
「中身は守りました」
リリアは包みを見せた。
父は大きく息を吐き、椅子へ沈み込む。
「セレナ……」
その声は、後悔と安堵でかすれていた。
リリアは父へ近づきすぎない距離で立った。
「父上。母は、王都の石を奪い返してはいけないと残していました」
父の目が見開かれる。
「では、やはり……」
「何か知っているのですか」
父は苦しげに目を閉じた。
「セレナは言っていた。王都の石は祝福ではなく封印だと。だがマルドは、それを認めなかった。大神殿の権威が揺らぐからだ」
リリアの胸が冷える。
「母は、そのことでマルド神官長と対立したのですか」
「ああ」
父は掠れた声で言った。
「そして、王都の石を眠らせ直そうとして……倒れた」
リリアの手が震える。
倒れた。
病ではなく。
母は、王都の石を眠らせ直そうとして倒れた。
その先を聞くのが怖い。
でも、聞かなければならない。
「母は、本当に病で亡くなったのですか」
父は答えなかった。
沈黙が、答えのようだった。
リリアの喉が詰まる。
ノアがそっと隣に立つ。
それだけで、膝が崩れずに済んだ。
父は長い沈黙の後、低く言った。
「セレナは、黒い根に香りを削られた。身体は病のように弱っていった。医師には病としか見えなかった。だが、私は知っていた」
「なぜ、言ってくれなかったのですか」
リリアの声は震えていた。
怒りなのか、悲しみなのか分からない。
「言えば、お前は必ず香律に近づくと思った」
「だから、何も知らないまま神殿へ?」
「……ああ」
父の声は、消えそうだった。
「私はまた間違えた」
リリアは目を閉じた。
胸の奥で、いくつもの香りが混ざる。
母の清水。
父の後悔。
黒い根の焦げた臭い。
自分の怒り。
乱れそうになる。
でも、リリアは白露草の香りを思い出した。
古城の香りを。
ノアの言葉を。
怖いまま、急がず調べればいい。
「今は、母の死について全部聞く余裕がありません」
リリアは言った。
父が顔を上げる。
「でも、後で聞きます。逃げずに話してください」
父の目が揺れた。
「……分かった」
その時、屋敷の外から馬の嘶きが聞こえた。
続いて、門の方で使用人たちの悲鳴。
エルヴィンが窓へ駆け寄り、顔色を変えた。
「神殿騎士だ」
ノアの目が鋭くなる。
「何人だ」
「十数名。大神殿の紋章旗を掲げている」
セシリアが震える声で呟いた。
「早すぎますわ……」
リリアは窓の外を見た。
白い外套の神殿騎士たちが、屋敷の門前に並んでいる。
その中央には、黒縁の白い馬車。
馬車の扉が開く。
降りてきたのは、穏やかな笑みを浮かべた老神官だった。
白い法衣。
金の聖香炉紋章。
甘く、焦げた聖香の匂い。
神官長マルド。
彼は屋敷を見上げ、まるで最初からすべて分かっていたかのように微笑んだ。
「リリア・エルム」
窓越しにも聞こえるほど、声が響く。
「神殿の聖遺物を盗み出した罪により、あなたを拘束します」
リリアの腕の中で、母の木箱の包みが淡く光った。
マルドの視線は、まっすぐそこへ向いている。
母の記録を守った直後に、神殿が来た。
王都の石も、黒い根も、もう眠ってはいない。




