第32話 神官長マルド
エルム家の門前に、白い神殿騎士たちが並んでいた。
白い外套。
金の聖香炉紋章。
整えられた隊列。
王都大神殿の権威そのもののような光景だった。
けれど、リリアには分かる。
その白さの奥から、焦げた花の臭いがする。
門前に立つ老神官――マルドは、穏やかな笑みを浮かべていた。
深く刻まれた皺。
慈悲深そうな目元。
柔らかな声。
神殿にいた頃、リリアはその声を何度も聞いた。
リリア、騒ぎ立ててはいけません。
リリア、あなたの役目は支えることです。
リリア、セシリアの邪魔をしてはいけません。
優しい言葉の形をしているのに、いつもリリアの言葉を奪っていった声。
その声が、今、屋敷の外から響いている。
「リリア・エルム。神殿の聖遺物を盗み出した罪により、あなたを拘束します」
胸が冷えた。
盗み出した。
罪。
拘束。
かつてのリリアなら、それだけで足が竦んだだろう。
違います、と言えずに、ただ震えていたかもしれない。
けれど今、腕の中には母の記録がある。
隣にはノアがいる。
足元にはルゥがいる。
背後には、まだ傷を負った父がいる。
セシリアも、エルヴィンも、この場で起きたことを見ている。
一人ではない。
リリアは息を吸った。
「怖いです」
小さく呟く。
ノアがすぐに視線を向けた。
「ああ」
「でも、下がりません」
「分かった」
ノアはそれだけ言い、窓から門前を見下ろした。
「こちらから出る必要はない。相手を屋敷へ入れるな」
エルヴィンが険しい顔で頷く。
「神殿騎士たちは命令がなければ踏み込まないはずだ。だが、神官長が正式な拘束命令を持っているなら……」
「正式かどうかを確認する」
ノアは短く言い、リリアへ向き直った。
「君は書斎に残るか」
リリアは首を横に振った。
「行きます。母の箱のことを、私の口で言います」
ノアは一瞬だけ黙った。
止められるかと思った。
しかし、彼は頷いた。
「なら、私の後ろに。箱は抱えたままでいい。渡すな」
「はい」
ルゥがリリアの足元で低く唸った。
先ほど屋根裏で力を使い、少し疲れているはずなのに、その青い瞳は鋭い。
リリアはそっと頭を撫でた。
「無理はしないで」
ルゥは聞こえないふりをした。
少しだけ、いつもの調子が戻った気がして、リリアの緊張がわずかにほどける。
一行が玄関広間へ下りると、父も椅子から立ち上がろうとしていた。
「父上、無理をしないでください」
「これは、エルム家の問題でもある」
父の顔色は悪い。
左腕の包帯には黒い染みが広がっている。
それでも、彼は杖をつきながら立った。
「今度こそ、逃げてはならん」
その言葉に、リリアは胸が痛んだ。
今さら。
そう思う。
でも、今さらでも、立とうとしている。
それもまた、リリアは見なければならないのだと思った。
玄関扉が開く。
外の空気が流れ込んできた。
甘く焦げた聖香。
湿った土。
黒い根の匂い。
門前のマルドは、リリアが姿を見せると、微笑みを深くした。
「おお、リリア。無事で何よりです。ずいぶん心配しましたよ」
その言葉に、背筋が冷える。
心配。
神殿で何度も聞いた言葉。
それはいつも、リリアを従わせるために使われた。
ノアが一歩前に出た。
「神官長マルド殿。ここはエルム家の屋敷だ。拘束命令があるなら提示してもらおう」
マルドはゆっくりとノアへ視線を向けた。
「レーヴェン卿。辺境の騎士団長が、王都の神殿法に口を挟まれるとは」
「辺境へ呪香入りの聖香箱を送り込んだ神殿が、法を語るか」
マルドの笑みが、ほんのわずかに止まった。
ほんの一瞬。
だが、リリアには香りで分かった。
焦りではない。
苛立ち。
想定よりも早く証拠を掴まれたことへの、不快感。
「何のことでしょう」
マルドは穏やかに言った。
「辺境の呪いは古く深い。聖香箱が汚染されたのなら、それはレーヴェンの呪いに触れたためでは?」
エルヴィンが前へ出た。
「違います」
マルドの視線が細くなる。
「エルヴィン」
「聖香箱は、古城へ入る前から汚染されていました。馬車の下から黒い根が発生し、香り袋からも黒蝶が出ました。私はそれを見ました」
神殿騎士たちの間に、わずかなざわめきが走る。
マルドは静かにエルヴィンを見た。
「あなたは混乱しているようですね。辺境の呪香に当てられたのでしょう」
「私は正気です」
「そうでしょうか。あなたは、逃亡した元婚約者に情を移しているのではありませんか」
その言葉に、エルヴィンの顔が強張る。
リリアの胸も小さく痛んだ。
だが、今のリリアはその痛みを自分の中心に置かなかった。
これはマルドのやり方だ。
人の弱いところを撫でて、香りを乱す。
エルヴィンの後悔。
リリアの傷。
セシリアの劣等感。
父の罪悪感。
それを一つずつつつき、黒い根の餌にする。
「その言い方は、香りを濁らせます」
リリアは気づくと、そう言っていた。
マルドの目がこちらへ向く。
「何ですって?」
声は穏やかだった。
しかし、その奥が冷たい。
リリアは腕の中の包みを抱え直した。
「人の後悔や恐れを刺激して、判断を乱そうとしている香りがします」
神殿騎士たちが今度こそ明確にざわめいた。
セシリアが息を呑む。
マルドは静かに笑った。
「相変わらずですね、リリア。香りがどうのと、根拠のないことを」
「根拠ならあります」
リリアの声は震えていた。
でも、引っ込めなかった。
「あなたがセシリアに渡した香り袋から黒蝶が出ました。あなたが持たせた聖香箱から黒い種が出ました。その種には、セシリアの願いと、あなたの支配の香りが残っていました」
マルドの目が、わずかに鋭くなる。
「支配?」
「はい」
怖い。
でも、言う。
「聖香を王都だけのものにしたい。封じ石を祝福石として扱い、そこに人々の願いを集めたい。その香りです」
マルドの微笑みが、初めて少しだけ薄くなった。
ノアがリリアの前に立ったまま、静かに言う。
「拘束命令を見せろ。なければ退け」
マルドは袖の中から一枚の書状を取り出した。
白い紙。
金の封蝋。
王都大神殿の正式な紋章。
「ありますとも。リリア・エルムは、大神殿所有の聖遺物を持ち出し、呪香汚染に関与した疑いがある。身柄を拘束し、聖遺物を回収する」
ノアは書状を見た。
「大神殿所有とあるが、その根拠は」
「セレナ・エルムは、かつて大神殿の香律研究に関わっていました。その遺した品は、神殿研究物として扱われます」
父が杖を強く握った。
「違う」
その声は弱いが、はっきりしていた。
「セレナは神殿に協力していたが、所有物を譲渡したことはない。あの木箱は、妻が娘へ遺したものだ」
マルドは父を見た。
「オルド殿。傷が深いようですね。無理をなさらない方がいい」
「その傷を作った根を屋敷へ入れたのは、あなた方だ」
「証拠は?」
マルドの声が少し冷えた。
父は息を詰める。
そこへセシリアが一歩前に出た。
顔は青い。
けれど、彼女は両手を握りしめて立っている。
「私が証言しますわ」
マルドの目がセシリアへ移る。
「セシリア」
その声は、とても優しかった。
けれどセシリアはびくりと肩を震わせた。
リリアには分かった。
セシリアはまだ、あの声を怖がっている。
選ばれたと信じた声。
自分を特別にしてくれたと思っていた声。
そして、自分の願いを餌にした声。
「あなたは疲れているのでしょう。こちらへ来なさい。大神殿で休ませてあげます」
セシリアの香りが揺れた。
怖れ。
迷い。
それから、ほんの少しの甘い願い。
戻れば許されるかもしれない。
また選ばれるかもしれない。
黒い根が、門の下でわずかに蠢いた。
リリアはすぐに言った。
「セシリア」
セシリアがはっとこちらを見る。
「黒蝶に渡さないで」
セシリアの唇が震える。
そして、彼女は胸元に手を当て、深く息を吸った。
「……怖いですわ」
小さな声。
けれど、それは自分の言葉だった。
「でも、戻りません。少なくとも、今のままでは」
マルドの笑みが消えた。
セシリアは震えながら続ける。
「神官長様。あなたは私に香り袋を渡しました。特別な守りだと。けれど中には黒蝶がいました。聖香箱も、あなたが持たせたものです。私は、それを証言します」
神殿騎士たちのざわめきが大きくなる。
マルドの周囲の香りが、ゆっくりと変わった。
甘さが濃くなる。
腐った蜜のような匂い。
「残念です」
マルドは低く言った。
「あなたまで、辺境の呪いに惑わされましたか」
「惑わしたのは、あなたです」
リリアの声が響いた。
自分でも驚くほど、はっきりと。
マルドの視線が、再びリリアへ向く。
「リリア。あなたは昔から、そうでしたね。香りが分かると言って、周囲を不安にさせる。自分が特別だと思いたいのでしょう」
胸の奥を、冷たい指で撫でられたようだった。
自分が特別だと思いたい。
違う。
でも、その言葉は昔のリリアを何度も黙らせた。
役立たずのくせに。
香り係のくせに。
セシリアの邪魔をしているだけ。
記憶が一瞬で蘇る。
リリアの呼吸が乱れかけた。
その時、腕の中の母の包みから、清水の香りがふわりと立ちのぼった。
――リリアが、自分の香りを信じられる日が来たら。
母の文字。
母の声。
リリアは息を吸った。
「特別だと思いたいわけではありません」
リリアは言った。
「怖かったんです」
マルドの眉がわずかに動く。
「神殿で、誰も私の言葉を聞いてくれなかった。私自身も、自分の感じる香りを信じきれませんでした。だから、怖かった」
リリアは一歩だけ前へ出た。
ノアの背中の少し横。
一人で前に出るのではない。
守りの中で、自分の言葉を出す。
「でも、怖いことと、間違っていることは同じではありません」
ルゥが足元で低く鳴いた。
月の光が、リリアの影を淡く照らす。
「私はもう、あなたの言葉で自分の香りを捨てません」
マルドの顔から、慈悲深い笑みが完全に消えた。
そこに現れたのは、冷たい苛立ちだった。
「では、力ずくでも回収しましょう」
マルドが手を上げる。
神殿騎士たちが一斉に動きかけた。
だが、エルヴィンが前へ出て叫ぶ。
「待て! この拘束命令には疑義がある! 聖香箱汚染の証言と、神官長の関与が確認されるまで、執行すべきではない!」
神殿騎士たちが迷う。
エルヴィンはまだ神官騎士だ。
彼の声には、現場の騎士を止めるだけの重みが残っていた。
マルドは冷たく言った。
「エルヴィン。あなたは本日付で任務を解かれています」
エルヴィンの顔が強張る。
「何……?」
「辺境での任務中、呪香に汚染され、判断力を失った疑いがあります。神官騎士としての権限は停止されています」
白い書状がもう一枚示される。
用意されていたのだ。
エルヴィンを切り捨てるための書状が。
セシリアが震える。
「そんな……」
マルドは淡々と続けた。
「神殿騎士諸君。命令を執行しなさい」
騎士たちが再び動く。
ノアの剣が抜かれた。
空気が張り詰める。
その瞬間、屋敷の床下から黒い根が噴き上がった。
神殿騎士たちの足元ではない。
エルム家の玄関前。
リリアたちとマルドの間に。
黒い根は壁のように立ち上がり、甘く焦げた臭いを放つ。
神殿騎士たちが悲鳴を上げて下がる。
マルドは動かなかった。
むしろ、その黒い根に向かって静かに手をかざす。
「見なさい。リリアが聖遺物を開いたために、呪いが暴れ始めた」
「違います!」
リリアは叫んだ。
黒い根の香りを読む。
これはリリアが起こしたものではない。
マルドの聖香に反応している。
彼が持つ黒い器のような匂いに引かれている。
マルドの袖の奥。
そこから、焦げた甘い香りが漏れている。
「あなたが持っているものです」
リリアは言った。
マルドの手が、わずかに止まる。
「袖の中に、黒い器がありますね。王都の石を起こすための、呪香の器」
マルドの目が細くなった。
神殿騎士たちが動揺する。
「馬鹿なことを」
「その器が、黒い根を呼んでいます」
リリアは白露草を取り出した。
しかし、ノアが低く言う。
「無理に近づくな」
「近づきません。香りだけ通します」
リリアは母の包みを胸に抱き、白露草と銀葉ミントを合わせた。
そこに、木箱から見つけた清水の瓶をほんの少しだけ近づける。
清水の香りが広がった。
黒い根が一斉に震える。
マルドの袖の奥から、黒い靄が漏れた。
神殿騎士の一人が叫ぶ。
「神官長、その袖は……!」
マルドは舌打ちこそしなかったが、香りが一瞬だけ乱れた。
リリアはその隙を逃さなかった。
「この根は、私のものではありません。母の木箱のものでもありません」
清水の香りが、黒い根の壁へ触れる。
根は消えない。
しかし、その先端がマルドの方へ向き直った。
まるで、本当の主を指し示すように。
「根は、あなたの器に反応しています」
リリアの声が、門前に響いた。
神殿騎士たちの視線が、マルドへ集まる。
マルドは沈黙した。
そして、ゆっくりと笑った。
その笑みは、もう慈悲深くなかった。
「セレナの娘は、厄介ですね」
初めて、彼はリリアを“リリア”ではなくそう呼んだ。
セレナの娘。
その言葉に、リリアの香炉石が熱を持つ。
マルドは袖の奥から、小さな黒い香炉を取り出した。
表面に金の聖香炉紋章が刻まれている。
しかし、その隙間から黒い根が細く出入りしていた。
「本来なら、もう少し穏やかに回収するつもりでしたが」
黒い香炉から、甘く焦げた煙が上がる。
神殿騎士たちが悲鳴を上げて後退する。
マルドは構わず続けた。
「仕方ありません。王都の石を起こす前に、あなたの香りを削らせてもらいましょう」
黒い煙が蝶の群れになる。
狙いは、リリア。
ノアが剣を構え、ルゥが吠える。
リリアは母の清水を抱きしめた。
怖い。
でも、もう黙らない。
黒蝶の群れが、門前の空を覆った。




